第6話 死へのペアリング
昼休みの教室。
パンをかじりながら机に突っ伏していたねむに、声がかかる。
「……あの、来巻さん」
顔を上げると、少し照れたように立っていたのは藤田悠真。クラスでも目立つ男子のひとりだ。
「今日、放課後って……用事ある?」
言いながら、耳のあたりをかすかに赤くしている。
ねむはぼんやりとまぶたをこすり、しばらく考え込む。
(えっと……放課後は……)
頭に浮かんだのは、凛子の顔。そうだ、今日は楠木に“超高級フレンチ”を奢らせる約束だった。
「ごめん、今日は無理」
ねむはあっさりと答える。
「そっか……。いや、別に大したことじゃ──」
悠真が言いかけたとき、教室の後ろから声が飛んだ。
「悠真くーん!」
数人の女子が手を振っている。彼は小さくため息をつきながらも、呼ばれた方に顔を向けた。
ねむはパンの袋をクシャッとしてから、軽く片手を振る。
「ほら、呼ばれてるよ。行ってあげなよ」
そう言うと、机に突っ伏して目を閉じる。もうすっかり昼寝体制だ。
悠真は一瞬だけ名残惜しそうにこちらを見たが、結局渋々その女子たちの輪へ歩いていった。
(……モテる人も大変だなぁ)
ねむは心の中でそうつぶやき、あっという間に夢の世界へ落ちていった。
気付けば、もう放課後。
いつもなら机に突っ伏したまま誰かに起こされるねむだが、今日は違った。
「……ハッ!」
がばっと顔を上げる。
「高級フレンチ……!」
まぶたの奥に眠気が残っていても、その四文字で一気に吹き飛んだ。
鞄をつかみ、凛子の席へ駆け寄る。
「ねえ凛ちゃん、早く行こ!」
しかし凛子は気まずそうに両手を合わせる。
「ごめんねむ、今日ちょっと用事あるの。だから……ひとりで行ってきて」
「えええええ……」
ねむの肩が、目に見えてがっくり落ちる。
けれどすぐに、ぱっと顔を上げてにやりと笑った。
「ま、仕方ないか。……でも!高級フレンチは逃せない!」
鞄を抱えて、足取り軽く校舎を出る。
(前は校門で楠木さん待ってて、超気まずかったから……今回はちょっと離れた場所で待ち合わせなんだよね)
鼻歌交じりに歩き、待ち合わせ場所へ。
そこに、スーツ姿で立っている楠木の姿を見つける。
「やっほー」
小さく手を振ると、楠木は真面目な顔で会釈を返した。
その瞬間。
「……ねむ?」
背後から声がして振り返ると、藤田悠真が立っていた。
「な、なにそれ……彼氏?お父さん?まさか……援交?」
ぽかん、とするねむ。
「はぁ!? 違うし!」
横で楠木は「え、えん……?」と固まり、完全に状況を飲み込めずにいた。
ねむは両手を振り回しながら言い返した。
「ち、違うってば! 今日はただ、フレンチをご馳走してもらうだけ!」
「……フレンチをご馳走……?」
悠真の顔色がさっと変わる。
「フレンチ? ご馳走? そんなの、ただの関係の人にするわけないだろ……!」
悠真の頭の中で勝手に想像が膨らんでいく。
「ど、どどどんな関係なんだよ、それ……!」
悠真は半ば裏返った声を上げた。
ねむはこめかみを押さえて大きくため息をつく。
「……はぁ。もうめんどくさい。楠木さん、行こ」
そう言って踵を返すと、悠真が慌てて手を伸ばす。
「待って!じゃあ俺も行く!」
「はああああ!?」
ねむの声が夕暮れの街に響き渡る。
楠木は車のキーを手にしたまま固まり、視線を右往左往させていた。
「もう行くよ」
ねむはさっさと助手席に乗り込む。
その瞬間、後ろのドアがガチャリと開き、悠真が強引に後部座席へ滑り込んだ。
「ちょ、ちょっと!?」
ねむが振り返ると、悠真は腕を組んでにらんでいる。
「俺も行く。放っておけないからな」
「はぁぁ……」
ねむは天井を仰ぎ、呆れたようにため息をついた。
「じゃあもう、凛子が奢る分、悠真に奢ってもらえばいいじゃん」
運転席の楠木は思わず振り返り、苦笑する。
「えっ……いや、それは……」
「自分の分は自分で出しますから、大丈夫です」
悠真が淡々と答えた。
「そうそう、悠真んちってお医者さんだもんね。お金持ちだもんね。 じゃあ、私の分だけ。はい、じゃあよろしく」
ねむは勝手に話をまとめ、シートベルトを締め直した。
悠真は前の座席の楠木をじろりとにらんだ。
楠木はその敵意を背中で感じ取り、ハンドルを握る手にじんわり汗をかいていた。
そんな緊迫(?)した空気のまま車は街を抜け、やがて赤レンガ調の洒落た建物の前に停まる。
「到着したぞ……“シエル・ルージュ”だ」
楠木の言葉と同時に、車の窓から高級フレンチレストランの堂々たる外観が現れた。
「わー! ほんとに来ちゃった……!」
ねむは目を輝かせ、シートから身を乗り出す。
店の前で車を降りると、ねむは小さくスキップを踏み、楠木の隣へ寄った。
「わぁ、ほんとにシエル・ルージュだ……! すごーい!」
楠木は苦笑しつつ「そうか」と短く返す。
その後ろから悠真が、じろりと二人を睨むように歩いてきた。
扉をくぐると、アンティーク調の什器が整然と並び、柔らかな灯りが壁の額縁やシャンデリアを照らしている。
重厚ながらも落ち着いた雰囲気に包まれた店内だった。
「うわぁ……素敵!」
ねむは思わず両手を胸の前で組み、子どものように目を輝かせる。
背の高いウェイターに「こちらへどうぞ」と案内され、三人はテーブル席へ。
革張りの椅子に腰を下ろすと、楠木はすぐにメニューを開いた。
「……たっ、高っ……」
心の中で思わず悲鳴を上げる。
一方、ねむは値段も見ずにページをめくり、あっさりと言った。
「私、これがいい! このコース。SNSで見て気になってたの。牛フィレのポワレとオマール海老の……えへへ」
「じゃあ、俺もそれで」
悠真が即座に口を開く。
「……」
楠木のテンションが、音を立てて急降下した。
メニューの下に並ぶ数字を確認し、顔をひきつらせながら小さくうなずくしかない。
「……そ、そうか。それじゃあ……」
ねむは無邪気に嬉しそうにしている。
だが楠木の胃袋は、財布と一緒にきゅうっと縮み上がっていた。
やがて料理が運ばれ始める。
ホタテのタルタルにキャビア、フォアグラのテリーヌ──ねむは「名前だけでお腹いっぱい」と半眼になりつつも、つい口角が上がる。
そのとき、少し離れた席から偉そうな声が響いた。
「こんな酸っぱいもん、客に出せるか! シェフは味覚が壊れてるんじゃないのか!」
振り返った瞬間、恰幅のいい男が目に入った。全身をハイブランドで固め、手にはナイフを握りしめ、目の前の皿を睨んでいる。
彼の隣で、さっきのチーフウェイターらしき人物が必死に頭を下げていた。
「申し訳ございません、オーナー。本来はワインとの相性を考えた一皿でして──」
「言い訳するな! 材料費ばかりかけてこんなもの作ってどうする!」
彼らのテーブルにあるのも、ねむたちが頼んだコースと同じ中にあるメニューのひとつ
「スズキのポワレ シトラスのヴァンブランソース」だった。
苛立たしげにフォークを突き立てるオーナーの姿に、店内の空気が少しだけ硬くなる。
ちょうどその時、ねむの前にも同じ皿が置かれた。
柑橘の香りがふわりと立ち上り、白身魚に鮮やかなソースがとろりとかかっている。
一口食べたねむは、眉をひそめてスプーンを置いた。
「すっぱ……! ちょっと酸っぱすぎじゃない?」
楠木も苦笑しながら「確かに酸味が強いな」とうなずく。
そのとき悠真のナイフの刃先にねむは目を留めた。
さっきまで鏡のように光っていた銀色が、わずかに曇って見える。
(……ん? 気のせいか……?)
そこへウェイターがそっと声をかけた。
「こちらのお料理は酸味がやや強めでございますので、本来は白ワインと合わせていただくと格別でございます。……ただ、未成年のお客様には特製のグレープジュースをご用意しております。同じ葡萄品種を使い、香りのニュアンスを近づけてございます」
琥珀色のジュースがグラスに注がれた。
ねむはおそるおそる口をつけ、魚と一緒に頬張る。
「……! おいしー!」
さっきまで強すぎると思っていた酸味が、ジュースの甘みで一気に丸く広がった。
「へえ……これがペアリングってやつか」
ねむは感心したようにつぶやき、グラスを覗き込む。
楠木は苦笑しながら「そうだな」と頷き、悠真は腕を組んだまま複雑そうに二人の様子を見ていた。
背後ではまだオーナーの怒声が響いていたが、ねむの頭の中はただひとつ。
(ペアリングってすごい……!)
頬を緩ませながら、ねむは満足げに再びナイフを手に取った。
メインの肉料理──牛フィレ肉のポワレとオマール海老の皿が運ばれ、テーブルは一層華やかになった。
「すごい綺麗。アンティークの食器もオシャレで、メニューごとに替えてあるんだ。……ほんと綺麗。凛ちゃんに見せたいから、写真撮っておこう」
ねむはナイフを動かしながら「フレンチってすごい……」と頬を緩ませる。
楠木は財布の中身を思い出して顔を引きつらせ、悠真は依然として二人をにらみつけていた。
そんな中、奥の席から突然ガタンと大きな音が響いた。
「オーナー!?」
チーフウェイターの叫び声。振り返ると、あの傲慢な男が椅子を倒して床に崩れ落ちていた。
店内がざわつく。
すぐにチーフウェイターが携帯を取り出し、慌てた様子で電話をかけ始める。
「至急です! 救急車を……!」
裏口からシェフとサブシェフ、さらに別のウェイターが血相を変えて駆け込んできた。
「オーナー! しっかり!」
「脈はどうだ!? 誰か、水を──!」
チーフウェイターは慌てて水を取りに走った。
だが、救急車が来る前に男の体は痙攣し、やがてぐったりと動かなくなった。
楠木が近づき首筋に触れ、絶望的な表情で顔を上げる。
「……脈が、ない……」
店内は一瞬にして凍りついた。
ついさっきまで偉そうに怒鳴っていたオーナー風の男は、信じられないことにその場で命を落としてしまったのだ。
ねむはフォークを手にしたまま、ぽかんと口を開けていた。
(……え、事件? また……?)
店内に悲鳴とざわめきが広がる中、楠木が立ち上がった。
ポケットから手帳を取り出し、低く通る声で告げる。
「みんな動かないでください。警察です」
「えっ……!?」
客たちが一斉に目を見開く。
「……警察!?」
悠真は呆然とねむと楠木を見比べる。
一方のねむは、フォークを置いてあっけらかんとした顔で言った。
「ほらね。だから別に変なことしてないって言ったでしょ」
「……警察の人だったのか……」
悠真は額に手を当て、さらに混乱した。
しばらくして、けたたましいサイレンと共に救急車が到着する。
(救急車、ちょっと遅い気がする……)
ねむは眉をひそめた。
ストレッチャーを抱えた救急隊員が駆け込み、遅れて制服警官たちも現場に入り込んだ。
「心肺停止……」
「蘇生試みます!」
必死の処置が続けられたが、結局オーナー風の男が息を吹き返すことはなかった。
やがて現場検証が始まり、料理が次々と調べられていく。
数時間後、担当医師の見立てが伝えられた。
「死因はアナフィラキシーショック。強いアレルギー反応を起こした可能性が高い」
その言葉に店内がどよめく。
「アレルギー……?」
「でも、オーナーは普段からこの店の料理を……」
困惑するスタッフたちを横目に、ねむは頬杖をついて小さくつぶやいた。
(ふぅん……ほんとに“それだけ”なのかなぁ)
悠真はまだ状況を飲み込めずにぽかんとしていたが、楠木の表情は一段と険しさを増していた。
救急隊が撤収し、店内が落ち着きを取り戻すと、警官が客に事情を聴き始めた。
そんな中、悠真が楠木に声をかける。
「……俺たちは関係ないですよね? もう帰っていいですよね」
楠木は首を振った。
「いや、ねむは残ってほしい」
「は?」
悠真が思わず声を上げる。
楠木はねむに歩み寄り、声を潜めて耳打ちした。
「……今回も、全然わからない」
ねむはじとっとした目で楠木を見上げ、深いため息をつく。
「はぁ……ほんっとにポンコツなんだから」
「……だから、頼む」
楠木が真剣に言うと、ねむは肩をすくめた。
「じゃあ、残るよ」
その横で悠真が慌てて口を挟む。
「な、なら俺も残ります!」
「なんであんたまで」
ねむが呆れた声を上げるが、悠真は頑なに首を横に振った。
「ねむだけ残して帰れるわけないだろ」
楠木は二人の間に漂う妙な空気を感じ取り、内心でさらに胃を痛めていた。
警官たちがざわつく店内で、楠木は手帳を開き、ページをめくりながらねむの方へ身を寄せた。
「……状況をまとめるぞ」
低い声でそう言うと、几帳面な字で並んだ名前を指でなぞる。
- |オーナー 黒川 英則 58歳
店を取り仕切るが傲慢でパワハラ気質。客や従業員にも横柄な態度を取る。今回、コース料理の最中に突然倒れ死亡。
- チーフウェイター 田所 真一 38歳
店を仕切る立場。客対応に追われる中、黒川に常に叱責されていた。事件当時、真っ先に駆け寄り通報した人物。
- シェフ 白石 篤志 40歳
料理長。気難しい性格だが腕は確か。黒川と意見が合わず衝突することもしばしばあった。事件後、真っ先に厨房から飛び出してきた。
- サブシェフ 宮下 翔太 31歳
シェフの補佐。几帳面で真面目だが影が薄い。オーナーには強く出られず、日頃から板挟み状態だった。
楠木は手帳を閉じ、ねむを見た。
「……以上だ。正直、動機も機会も揃ってそうで、どこから手をつけていいか……全然わからん」
「……」
ねむは呆れ顔で大きなため息をついた。
「やっぱりね。そうだと思った」
悠真はそのやり取りを呆然と聞いていた。
「……え、なにそれ。ほんとにこの人刑事なのかよ……」
ねむは肩をすくめると、メニュー表を閉じるみたいに軽く手を打った。
「分かったよ。しょうがないなぁ。じゃあ、残って考えてあげるよ」
「えっ……ねむがなんで?残るの?」
悠真が目を丸くする。
「当然でしょ。事件が起きたんだから」
「……じゃ、じゃあ俺も残る!」
慌てて口を挟む悠真に、ねむは再び呆れ顔を向ける。
楠木は二人を交互に見ながら、頭を抱えるようにため息を漏らした。
楠木はまず、チーフウェイターの田所を呼び寄せた。
黒いベストをきっちり着こなし、緊張した面持ちで立つ彼に、楠木が問いかける。
「田所さん。まず確認したいです。オーナーに食物アレルギーはあったのは把握されてましたか?」
田所はすぐに首を横に振った。
「もちろん把握しています。黒川オーナーはアレルギーにうるさい方でしたから。過去の診断リストは店で共有してあり、今回のコースにはそのどれも含まれていません。シェフも、私も──スタッフ全員で何度も確認しました」
ねむは横で頬杖をつきながら「ふぅん」と小さく相槌を打つ。
田所はさらに言葉を続けた。
「それに……オーナーは好き嫌いも激しい方でした。使ってはいけない食材、嫌いだから外せと言われる食材……細かくチェックしていました。ですから今日のメニューは、すべて完璧に“黒川仕様”にしてあるんです」
最後の言葉には、どこか悔しさの滲む響きがあった。
ねむは横目でじっと彼の表情を観察していた。
(オーナーの意向でこんなに変更しないといけないなんて大変だな)
楠木は手帳にさらさらとメモを取り、ひと呼吸おいて顔を上げた。
「……被害者・黒川英則の過去の診療記録を確認したい。病院でのアレルギーリストを取り寄せてくれ」
そう告げると、近くにいた制服警官がうなずき、足早に現場を離れていった。
楠木は次の相手を呼んだ。
「……では、シェフ。お話を伺いたい」
白いコックコートの袖を整えながら、料理長の白石篤志が席に現れる。
楠木が問いかけた。
「今回の料理を実際に作ったのは、あなたで間違いありませんか?」
白石はどっかりと腰を下ろし、腕を組んで答えた。
「ああ、俺だ。だが断言できる──アレルゲンは一切入れてない。まな板から包丁まで徹底的に洗浄してある。調理場を調べてもらっても構わねぇ。」
その口調には料理人としての誇りと苛立ちがにじむ。
楠木が頷こうとしたとき、横で聞いていたねむがすっと口を開いた。
「……じゃあ、メニューって誰が考えてるんですか?」
白石は意外そうに目を見開き、ねむを一瞥した。
だがすぐに答える。
「まず俺が考える。そのうえでチーフウェイターの田所に確認を取るんだ。田所はワインにめちゃくちゃ詳しいからな。ペアリングを見て最終的な調整を加えるのはあいつの役目だ」
「なるほど……」
ねむは小さく頷いた。
(じゃあ“酸味が強い魚料理にワインやジュースを合わせる”って発想は……シェフじゃなく、田所の仕込みかもしれないってことね)
白石は鼻を鳴らし、続けた。
「ただ、直前で黒川の野郎が勝手に変更を加えることもあった。現場は迷惑してたぜ」
その声音には、抑えきれない苛立ちが混じっていた。
楠木は手帳にメモを走らせ、白石の証言を記録していた。
楠木は次に、厨房の隅に控えていたサブシェフの宮下へ視線を移した。
「宮下さん。事件当時、あなたは何をしていましたか?」
宮下は無表情のまま、淡々と答える。
「シェフからの指示を順にこなしていました。うちはコース料理が基本ですから、手順はほとんど決まっているんです。仕込みで使う食材も事前に確認済みですし、異物やアレルゲンが混入する余地はありません」
言い切る口調は、先ほどの白石と同じ自信を帯びていた。
「それに、黒川オーナーのアレルギーリストはスタッフ全員が把握しています。不審なものがあれば誰かが必ず気づくはずです」
楠木が頷くと、宮下は小さくため息をついた。
「……まぁ、あの人の性格を考えれば、わざと黙って見過ごす者がいてもおかしくはないですけど」
宮下は肩をすくめた。
「黒川オーナーは……性格も口調も最悪でしたよ。スタッフに対しても横柄で。そもそもこの店は、田所さんと白石さんが力を合わせて立ち上げたものなんです。それを黒川が金にものを言わせて急に買い取った。今の繁盛だって、実際はあの二人の腕があってこそなんです」
彼は少し声を落として、言葉を重ねる。
「白石さんの料理の腕前はもちろん、田所さんのワインのチョイスや、店のディスプレイ、食器や什器を選ぶセンス……それが合わさって、今のシエル・ルージュがあるんですよ」
「なるほど……」
ねむは静かに目を伏せる。
(この店の誰にでも“動機”がありそうだな……)
しばらくして制服警官が戻ってきた。
「楠木さん、病院からの照合結果です。黒川オーナーのアレルゲン一覧と料理に使われた食材を突き合わせましたが……一致するものはありませんでした」
楠木は受け取った書類に目を走らせ、短くうなずいた。
「そうか」
ねむはそのやりとりを見ながら、頭の中で考えを整理する。
(被害者は確かに重度のアレルギー持ち……でも、料理には該当するものは入っていなかった。それなのに死因はショック死とされている。うーん……もしかしたら、今回は事件性のない、ただの発作なのか……?)
ねむの隣で悠真が小声で話しかけてきた。
「なぁねむ、これってやっぱり――」
しかし彼女は考えに没頭していて、耳に入っていなかった。
ふと、ねむの脳裏にひとつの光景が蘇る。
(そういえば……オーナー、やたらブランド物を身に付けてたのに、貴金属は着けていなかった……指輪も、ネックレスも、腕時計さえも)
胸の奥がざわついた。
「楠木さん」
ねむは顔を上げ、真剣な声で言った。
「アレルギーについて……もうひとつ、調べてもらえませんか?」
楠木はねむの真剣な視線を受け止め、静かにうなずいた。
「……分かった。確認させる」
そのやりとりを横で聞いていた悠真は、呆然とねむを見つめる。
ねむは目を細め、さらに記憶をたどった。
(――もし私の仮説が合っているなら、原因はコース料理で使われていた“あれ”しかない)
胸の奥で確信が芽生え、ねむは小さく息を吐いた。
しばらくして、制服警官が再び戻ってきた。
「楠木さん! 追加の診療記録が届きました。黒川オーナーには……別のアレルギーもあったようです」
ねむはパチンと指を鳴らし、にやりと笑った。
「楠木さん、分かったよ」
「ほ、本当か!?」
楠木が身を乗り出す。
ねむは微笑んだまま、楠木の耳にそっと囁いた。
言葉の内容は悠真にも届かない。けれど、それを聞いた楠木の顔色は瞬く間に変わった。
「……なるほど」
楠木の低い声が、それが決定的な推理だったことを物語っていた。
面白いと思ってもらえたら、ブクマしてもらえると嬉しいです。
トリックの感想とか、「ここが気になった」って一言でも大歓迎です。




