第17話 トランプの暗号/解決編
車のドアが閉まる音が重なり、エンジンが唸りを上げた。
楠木はハンドルを握り、バックミラーを一度だけ見てから言った。
「どこに行けばいいんだ?」
「渋谷。ハチ公前に急いで」
「は? ハチ公前?」
楠木が目を瞬かせる。「どういうことだ。あの紙切れから、そこまで分かるのか?」
「分かるよ。――“五時にハチ公前”って意味」
「なんだって?」
ねむは膝の上で紙片を広げ、車内灯にかざした。黒い記号の列が白い紙に浮かぶ。
「トランプの絵柄が“母音”、数字が“子音(行)”。ジョーカーは“おの母音”っていう仕掛け。濁音はカードに『゛』を付ける――それがルール。母音と子音……昨日お母さんが言ってたヒントで分かった」
ねむは指先で最初の行を示す。
「A♦ / 3♠ / 2♥゛ → うさぎ
Aは“あ行”、♦は母音の“う”で“う”。3は“さ行”、♠は母音の“あ”で“さ”。2は“か行”、♥は母音の“い”で“き”。そこに濁点『゛』が付いて“ぎ”。――“う・さ・ぎ”になる」
「……本当だ。もう一つは?」
「5♣ / 2ジョーカー → ねこ
5は“な行”、♣は母音の“え”で“ね”。2は“か行”、ジョーカーが母音の“お”だから“こ”。――ねこ。ここまでで読みの仕組みが示してある」
ねむは下の長い列を指でなぞる。
「で、本題。ここ」
2ジョーカー゛ / 3♥゛ / 6♠ / 4♥ / 2ジョーカー / A♦ / 7♠ / A♣
「順に読むね。
“2ジョーカー゛”――2は“か行”、ジョーカーは母音の“お”、そこに濁点で“ご”。
“3♥゛”――3は“さ行”、♥は母音の“い”、濁点で“じ”。
“6♠”――6は“は行”、♠は母音の“あ”で“は”。
“4♥”――4は“た行”、♥は母音の“い”で“ち”。
“2ジョーカー”―― 2は“か行”、♥は母音の“お”で“こ”。
“A♦”――Aは“あ行”、♦は母音の“う”で“う”。
“7♠”――7は“ま行”、♠は母音の“あ”で“ま”。
“A♣”――Aは“あ行”、♣は母音の“え”で“え”。」
ねむは指を止め、はっきりと言った。
「――“ご・じ・は・ち・こ・う・ま・え”。
“五時ハチ公前”」
楠木は信号でブレーキを踏み、短く息を吐いた。「見事だ……ねむすごいな」
「鍵の二行――“うさぎ”“ねこ”は、解き方の例示ってわけか。読み方の見本だな」
「うん。動物の絵を添えたのは、例文として正解を教えるため。そこまで分かれば、下の列は読めるようになる。――五時、ハチ公前」
「間に合うように飛ばす」
ウインカーが鳴り、車が本線へ滑り込む。
246の流れは思いのほか速い。ねむは窓の外に視線をやり、呟く。
「もし暗号どおりになら、今日の『五時』に『ハチ公前』であの男が現れる」
「そこで張る。応援は渋谷署に要請する。俺たちは先行して監視する」
楠木はハンドルを切り、アクセルを踏み増した。
ビルの谷間を抜ける風の音が、車内に細く入り込む。
ねむは紙片を折りたたみ、ポケットにしまうと、シートに深く背を預けた。
渋谷の街が近づく。交差する光の線、巨大なスクリーン。
時刻は、もうじき五時に触れる。
渋谷駅のロータリーに車が滑り込む。
人波の多さに、楠木は舌打ちをした。
「くそ、止められそうな場所が……」
路肩に目を走らせながら、焦りを隠せない声で言う。
その横で、ねむがシートベルトを外した。
「楠木さん、私、先に行く」
「おい、待て、危ないぞ」
「大丈夫。目立たないようにするから。――すぐ来て」
そう言い残すと、ねむはドアを開けて人の波に紛れた。
信号の音、拡声器の呼び込み、スクランブル交差点の光。
街全体がざわめきに包まれている。
ねむはハチ公像の近くで足を止め、周囲を見渡した。
観光客、学生、カップル――数え切れない人々の間を、視線だけが泳ぐ。
(……こんな人気が多いところに現れるの?)
そのときだった。
雑踏の向こう、肩をかばうように歩く男の姿が目に入った。
包帯の下から覗く右腕。――病院で見た、あの男だ。
(ホントに来た……)
ねむは無意識に息をのんだ。
男はポケットから何かを取り出した。
蝶の刻印入りの銀色のライター。
光が当たるたび、鈍く反射している。
彼はハチ公像の前に立ち、辺りを見回した。
(誰かを待ってる……あのライターが目印なのか)
ねむは植え込みの陰に身を潜め、息を潜めて様子をうかがう。
ほどなくして、サングラスをかけたスーツ姿の別の男が人混みをかき分けて現れた。
背は高く、表情は硬い。目だけが冷たく光っている。
スーツ姿の男は肩を撃たれた男の前で立ち止まり、低く言う。
「待たせたな、藍沢」
藍沢が小さく頷く。
「あぁ……ここは目立つ。移動しよう」
そう言うと、二人は人波を抜け、駅の外れへと歩き出した。
(まずい……楠木さん、早く……!)
ねむはポケットからスマホを取り出し、通話ボタンを押した。
耳にあてるが、呼び出し音だけがむなしく響く。
(出て……お願い、出て……!)
しかし、画面には「応答なし」の文字。
ねむは小さく息を呑み、スマホを握りしめた。
視線を上げると、二人の背中がすでに雑踏の向こうに消えかけている。
(見失う……!)
迷っている時間はなかった。
ねむは息を潜めたまま人の列に紛れ、距離を取って尾行を始める。
信号が変わる。人の波が押し寄せる。
彼女は肩をすくめ、視線を低くした。
(楠木さん……早く来て)
渋谷の喧騒が、まるで獲物を包み込む罠のように広がっていた。
ねむは二人の背を追い、雑踏の向こうにそびえる古びたビルへ足を向けた。
看板には「渋谷クロスオフィス」の文字。
すぐ隣は人通りの絶えない通りなのに、このビルの前だけ、まるで音が吸い込まれたように静まり返っている。
藍沢ともう一人の男が自動ドアをくぐるのを見届けると、ねむはスマホを取り出して楠木にメッセージを打った。
『二人、今渋谷のクロスオフィスというビルに入った。私も中に入る』
送信ボタンを押すと同時に、心臓の鼓動が早くなる。
(怖いけど……ここで逃したら、もう掴めない)
意を決して、ねむもドアを押し開けた。
薄暗いエントランス。人影はなく、蛍光灯の白い光が床を照らしている。
奥の非常階段の方から、低い声が聞こえた。
そっと壁に身を寄せ、耳を澄ます。
「……最近、上がりが少ない。ボスがご立腹だ。特に殺人トリック部門、売り上げが落ちているらしいな。理由は?」
「すいません、ウォン。刑事課に優秀な奴がいるそうです。こちらの仕掛けを次々と見破られている。それで依頼が減っています」
「なるほど……厄介だな。早急に対処しろ。トリックの質が落ちたんじゃないのか?」
「開発は エシランに任せています。あいつなら、もっと見破られにくい仕掛けを用意できるはず」
「エシラン……本当に信用できるのか? 顔も知らない、声さえ変えてくるやつだろう」
「実績は十分です。過去の“仕事”はすべて成功している。問題ありません」
「最近は失敗続きだろう」
ねむの背筋がぞくりと震えた。
(やっぱり……あいつ、悪いやつだったんだ)
その瞬間、足元で小さな缶が転がる音がした。
ガタン――。
ねむは息を呑む。
「……誰だ!?」
怒号が響く。
ねむは反射的に踵を返した。
逃げようとした瞬間、背後から鋭い声が飛ぶ。
「待て!」
藍沢が駆け出してきた。右腕をかばいながらも、手には黒い拳銃が握られている。
銃口が、ねむの背に向けられた。
――その瞬間。
「危ない、ねむっ!」
楠木の声が響いた。
楠木は駆け込むようにねむの前へ飛び出し、次の瞬間、銃声がビルの内部に轟いた。
乾いた破裂音。
ねむの耳が一瞬、真っ白になる。
「楠木さん!」
楠木は胸を押さえてうずくまり、苦しげに息をついた。
血がシャツを染めていく。
もう一度銃を構えた藍沢の表情が、一瞬だけ揺らぎ小声で言った。
「……君はあの時の……君はもしかして、ねむちゃん?」
銃声が聞こえたのか、外が騒がしくなる。
藍沢は銃口を下げ、ウォンに短く言う。
「人が集まって来てる。行くぞ」
ウォンは無言で頷き、二人は非常口の方へ走り去っていった。
去り際に、藍沢が振り返る。
その瞳がねむをとらえ、ほんのわずかに――微笑んだ。
静かな、けれどどこか哀しい笑みだった。
彼らの足音が消えると、ねむは楠木のもとに駆け寄った。
「楠木さん、しっかりして! 楠木さん!」
「だいじょ……ぶだ……外れた……みたいだ……」
楠木は浅い呼吸の合間にそうつぶやく。
撃たれたのは右肩の下。致命傷ではない。だが、血の量は多い。
ねむは震える手でスマホを取り出した。
「救急車……呼ばなきゃ……!」
指が震えて上手く押せない。
それでも必死に番号を入力し、通話ボタンを押す。
「もしもし、救急ですか!? 銃で撃たれた人が……! 場所は渋谷クロスオフィス、早く来てください!」
通話の向こうから「落ち着いて」と声が聞こえる。
ねむは涙をこらえながら、血で濡れた楠木の手を握った。
(藍沢……どうして……2発目を撃たなかったの? しかも、1発目わざと……外したように見えた?)
胸の奥で疑問が渦を巻く。
あの微笑みは――何を意味していたのか。
遠くでサイレンの音が聞こえ始めた。
渋谷の夜を裂くように、赤い光が近づいてくる。
救急車のドアが閉まり、サイレンが鋭く夜を切り裂いた。
ねむは楠木の担架のそばに座り、揺れる車体に合わせて手すりを握る。
「……ごめんな。危険なことに巻き込んでしまって」
酸素マスク越し、楠木が目だけでこちらを見る。
「大丈夫ですよ」
ねむはかすかに笑った。
「私が、ついて行っただけですから。楠木さんと一緒に謎を解くの、案外楽しんでますから」
その言葉に、楠木は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「それに――」
ねむはクスッと口元を上げる。
「初めて楠木さんに助けられましたね」
「おい。……何度か助けてるだろう」
一拍置いて、眉を寄せる。
「……いや、初めてか」
二人とも、同時に吹き出した。
救急隊員が「揺れますよー」と声をかけ、車内に短い笑いが落ち着く。
(――謎のふたり。藍沢と、ウォン2人の謎の男。
エシランと呼ばれる“トリック考案者”。
“謎のサイト”。売り上げ。日本支部。
……みんなが知らない、大きな何かが動いてるのかな)
胸の奥のモヤは、サイレンよりも静かに膨らんでいった。
病院に到着すると、救急処置は迅速だった。
「弾はかすっているだけ。骨や大きな血管は無事です。命に別状はありません。ただ、しばらくは安静に。少なくとも数日は休んでもらいます」
「……よかった」
肩から力が抜ける。楠木は苦笑で片目を細め、手をひらひらさせた。
「ほらな。打たれ強いんだ、俺は」
「さすがフィジカル担当ですね」
ねむも思わず笑ってしまう。
会計窓口の前で、ねむは深く頭を下げた。
「楠木さん、また様子見にくるので、ちゃんと休んでくださいね」
「どっちみち、今は動けないよ」
楠木はベッドの柵越しに、軽く手を上げる。
「……ありがとう、ねむ。もう遅いから帰りな」
夜風が頬を撫でる。
タクシーを降り、玄関の鍵を回すと、家の中から温かい灯りが漏れた。
「ただいま――」
明るい声で言ったつもりだったが、どこか自分の声が遠く感じた。
リビングから母の顔がのぞく。
「おかえり。ご飯、まだでしょ?」
「うん。……ちょっと遅くなっちゃった」
「冷めてるけど、すぐ温めるね」
母はエプロン姿のまま、レンジに皿を並べた。
鮭の塩焼き、ひじき、味噌汁。
いつもと同じ食卓――それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。
「いただきます」
ねむは箸を取り、ゆっくりとご飯を口に運ぶ。
あたたかい。
舌の上にひろがる塩気が、体の芯に沁みていく。
「学校はどうだった?」
「うん……普通。体育がちょっとキツかったかな」
「運動不足なんじゃない?」
「かも」
そんな他愛のない会話。
けれど、その“普通の時間”が、今夜はやけに尊く感じられた。
食事を終えるころ、テレビのニュースが流れた。
「渋谷駅近くで銃撃音があったとの通報が――」
ねむの手が一瞬止まる。
「怖いわねぇ。渋谷なんて、人が多いのに」
「……ほんとだね」
ねむは笑って答え、食器を下げた。
その笑顔の奥で、心がざわついていた。
――銃声
思い出したのは、もっと昔の音だった。
夜の、港のような場所。
潮の匂いと、低いエンジン音。
父の声がして、誰かが小さく「行かないで」と泣いていた。
灯りの中に立つ男の影――その手には、銀色のライターが光っていた。
ねむははっとして顔を上げた。
さっき藍沢が持っていたライターと、まったく同じ形だった気がした。
――銀色の、古いライター。
父がいつも胸ポケットに入れていたもの。
(……まさか)
頭の奥で、何かがゆっくりと繋がり始める。
藍沢。あの微笑。
ねむは布団に潜り、天井を見つめた。
蛍光灯の光が、目の裏に残像のように滲んでいる。
(お父さん……どこにいるの?)
心の底で、誰にも聞こえない声がこぼれた。
それは祈りにも似て、問いにも似ていた。
時計の針がひとつ音を刻む。
ねむはゆっくりとまぶたを閉じた。
そしてまぶたのその奥で、幼い自分の声が小さく囁いた。
(待ってて、お父さん。
――きっと、見つけるから)
夜の闇が、ゆっくりと彼女を包みこんだ。
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