第8話 日曜ランチと誘拐騒ぎ(前編)
日曜の昼下がり。
ねむは布団の中で丸まっていたが、階下から声が響いた。
「――ねむー、もうお昼だよ。起きなさい、寝坊助さん」
むにゃむにゃと頭をかきながら、自室のドアを開ける。
階段をふらふらと降りると、キッチンから母が顔を出した。
「おはよう、寝坊助」
「……おはよ」
椅子に腰を下ろすと、湯気の立つ味噌汁と炊きたてのご飯が並んでいる。
ねむは箸を持ち、ぼんやりした顔のまま味噌汁を啜った。
「ん……ちょっとしょっぱい……でもおいし」
そのままご飯をぱくぱくと口に運ぶ。
ふと思い出したように顔を上げる。
「仕事は順調? ミステリー小説、書けてる?」
母は湯呑みを手に取り、にっこり笑った。
「もちろん。お母さん、すごいんだから。アイデアなんていくらでも出てくるのよ」
「へぇ、流石だね」
「でもね、いくら出しても採用されるかは打ち合わせ次第。編集さんに気に入られなきゃ、世に出ないのよ」
肩をすくめる母の横顔を見ながら、ねむは心の中でつぶやいた。
(……仕事って大変だなぁ)
ちゃぶ台に湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並び、ねむはまだ眠気の残る顔で箸を動かしていた。
ピンポーン。
「失礼しまーす」
玄関から明るい声が響き、ほどなく居間に姿を見せたのは、母の担当編集――橘 沙耶だった。
すらりとしたスーツ姿に爽やかな笑み。母にとっては仕事の相手であり、家族ぐるみで親しくしている存在だ。
「ねむちゃん、こんにちは」
「……こんにちは」
ねむは味噌汁を手にしたまま、ぺこりと小さく頭を下げた。
「来巻さーん、原稿を取りに来ました」
「えー、データで送るって言ったじゃない」
母が笑いながら言うと、橘は肩をすくめた。
「いやぁ、どうしても早く読みたくて。やっぱり紙で直に見たいんですよね」
「わざわざ来なくても橘ちゃん、忙しいんだから。もう、仕事熱心なんだから。せっかくだし、ご飯食べていきなさいよ」
母に勧められ、橘は「では遠慮なく」と席に着いた。
ねむと橘、母の三人で食卓を囲む。
橘は茶碗を手に取りながら、ふっとねむに視線を向ける。
「ねむちゃん、最近学校はどうなの?」
ねむは箸を止め、面倒くさそうに答えた。
「うーん……普通。退屈」
「そうだよね、私も学校嫌いだったなー」
橘は優しく笑う。編集者らしく、人の話を引き出すような雰囲気だった。
ねむは少しだけ口元を緩めて続ける。
「でも……放課後はちょっと楽しくなってきたかも」
橘の目がきらりと輝く。
「えっ、それって……もしかして彼氏でもできた?」
「そ、そんなんじゃない!」
ねむは耳まで赤くして、慌ててご飯をかき込んだ。
母が「ふふ」と楽しそうに笑い、橘もいたずらっぽく口元を緩める。
そのとき、ねむのスマホが小さく震えた。
机の下でそっと画面をのぞくと、表示された名前は――楠木。
(……またこの人か)
通知だけ開き、既読をつけないように本文を確認する。
――『困ったことになった。助けて欲しい』
ねむは小さくため息をつき、画面を伏せた。
(……また事件? こっちはご飯中なんですけど)
橘と母の笑い声が響く食卓で、ねむひとりだけが眉をひそめていた。
ねむがスマホを伏せていると、再び振動音がした。表示された名前は同じく――楠木のものだった。
(まったく、しつこいな)と思いながら画面を開くと、短い一行が追い打ちのように届いている。
――『誘拐事件なんだ』
「誘拐事件かー」
ねむは思わず口を漏らす。どこか他人事めいた好奇心が胸をくすぐられる。
(ちょっとおもしろそうだな……気になる)
食卓の上に箸を置き、ねむは返信を打った。
『いいよ。今日は予定ないから、手伝ってあげる。迎えに来て』
送信ボタンを押すと、ねむは残りのご飯をかき込んで、すっと席を立った。手早く服を着替え、スマホを握り、バッグを肩にかける。荷物は最小限――いつも通りの、簡素な支度だった。
橘がこちらに気付き、ねむの方を見た。
「ねむちゃん、どこか行くの?」
「ちょっと出掛けてくるだけ。すぐ戻るよ」
ねむは手早く髪を束ね、母に向かって手で合図する。
母は笑って肩をすくめる。
「気をつけてね。夕ご飯までには帰るのよ」
「りょうかーい」
ねむは軽く言って、玄関のドアを開けた。外の空気がすっと肌を撫でる。
少し歩いた、路地の先に黒いセダンが流れるように止まり、窓が開いた。運転席には楠木。いつもの少し困ったような表情で、こちらを見つめている。
「今回はなんですか?」
ねむは車に乗り込みながら言い放った。
車のドアが閉まると同時に、楠木は深く息を吐いた。
「……困ったことになった」
「いつも困ってるじゃないですか」
ねむはシートベルトを締めながら、呆れたように返す。
楠木は苦笑もできず、ハンドルを握ったまま真剣な声を落とした。
「警視庁刑事部長の息子が……誘拐されたんだ。しかも、身代金を要求する脅迫状まで届いている」
ねむは目を瞬かせた。
「へぇ、警察の偉い人の息子ねぇ……」
楠木は視線を前に固定したまま続ける。
「上層部もこの件を公にできない。警察の面子に関わるからね。だから、極秘で“優秀な刑事だけ”を集めて捜査することになったんだ」
ねむは口を半開きにして、じっと楠木を見つめた。
「へぇ……で、その“優秀な刑事”って?」
「……僕だ」
楠木は自嘲気味に笑い、額を押さえた。
「最近、君に協力してもらっていくつか事件を解決しただろ? その話が上に伝わって、なぜか僕に白羽の矢が立ったんだ。……だけど、今回は全然見当がつかない」
楠木の声には焦りがにじんでいた。
ねむは思わず口元を緩め、肩をすくめる。
「今回はじゃなくて、いつもじゃないですか。で、ポンコツ刑事さんはお手上げ、と」
「……手厳しいな」
楠木は力なく笑う。
「でもさ」
ねむは窓の外に視線を向け、いたずらっぽく口角を上げた。
「誘拐事件って、ちょっと面白そう。暇だし、手伝ってあげる」
「暇だしって……でも、君にそう言ってもらうと、心強いよ」
楠木は苦い顔をした。
ねむはひょいとスマホを弄びながら、にやりと笑う。
「じゃ、詳しい話を聞かせて下さい」
「事件が起きたのは――二日前の夜だ」
楠木は信号待ちの間に、グローブボックスから一枚の資料を取り出した。
「被害者は刑事部長の末っ子、山城優太くん(12)。塾を出た後、帰りに寄った大きめのスーパーで何者かに連れ去られた」
ねむは窓の外を見ながら、まぶたをわずかに持ち上げた。
「へぇ、塾帰りの誘拐か……それで?」
「兄の大輝が一緒にいたそうだ。塾を出て、スーパーに寄った時に弟が『トイレ行く』って言って、そのまま戻らなかった。兄はすぐ探したが見つからず、結局一人で家に帰った。で、その夜――犯人から電話がかかってきた」
楠木の声に、車内の空気が一瞬張り詰める。
ねむは顎に手を当てた。
「……誘拐事件として正式に動いたのはそこから、ってことね」
「そうだ。刑事部長本人も動揺していて、事件は極秘扱い。記者にも警察内部にもまだ伏せられてる」
ねむは小さく息を吐いた。
「つまり、外部に情報が漏れたらアウト……か。けど、それにしても情報が少ないね」
楠木は軽くうなずく。
「他に分かってるのは……犯人が二人組、もしくはそれ以上の可能性が高い」
「二人組?」
ねむが首を傾げる。
「最初に電話をかけてきた犯人と、二回目の電話で話した犯人――声も、話し方も、明らかに違うんだ」
楠木はハンドルを握り直しながら続けた。
「どちらもボイスチェンジャーを使ってたが、言葉の癖が違う。発音の抑揚や間の取り方も別人だ。だから複数犯、もしくはグループで動いている可能性が高い」
「なるほどね……」
ねむは腕を組み、しばし黙り込む。
「一人じゃない、ってことは……プロの可能性がある。計画的犯行かもね」
「かもしれないな。現場に争った形跡はなく、悠太くんのカバンだけが残されていた。監視カメラにも映っていない。うまく死角を突いて連れ去ったんだろう。……正直、手際が良すぎる」
「手慣れてる感じ、ってわけね」
ねむは窓の外に目をやる。
「でも、“警察幹部の息子”を狙うなんて。身代金目的にしては、リスクが高すぎ」
「逆に、そういう相手だからこそ、早めに金を出すって踏んだのかもな」
楠木はそう言い、軽くハンドルを切った。
車はいつの間にか都心を離れ、静かな住宅街へ入っていた。
「……ん?」
ねむが顔を上げると、白い高級住宅の前で車が止まった。
「ここが――山城家だ」
楠木が短く告げ、続けて低く言う。
「一応、中にいる顔ぶれを先に共有しておく」
彼は指を折りながら、囁くように要点だけを並べた。
- |特別捜査班・係長 桐原 慎吾 38歳
現場統括。規律に厳しく、ねむ同席に不快感。楠木の先輩。
- |情報分析官 佐久間 翔 33歳
現場の端末でログ解析など担当。寡黙。山城家でPC操作。
- |警視庁・刑事部長/被害者の父 山城 貴臣 52歳
権威的で厳格。面子を気にするが、最終的に捜査優先を了承。
- |母 山城 美穂 47歳
心労が深い。最初の犯人電話を受けた当人。
- |長男・高校生 山城 大輝 14歳(中学3年)
高臣に反発心を抱える。弟想い。
- |次男・被害者 山城 優太 9歳(小学四年生)
塾帰りに行方不明。ボーイスカウト継続中で芯が強い。
- |叔父・実業家 山城 俊郎 49歳
貴臣の弟。人当たりが良く、兄弟仲は良く、兄宅に頻繁に出入り。大輝・優太とも親しい。会社経営者。
「だからな――」と楠木は念を押す。「中ではくれぐれも刺激しないでくれ」
門の内側には、スーツ姿の警察官が二人。報道陣の姿は一切ない。
厳重な沈黙の中に、重い緊張感が漂っていた。
ねむはドアを開け、外気に触れながら小さく息を吸った。
「ふーん……立派な家なんだね」
楠木は苦笑いを浮かべつつも真剣な表情を戻す。
「くれぐれも軽口は控えてくれよ。刑事部長本人が中にいる」
「何回も言わなくても分かってますって」
ねむは軽く片手を上げながら、真顔で続けた。
「無事に解決できるといいんですけどね」
楠木は思わずねむを見た。
彼女の目が一瞬だけ鋭く光る。
「……おいおい、来たばかりで怖いこと言うなよ」
ねむはいたずらっぽく笑った。
「勘です、勘。でも――何か変ですよ、この事件」
その言葉を最後に、二人は山城家の門をくぐった。
室内に入った瞬間、ねむは息を飲んだ。
空気が重い。緊迫というより、張りつめた糸のような静けさだった。
「――失礼します」
楠木が一歩前に出て頭を下げる。
リビングの中央、深い色のソファに腰を下ろした男が鋭い目を向けてきた。
「おい、楠木。関係ないやつを連れてくるなって言っただろ!」
ねむは肩をすくめる。怒鳴った男は、スーツ姿で短髪。捜査の指揮を取る人物のようだ。
「す、すみません桐原さん。姪っ子が現場を見学したいって言って聞かなくて……」
「お前なぁ……!」
怒気を含んだ声に、楠木はぺこぺこと頭を下げた。
桐原と呼ばれた男は、深いため息をつきながら楠木の腕をつかみ、部屋の隅へと引っ張っていく。
ねむは周囲を見回した。
ソファには、不機嫌そうに腕を組む中年の男――おそらく刑事部長の山城貴臣。
その隣で顔をこわばらせているのが妻だろう。
部屋の隅ではノートPCを操作している若い男性が一人、もう一人は黙ってコーヒーを飲んでいる。
解放された楠木がそっとねむのそばに戻ってくる。
「ねぇ、誰が誰かさっぱりなんだけど」
ねむが小声で言うと、楠木は耳元で説明を始めた。
「まずあの腕組んでるのが山城貴臣さん。警視庁の刑事部長で、今回の被害者の父親」
「うん、なんとなく分かる。偉そうだもんね」
「その隣が奥さんの美穂さん。精神的にかなり参ってる。」
ねむは部屋の隅に目をやった。
窓際のテーブルで、落ち着いた様子でコーヒーを口にしている男がいる。
「……あそこでコーヒー飲んでるおじさんは?」
小声で尋ねると、楠木が手帳を開きながら答えた。
「あれは山城俊郎さん。刑事部長の弟さんだ。いくつか会社を経営しているらしい。貴臣さんのところにはよく顔を出していて、息子さんたちとも仲がいいそうだ」
「なるほど、わかりやすい」
ねむは小さくうなずき、さらに耳打ちを促すように顔を寄せた。
「あと、さっき怒鳴ったのが桐原慎吾さん。特別捜査班の係長。
こっちのパソコンいじってるのが佐久間翔。情報分析官だ」
「ふぅん……」
ねむは周囲をもう一度見回した。
そのとき――扉がノックもなく開いた。
ねむと同じくらいの年の少年が入ってくる。制服のまま、手にはスマホを握りしめていた。
ねむは小声で楠木に尋ねる。
「……あれ、誰?」
楠木が小さく答える。
「長男の――山城大輝くんだ」
「あれが……」
ねむは少年の横顔をちらりと見る。
冷たく澄んだ目。どこか怒りと諦めが混ざったような表情だった。
その瞬間、重い声が響いた。
「――入ってくるなと言ったはずだろう」
怒鳴ったのは、ソファに座る山城貴臣。
刑事部長らしい威圧感が部屋に満ちる。
「なんだよ、それ。弟がいなくなってんのに、俺は部屋に入ることも許されないのかよ!」
大輝が声を荒げた。
その口調には反抗よりも、焦りと苛立ちが滲んでいた。
「今は警察の捜査中だ。お前の出る幕はない」
貴臣の声は低く、冷たかった。
「心配するのもダメなのかよ……どうせ、今回もあんたの面子のためだろ!」
大輝はテーブルを強く叩き、顔を背ける。
空気が一気に凍りつく。
その場にいた誰もが息を詰めた。
「……大輝」
母の美穂が何か言いかけたが、少年は無視して踵を返した。
「もういいよ!」
そう吐き捨てて、乱暴にドアを閉めて出ていく。
しばらくして、コーヒーを手にしていた中年の男――さきほど楠木が言っていた弟、山城俊郎が立ち上がる。
「僕が行ってくるよ」
そう言って、ゆっくりと大輝の後を追った。
「……お前も外に出ろ」
桐原がねむを見た。
「えー……」
ねむは不満げに口を尖らせたが、結局ため息をついてうなずく。
「分かりましたよ」
ドアの方へ向かうと、後ろから楠木の視線を感じた。
振り返ると、彼はまるで怯えた子犬のような顔をしていた。
ねむは思わず吹き出しそうになり、肩をすくめる。
(せっかく本物の誘拐事件の現場が見られると思ったのにな……)
(ま、仕方ないか。――長男から話、聞いてみよっと)
ねむが廊下に出ると、少し先の突き当たりで声がした。
見ると、大輝と叔父の俊郎が立っていた。俊郎は両手を軽く上げて、なだめるように話している。
「……お父さんも立場があるからあんな態度になってるだけだ。ホントはとても心配してる、お前のことも悠太のことも」
「わかってるけど……」
大輝の声はまだ荒いが、先ほどのような刺々しさは少し和らいでいた。
ねむは廊下の角に体を寄せ、そっとその様子をうかがう。
(あの叔父さん……やっぱり経営者だな、人当たりがいいな)
やがて俊郎はため息をつき、ねむに気付くと軽く微笑んで部屋の方へ戻っていった。
残された大輝がふと視線を上げ、ねむと目が合う。
「……なんだよ」
むすっとした顔で言う。
(うわ、かわいくないやつ)
ねむは心の中でぼやきながらも、平然と歩み寄った。
「ちょっと話、聞いてもいい?」
「……いいけど」
大輝はぶっきらぼうに答え、二階に上がりドアを開けて自分の部屋へ入る。
ねむもついて中に入ると、思ったよりも整頓された空間が広がっていた。机の上には教科書とノートがきちんと並び、本棚には参考書がずらりと並んでいる。
(几帳面だな……男子高校生の部屋って、もっと散らかってるもんだと思ってたけど)
視線を巡らせていると、棚の上に写真立てがあった。
そこには大輝と悠太がボーイスカウトの制服を着て、笑顔で並んで写っている。
「仲いいんだね、弟くんと」
ねむが写真を指さすと、大輝は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「まぁな」
「ボーイスカウト入ってるの?」
「ああ。以前な。俺は入ってすぐやめたけど。優太は今もちゃんと続けてる。あいつ、意外と芯があるんだよ」
そう言って、ほんの少し笑う。
ねむはその横顔を見て、胸の中で思った。
(……本当に仲いいんだ)
部屋に静かな時間が流れる。
それは一瞬、誘拐事件の現場だということを忘れてしまうほど穏やかな空気だった。
ねむは部屋の中央に置かれた座布団を見つけ、ちょこんと腰を下ろした。
「いい? ちょっとだけ、聞きたいことがあるの」
大輝も向かいに座る。腕を組んで、少し面倒くさそうな顔をしていた。
「……事件の時のこと、教えて。塾の帰りに弟くんがいなくなったんだよね?」
「……あぁ」
大輝は短く返事をするが、どこか歯切れが悪い。
ねむは軽く首を傾げながら、静かに促した。
「その時、君は一緒にいたんでしょ? どんな様子だったか、思い出せる範囲でいいから」
「……塾が終わって、いつも通り歩いてた。途中で、優太がトイレ行きたくなって……スーパーに寄ったんだ。俺が目を離したすきに」
大輝は目を伏せたまま続ける。
「戻ったら……悠太がいなかった」
「ふぅん」
ねむは膝の上で指を組みながら、彼の表情をじっと観察する。
「その時、誰か見かけなかった? 怪しい車とか、人とか」
「……いや、特には」
言葉に詰まりながらも、なんとか答える大輝。
「ふぅん……」
ねむの目が細くなる。
(“いや、特には”か……あやふやすぎる。何か――隠してる感じがする?)
少し間を置いて、ねむは視線を外したまま尋ねた。
「じゃあ、弟くんがいなくなってから、何か手掛かりとか……変なことは?」
大輝は一瞬、考えるように口を噤んだ。
そしてゆっくり顔を上げたが、その目がどこか泳いでいる。
「……いや、特には……ない」
ねむはその反応を見逃さなかった。
(……今、考えてから“ない”って言った。完全に怪しい)
ねむは背筋を伸ばし、そっと大輝の目をのぞき込んだ。
「……ねぇ、大輝くん。何か隠してない?」
大輝はわずかに肩をすくめ、視線を外した。
「……何も」
ねむは少しだけ声をやわらげ、膝の上で両手を組んだ。
「私は味方だよ。何かあったら、教えて欲しいの」
その言葉に、大輝の指先がぴくりと動く。しかし口は開かない。
「……別に、何もないって」
ねむは唇を軽く噛み、心の中で焦りを抑えた。
(……やっぱり、言わないか)
ねむは小さく息を吐き、立ち上がった。
「ありがと。……もし何か思い出したら、すぐ教えて」
大輝は返事をしなかったが、指先だけがわずかに動いた。
階段を降りると、リビング脇の廊下に美穂が立っていた。
ねむがぺこりと会釈すると、美穂はかすかに微笑む。
「ありがとうね。大輝を……慰めてくれて」
「いえいえ」
ねむは首を振った。
「ところで――兄弟、仲良かったんですね」
美穂の目元が少しだけ柔らぐ。
「ええ。優太は、大輝のことが大好きで。何をするにもついて回って……ボーイスカウトも、兄の真似をして始めたんです」
ねむはうなずき、少し声を落とした。
「……でも、貴臣さんと大輝くんは、あまり仲が良くないように見えました」
美穂は言葉を選ぶように視線を伏せた。
「夫は――大輝に、つい期待をかけすぎてしまうんです。厳しく育てるのが愛情だ、って信じている人で……」
「プレッシャー、ですよね」
ねむがそっと添えると、美穂は小さく頷いた。
「中学受験に失敗したとき、それがさらに拗れて……口論が増えました。今日のような……本当に、お恥ずかしい話です」
声の端がかすかに震える。
ねむは少しだけ間を置き、柔らかく言った。
「恥ずかしくなんてないですよ。――家族でも、気持ちを伝えるのが難しいものですから」
美穂はありがとうと小さく呟き、ハンカチで目元を押さえた。
「そういえば――最初に電話を取ったのは、どなただったんですか?」
ねむがふと思い出したように問いかける。
美穂は少し驚いたように瞬きをしてから、穏やかに答えた。
「私よ。最初に鳴ったとき、貴臣さんは別室にいたから」
「そのときの声、覚えてますか?」
ねむは椅子の背にもたれず、まっすぐ彼女を見つめた。
「……焦っているような感じだったわ。息が少し上ずっていて、どこか話し慣れていないというか……。
“貴臣を出せ”って、それだけ言われて。私が貴臣さんに代わると、あの人がすぐに怒鳴り返したの」
ねむは目を細める。
「そのとき、犯人は身代金の話を?」
「ええ。“百万円を用意しろ”って言ってたわ」
ねむの眉がぴくりと動く。
「……ずいぶん安いですね。警察幹部の子供を誘拐して、百万円?」
美穂は静かにうなずく。
「ええ、私も不思議に思ったの。でもそのあと、また別の電話がかかってきたのよ。今度は貴臣さんが直接出たんだけど――」
彼女の声がかすかに震えた。
「そのときの犯人は、全然違った。落ち着いてて、言葉もはっきりしていたわ。……まるで慣れてる感じだった」
ねむはわずかに前のめりになる。
「慣れてる?」
「ええ。そして、今度は“身代金を一億円にする”って」
リビングの扉が開き、足音が廊下に響いた。
「……ちょっと、トイレ行ってきます」
楠木の声だ。
彼はいつものように気まずそうな顔で出てくる。
「じゃあ、私、そろそろ戻るわね」
美穂は立ち上がり、優しくねむに会釈した。
「ありがとう。少し話しただけで、少し気持ちが落ち着いたわ」
「いえ。こちらこそ、いろいろ教えてくださってありがとうございます」
ねむは頭を下げた。
美穂がリビングへ戻っていくと、楠木がすぐにねむの方へ駆け寄ってくる。
その顔には疲労と焦りが混ざっていた。
「……もう、限界。桐原さんとかみんなの期待の視線がキツすぎて、マジで倒れるかと思った」
ねむはぷっと吹き出した。
「根性ないなぁ」
「それより、何か分かった? さっき美穂さんと話してたみたいだけど」
楠木が小声で問う。
ねむは唇に指を当て、少しだけ得意げな表情を浮かべた。
「――謎は、解けそう」
「ホントか?」
楠木が眉をひそめる。
「ねぇ、監視カメラって確認したんですか?」
ねむは首をかしげながら言った。
「ほら、スーパーの出入り口とか、スーパーから塾の途中の道とか」
「……ああ。もちろん確認したよ。」
ねむはじっと楠木を見た。
「もしかして――スーパーに入っていく兄弟の姿、ちゃんと確認できてないんじゃない?」
楠木は目を見開いた。
「……その通りだ。スーパーには複数の出入り口があって、カメラが設置されてない場所もある。
そこから入ったって大輝くんは言ってた。監視カメラに映ってたのは……弟を探してる大輝くんだけだった」
「やっぱりね」
ねむは目を細める。
「しかも、塾からスーパーへの道のりで二人が映っているところはなかったんじゃない?そして、スーパーの監視カメラに映っていたのは優太くんを探している大輝くんだけ。」
ねむが言う。
楠木は息を呑んだ。
「……なんで、それを?」
ねむは心の中で思考をまとめた。
(大輝くんの曖昧な証言。弟の姿がどこにも映っていない監視カメラ映像。
それに――最初の電話の焦った声。百万円という低い金額。
次の電話では一転して慣れた口調で一億円の要求。
――単なる“グループ犯”の分担、ってわけじゃない。
最初の電話は……)
ねむはにやりと笑い、指を鳴らした。
「――謎が解けたよ」
楠木は目を丸くしたまま、ぽかんと口を開けた。
「な、なにが?」
ねむは小さく笑って肩をすくめた。
「後で教えてあげます。……ポンコツ刑事さんでも、びっくりすると思うから」
その目は冗談めいていながらも、どこか鋭く光っていた。
面白いと思ってもらえたら、ブクマしてもらえると嬉しいです。
トリックの感想とか、「ここが気になった」って一言でも大歓迎です。