第11話 日曜ランチと誘拐騒ぎ(後編)/解決編
数分後、関係者が再びロビー横の会議室に集められた。
楠木が正面に立ち、深く一礼する。
「集まってくださってありがとうございます。――結論から言います。今回の誘拐犯が分かりました」
ざわ…と空気が揺れる。
桐原が鋭い目を向けた。「なんだと?」
楠木は落ち着いた声で続ける。
「まず、犯人はこの四人の中に“いる”と断言できます。理由は『抵抗の痕跡がないこと』です。部屋には乱れた形跡がない。つまり、顔見知りの犯行です」
楠木はゆっくりと従業員たちの列へ視線を移す。
「――つまり、眠らされてもいないのに、抵抗の跡もなく姿を消したということです。
顔見知りであっても、抵抗もなく、リネンカートやゴミカート、あるいは窓の外からの連れ去りは、どれも現実的ではない」
桐原が更に質問を重ねる。「睡眠薬で眠らされて連れて行かれた可能性は?」
「鑑識の結果、ルームサービスで運ばれたオレンジジュースからは薬物反応は一切出ませんでした。それ以外の飲食物を口にした形跡もありません。」
「消去法で残るのはひとつの可能性。“信頼している大人に付き添われ、普通に歩いて出ていった”ケースです。」
楠木は静かに名前を告げた。
「犯人は――村上志乃さん。あなたです」
「えっ、私?」
村上は目を丸くし、すぐに首を横に振る。「違います。私は定時で上がって帰っただけ。映像にも出てるでしょう?」
楠木はうなずいた。「ええ、“あなたは”帰っています。――優太くんと一緒に」
室内がどよめいた。
楠木はタブレットの映像を示す。
「20時45分、清掃服の二人連れ。片方は村上さん、もう片方は“帽子を深くかぶった小柄な人物”。この小柄な人物は、現在欠勤中の『梨花』さんだと説明がありました」
村上は作り笑いを崩さない。「ええ、先程話した通りで…」
「ですが、映像をよく確認すると――確かに梨花さんは小柄だったようですが、この“同僚”の清掃服はそれにしても少し大きいんです。
さらに拡大してみると、足元にはスニーカーが映っていました。白いラインの入った黒のスニーカー。
大輝くんに確認したところ、優太くんが履いていた靴とまったく同じものでした。」
空気が固まる。
楠木は淡々と畳みかける。
「あなたは、顔見知りの優太くんに『ちょっと手伝ってほしいことがある』と声をかけた。
そして、清掃服と帽子、マスクを着せて同僚に見せかけたんです。
信頼しているあなたに頼まれたことで、優太くんは抵抗しなかった。
そのままあなたは、従業員口の監視カメラの前を――“同僚と一緒に退勤するように”見せかけて通り抜けたんです。」
村上の頬が引きつる。「決めつけはやめてください」
そのとき、ねむが一歩前に出た。
静かにメモの写真を掲げる。
「――“証拠”はまだありますよ。優太くんが残した数字のメモです」
ねむはスマホの画面を開き、皆へと向けて差し出した。
表示されたのは数字列。
| | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
| 1 | A | B | C | D | E |
| 2 | F | G | H | I/J | K |
| 3 | L | M | N | O | P |
| 4 | Q | R | S | T | U |
| 5 | V | W | X | Y | Z |
「これはボーイスカウトで習う“ポリビウス方陣”という数字暗号。1〜5の二桁でアルファベットを表します。最初の文字が縦軸、二つめの文字が横列です」
楠木はメモの文章を端から読み上げた。
「3243445113=“ホテル”、113342=“あに”、32113211=“はは”、45544411=“ゆうた”。そして最後――」
指先が最後の列をなぞる。
「3432423343。……“シノ”」
息を呑む音が重なった。
楠木は村上をまっすぐ見る。
「優太くんは、一応大輝くんに一緒に行った人の名前を書いていた。だから、机のメモに名前を書いた。“しのさん”。――あなたです、村上さん」
村上は震える手で口を覆い、その場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
嗚咽まじりの声が、静まり返った室内に響く。
「どうしてこんなことをした?」
桐原の低い声が落ちる。
村上は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「……お金が、どうしても必要だったんです。息子の入院費が……どうにもならなくて……。ホテルに泊まってる子がひとりだって聞いて……ちょっとだけ、って……」
「優太くんを、どこに?」
楠木が問い詰める。
「……家に……今は、うちにいます」
村上の声は、もう小さく震えていた。
「すぐに確保しろ!」
桐原が短く命じる。
捜査員たちは一斉に動き出し、無線の指示が飛ぶ。
楠木は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……よかったぁ」
その横で、ねむは黙って両手を組み、ほんの少しだけ安堵の色を浮かべた。
だが、その瞳の奥には、まだ微かな疑念が残っている。
(……こんな計画、ただの主婦にできるもの?)
――そして数時間後。
優太は無事に保護され、警察車両で自宅へ戻った。
玄関の扉が開いた瞬間、美穂が駆け寄る。
「優太……!」
声が震え、涙が止まらない。
「お母さん!」
小さな腕がしっかりと抱きつく。
後ろから高臣も息を詰まらせ、ゆっくりと二人を包み込んだ。
「……よかった、本当によかった……」
ねむと楠木は少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。
その横で、大輝が俯いたまま立ち尽くしている。
唇を噛みしめ、手の中で拳を握っていた。
「……俺のせいだ。俺があんな計画立てなきゃ……」
絞り出すような声だった。
ねむはそっと大輝の背中を押した。
「行きなよ」
大輝が顔を上げる。
ねむはやさしく微笑んだ。
「あなたも、家族のひとりでしょ?」
その言葉に、大輝の目がわずかに潤む。
ゆっくりと頷き、大輝は優太のもとへ歩み寄った。
「……優太」
「お兄ちゃん!」
優太が笑いながら飛びつく。
美穂も高臣も、その二人を包み込み――四人の肩が寄り添うように重なった。
外では、夜の風がそっと木々を揺らしていた。
ねむはその音を聞きながら、小さくつぶやく。
「……終わった、ね」
楠木は静かにうなずいた。
「やっとな」
救出劇のあと、山城家のリビングには静かな涙と笑顔が満ちていた。
美穂が何度も頭を下げ、高臣も深く礼を述べる。
「本当に……ありがとうございました」
「楠木さんのおかげで、息子が帰ってきました」
楠木は照れくさそうに頭をかきながら、「いえ、俺は何も」と言葉を濁す。
その横で、ねむは少し離れて立ち、そっとその光景を見つめていた。
やがて、外に出ようと靴を履いたねむに、高臣が声をかけた。
「――君も、事件の解決を手伝ってくれたのかい?」
ねむは振り返り、軽く首を傾げた。
「まぁ、ちょっとだけ」
「名前を聞いてもいいかな?」
「私の名前? 来巻――来巻ねむ、です」
高臣の眉がわずかに動いた。
「来巻……?」
小さく呟き、遠い記憶を探るように目を細める。
「……まさかね」
そして、ふっと微笑んだ。
「君も、ありがとう」
ねむは軽く手を振った。
「じゃあ、失礼します」
玄関先で振り返り、もう一度だけ家族の姿を見た。
笑い合う声。柔らかな灯り。
(――ちゃんと、解決できてよかった)
ねむは小さく息を吐き、外の夜風に足を踏み出した。
駐車場では、楠木が運転席にもたれて待っていた。
「おーい、帰るぞ」
「了解」
ねむは軽く手を上げて助手席に乗り込む。
ドアが閉まり、エンジンが静かに唸りを上げた。
しばらく沈黙が流れ、信号の赤が二人の顔を照らす。
楠木が大きく伸びをして、いつもの調子に戻ったように言った。
「――はぁぁぁ、疲れたぁ! いやぁ、今回はマジで焦ったよ。ほんっと、助かった!」
ねむは腕を組みながら、涼しい声で言う。
「私がいなかったら、どうするつもりだったの?」
楠木はしばらく考え込むふりをして、ぽつり。
「……病欠、かな」
ねむは呆れたようにため息をつき、口元をゆるめた。
「ダメだこりゃ」
車はゆっくりと夜の街を抜けていく。
街灯の明かりがフロントガラスを流れ、二人の影を淡く照らしていた。
車がねむの家の前に止まる。
夜風が少し冷たく、秋の匂いが混じっていた。
「じゃあね、楠木さん」
ねむがドアを開けながら言う。
「おう。今日はマジで助かった。また何かあったらよろしくな、名探偵」
「ただじゃないからね!今度ちゃんと何か奢ってよ」
いたずらっぽく笑って、ねむは軽く手を振る。
家の門を開けると、ふわりと温かい匂いが鼻をくすぐった。
(……カレーの匂い)
「ただいまー!」
ねむの声が玄関に響く。
奥から母の声が返ってきた。
「おかえり、遅かったわね。夕ご飯できてるわよ」
「やった! お腹ぺこぺこー!」
靴を脱いで勢いよくリビングへ駆け込む。
明るい照明。
温かい湯気。
香ばしいスパイスの匂い。
ほんの数時間前までの、あの張り詰めた空気がまるで嘘のようだった。
ねむは椅子に座り、スプーンを手にしてにやりと笑う。
「いただきまーす!」
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