第18話 招待へのURL
数週間後。
冬の風が少しやわらぎ始めた午後、ねむは駅前のカフェのテーブルに座っていた。
窓の外には行き交う人々、店内には甘い香りと柔らかな音楽。
「お、来たか」
入口のベルが鳴り、コートの襟を立てた楠木が姿を現した。
包帯こそもうないが、右肩をかばうような仕草がまだ残っている。
「楠木さん!」
ねむは手を振った。
「久しぶりですね。退院おめでとうございます!」
「ありがと。まったく、お前に会うと事件に巻き込まれる気しかしないんだが」
苦笑しながら椅子に腰を下ろす。
ウェイトレスが来る前に、ねむはメニューを覗き込み――即決した。
「ケーキセット、チョコとモンブランと苺ショートで」
「おいおい、ひとり分の話だよな?」
「もちろんです!」
にっこり笑うねむに、楠木は頭を抱えた。
「頼みすぎだろ……」
「だって、退院祝いですもん」
「俺の、な」
ねむはえへへと笑い、フォークを手にした。
「怪我、大丈夫ですか?」
「ケーキの前にそれを聞いてくれよ……」
楠木はため息をつきながらも、どこか嬉しそうに笑う。
「まぁ、まだちょっと動かすと痛むけどな。あの野郎、ご丁寧に自分が撃たれたのと同じ場所を狙いやがった。悔しいけど……すごい腕だ」
ねむは少し真顔になる。
「……その後、警察の捜査は進んでるんですか?」
楠木はコーヒーをひと口飲み、カップを静かに置いた。
「それがな、不思議なことに――まったく進んでない。
どころか、打ち切られるらしい」
「えっ……そんなこと、あるんですか?」
「あるんだよ、こういうのは」
楠木は苦笑して、店の外をぼんやりと見た。
「上から“もう関わるな”って命令が来た。
大人の社会は、色々あるんだ」
「色々って……?」
「考えられることはいくつかある。
上が関わってるか、あるいはすでに裏で別の捜査が進んでるか。
どちらにしても、俺たち現場は口を出せない」
カップの中のコーヒーが、湯気を揺らす。
ねむはそれを見つめながら、心の奥で小さくつぶやいた。
(……相当やばい案件、なのかな。でも……やっぱり、気になる)
楠木はそんなねむの表情を見て、眉をひそめた。
「お前な、あんまり首を突っ込むなよ。
今回も、危なかったんだからな」
「……わかってます」
ねむはそう言いつつも、フォークの先でケーキを突いた。
(でも、ノアール……藍沢さん……あの笑みの意味。
まだ、何も終わってない気がする)
ショートケーキの甘さが、ほんの少しだけ苦く感じられた。
カフェを出ると、街はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
ねむはマフラーを巻き直しながら、楠木に手を振る。
「じゃあ、また何かあったら連絡してくださーい!」
「もう何も起きなくていいけどな!」
楠木は苦笑しながら片手を上げる。
ねむはその背中が人混みに消えるのを見届けてから、歩き出した。
コートのポケットに手を入れると、指先に冷たい風がしみる。
街の灯りが次々とともり始め、通りのショーウィンドウに光が反射していた。
(……ようやく、日常が戻ってきたのかな)
そんなことを思いながら、駅へ続く坂道を歩く。
だが、その途中――
視界の隅に、不自然な影が見えた。
道路脇に停まった黒いスポーツカー。
ドアに寄りかかるように立っている男が、こちらをじっと見ている。
街灯の明かりが髪の一部を照らし、その輪郭を浮かび上がらせた。
(……まさか)
ねむは一歩、足を止めた。
目を凝らす。見間違いじゃない。
あの横顔――藍沢。
「……あなた、藍沢さん……? 何してるの?」
声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
夜風に髪を揺らしながら、薄く笑う。
「待ち合わせの暗号、解いたの君だろ? ――名探偵さん」
ねむの心臓が跳ねる。
(ば、バレてる……!?)
とっさにごまかそうとするが、口から出たのは間の抜けた声だった。
「えっ、え、何の話ですか?」
藍沢は笑いを深める。
「すごいな。君は」
低い声が、妙に穏やかだった。
あの日の銃を構えた表情とは、まるで別人のように。
「……どうしてここにいるんですか? 私に何か用ですか?」
ねむは一歩下がりながら問いかけた。
「そうだね。――君に用があったんだ」
藍沢はポケットに手を入れ、何かを取り出す。
「助けてもらったお礼、まだしてなかったから」
差し出されたのは、一枚の小さな紙。
受け取ると、そこには見覚えのないURLが書かれていた。
「……これは?」
ねむが顔を上げると、藍沢はもうドアに手をかけていた。
運転席に乗り込み、窓を少しだけ開ける。
「君は――謎を解くのが好きだろ?暇つぶしになるといいけど」
片手でハンドルを握りながら、静かにエンジンをかける。
低い振動が夜の空気を震わせた。
「ちょっ、ちょっと! それ、どういう――!」
ねむが慌てて駆け寄るが、藍沢はただ前を見たまま、穏やかに言った。
「じゃあね、――ねむちゃん」
車体が滑るように動き出す。
テールランプの赤が遠ざかり、やがて闇の中に消えていった。
ねむはその場に立ち尽くしたまま、風に髪を揺らされる。
(……なんで、あの人――私の名前を知ってるの?)
手の中の紙を見つめる。
そこに印刷された短いURLだけが、街灯の下で冷たく光っていた。
「ただいまー」
玄関の扉を開けたねむは、靴を脱ぐなり勢いよく階段を駆け上がった。
「おかえりー……って、もう上がっちゃったの?」
母・香坂は台所から顔を出し、階段の上の気配に小さくため息をつく。
「まったく、忙しない子ねぇ」
ダイニングテーブルでは、編集担当の橘 沙耶が煎餅を片手にくつろいでいた。
カリッと音を立てながら、のんびりと笑う。
「若いっていいですねぇ。もう、私あんなに階段駆け上がれませんよ」
「あなたもまだまだ若いでしょ」
「いやぁ、もう会社の階段登るたびに体が限界で……ジムに通おうかな」
二人の笑い声が、温かい夕食の匂いと一緒に階下に満ちていく。
――二階。
ねむはドアを閉めるなり、机に向かって椅子を引いた。
鞄を放り出し、ノートパソコンを立ち上げる。
指先がわずかに震えている。
(……あの紙、やっぱり気になる)
ポケットから取り出したのは、藍沢から渡された小さな紙片。
そこには黒い文字でURLが印字されている。
ねむはキーボードに指を滑らせ、URLを慎重に打ち込んだ。
Enterを押す。
――その瞬間。
ディスプレイが一瞬だけ暗転し、すぐに紫がかった光が画面を満たした。
黒い背景に、羽をゆっくり動かす一匹の蝶……いや、蛾のような影。
それが画面いっぱいに広がり、ゆっくりと形を変えていく。
文字が浮かび上がる。
“Vnena moth 13”
その下に、英語と日本語が混じったような文章が表示された。
> ──私たちは同志を探している。
> 知恵を示せ。テストに合格して見せろ。
ねむは息を呑む。
画面の文字はそれきり止まり、何も動かない。
マウスを動かしても、クリックしても、反応はない。
「……これだけ?」
思わず声が漏れる。
まるで時が止まったかのように、蛾の羽ばたきだけがループしていた。
ねむは画面に顔を近づけ、目を凝らす。
文字の並び、色、影の動き――何か隠れているような気がする。
(“Vnena moth 13”……何かのコード? サイト名? それとも……パスワード?)
必死に考えるが、答えは出ない。
ただ、不気味な静寂だけが部屋を包み込んでいた。
パソコンの光がねむの頬を照らし、紫の蛾がゆるやかに羽を震わせていた。
その羽音が、現実のものか幻かもわからないほど静かに響く。
(……やっぱり、この組織――謎が多い)
ねむは椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
蛾の動きは止まらない。まるで、次の謎の幕開けを告げているかのようだった。
「……一応、楠木さんにも伝えておこう」
そうつぶやきながら、ねむはスマホを手に取る。
これまでの経緯と、藍沢から渡された紙に記されていたURLを添えてメッセージを送信した。
しかし、画面には「既読」の文字がいつまで経っても表示されない。
(……忙しいのかな)
ねむは軽く肩をすくめ、パソコンの電源を落とした。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
思考はまだ渦を巻いていたが、まぶたは次第に重くなる。
(藍沢さん……あの人、いったい何者なんだろう)
そんな考えを最後に、ねむは静かに眠りへと落ちていった。
モニターの隅では、シャットダウンの合図とともに、紫の光がゆっくりと消えていった。
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