第1話 放課後のひったくり
「ねむー、帰るよ!」
夕方の教室に、からりとした声が響いた。
呼ばれたのは、机に突っ伏して爆睡している来巻ねむ。
……授業がすべて終わっても残っているのは彼女ひとり。いや正確には「残ってしまっている」という方が正しい。
「もう、また寝てるし……」
近づいてきたのは、背の高い女子。
彼女は机の角に手を置き、ため息をついてから肩を揺さぶった。
「ほぇ……?」
半分寝ぼけた声。
ねむはゆっくりと顔を上げた。髪は寝癖で跳ね、制服のリボンはほどけかけ。小柄で頼りなげな体つきに、だらしなさと愛嬌が同居している。
──要するに、残念。救いは「可愛い」が少しでも残っていることだろう。
「授業終わったから帰るよ」
「えっ?……凛ちゃん、おはよう……もう終わったの?」
「凛ちゃん」こと佐伯凛子は、ねむとは対照的に背が高く、姿勢も凛としていた。
同じ制服なのに、立ち姿だけで三割増しに見えるのだから世の中は不公平である。
ねむと凛子の二人は同じ学校、豊井学園の一年生だ。共学で、学力はごく普通。ねむはギリギリの成績でなんとか合格した。
二人並んで教室を出ると、窓の外では傾いた陽が廊下に長い影を落としていた。
放課後特有の、少し湿った静けさが校舎を包んでいる。
「ねむ、最近授業中眠り過ぎだよ。忘れ物も多すぎ。ホントに留年するよ」
凛子がため息まじりに言うと、ねむはあくびを噛み殺しながら答えた。
「大丈夫だよ、テストで挽回するから」
「そう言って、いつもギリギリでしょ」
「えへへ、でも落ちてないよ?」
「……」
ため息に風圧がついた。下手をすると竜巻警報である。
「凛ちゃん、お腹すいたから何か食べて帰らない?」
「ほんと、あんたは……」
「寝るだけでもカロリー使うんだよ」
「だから寝るのはダメなんだって!」
二人は商店街の方へ歩いていく。
傾いた陽がアスファルトを橙色に染め、遠くからは夕飯の支度の匂いが流れてきた。
(ラーメンかカレーか牛丼か。……迷うな)
住宅街の道を並んで歩いていると、凛子がふと口を開いた。
「ねむ、最近さ……元気ないけど、大丈夫?」
ねむはへにゃりと笑い、手をひらひらさせる。
「大丈夫じゃないよ。……スマホのゲームやり過ぎで寝不足」
「……」
ため息がまた風圧を伴った。今度は低気圧とセットである。
その時だった。
「きゃーっ!」
甲高い悲鳴と共に、男がこちらへ駆けてきた。肩に小さなバッグを引っつかんでいる。
「待ちなさいっ!」
必死に追う中年女性。しかし追いつけるはずもない。
「ひったくり!?」
凛子が目を見開く。
そして即座に走り出した。
──こういうときの反応速度が、彼女の長所だった。
「ちょっ……!」
ねむも慌てて追う。
(足の長さ、二倍あるんだから待ってよ!)
ひったくり犯は焦って角を曲がり、姿が見えなくなった。
「見失っちゃう!」
凛子が息を切らす。
角の先は行き止まり。ぽつんと洋服屋が一軒あるだけだった。
あたりは夕焼けのせいで視界が赤く、余計に人影が怪しく見える。
「はぁはぁ……あのお店の中に入ったんじゃない?」
ねむが追いついて息を整える。
中年女性も追いついて来た。スマホで警察に連絡中だ。声が震えていて、通報の緊張感が伝わってくる。
「凛ちゃん、犯人の格好覚えてる?」
「黒のナイロン上下。上はジップアップのフード。顔は見えなかった」
(実に犯人らしいテンプレ服装……漫画の見本か)
「私、店員さんにそれらしい人いなかったか聞いてみる」
凛子は店内奥に向かっていった。
店内はワンフロアに収まる広さだった。
レジカウンターが正面にあり、壁際のラックには春物のアイテムがきれいに並んでいる。
ねむは入口に立ち、店内から出る人がいないか確認しながら、ざっと店内を見渡した。
凛子が戻ってくる。
「店員さん、出入り口見てなかったって。それに、店内見て回ったけどナイロン上下の人はいなかったわ」
(なるほど。ジャケットとパンツを脱いだわけか。ひったくりのくせに頭は回る)
店内には四人の客がいた。
一人目、若い女性。
長い髪にシャツ、ジーンズにスニーカー。立ち姿は自然だが、やけに髪のあたりを気にしている。
二人目、三十代くらいの男性。
黒髪短髪にグレーのスーツ。ジャケットを手に持ち、店内をうろうろ。
(仕事サボり……いや、休憩中か。だが動きが少し落ち着かない)
三人目、年齢不詳のやんちゃ系。
キャップにグレーのスウェット、ベージュのチノパン。
ラックに手を突っ込みながら、ちらちらと服を見ている。
四人目、大学生風。
黒いカーディガンに黒パンツにリュックを持っている。着こなしは無難だが、逆に個性のなさが引っかかる。
(……全員、怪しいところが少しずつあるな。さて)
「凛ちゃん、他に特徴は?」
「ごめん、追うのに必死で……」
ねむは顎に手を当てた。
「カバンの中身は?」
問いかけられた中年女性は息を整えながら答える。
「ポーチと財布……それから二十万の現金。銀行から下ろしたばかりなの。……もしかしたら、銀行から狙われていたのかもしれないわ」
(現金を狙うなら下調べしてた可能性あり、か。銀行から現金下ろすところ見ていたのか……?)
その時、スーツ姿の男性が外に出ようとした。
「すいません、警察が来るまで待ってもらえますか?」
ねむが声をかけると、男は目を丸くした。
「何かあったの?」
「はい。この方のバッグが盗まれたんです」
「……そうか、成り行きだけど手伝うか」
男は胸元から警察手帳を取り出した。
そこには 楠木太郎 の文字。
(なんか頼りなさそうに見えるんだけど。まあ、これで一件落着か……?)
「皆さん、こちらに集まってください」
楠木は警察手帳をしまうと、意外にもきちんとした口調で言った。
「では順番に、お話をうかがいます。怪しいと思った点や、店に入った時間を教えてください」
そう言って一人ひとりの前に立ち、質問を投げかける。
若い女性には丁寧に、スーツ姿の男性には手短に、ヤンチャ風の男には少し強めに──相手を見て調子を変えている。
(意外と……まともな警官なのかも)
ねむは腕を組みながら、その光景を眺めていた。
やがて楠木は咳払いをして言った。
「……では念のため、皆さんの持ち物を確認させてください」
持ち物を一人ずつ見せてもらうことになる。
ヤンチャ風の男はキャップを外し、ポケットの中まで出してみせた。
若い女性は手ぶらだったので、ポケットの中身だけを見せる。
ただ──長い髪を何度も耳にかけ直す仕草が気になった。
(妙に気にしてるな……髪?)
大学生風の青年はリュックを開け、教科書と水筒を取り出す。
財布の中身も確認するが全員20万ほどの大金は持っていなかった。
「靴の中もお願いします」
楠木が念を押す。
皆しぶしぶスニーカーや革靴を脱いで見せたが、そこから怪しいものは何も出てこなかった。
ただ──一つだけ。
ヤンチャ風の男がキャップを外した瞬間、ねむの目はその仕草に引っかかった。
(帽子か……)
「なるほど」
楠木は満足げに頷くと、唐突に結論を口にした。
「では、まとめると……分かりませんね」
「え?」
凛子が素っ頓狂な声を上げる。
「このままでは、一度皆さんにお帰りいただくしかないでしょう」
楠木はしたり顔で言い切った。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
中年女性が慌てて口を挟む。
「私、このお店に逃げ込んでいくのを見たんですよ!」
「ふむ……しかし今すぐに解決できる証拠がありませんから」
楠木は腕を組み、いかにも「難事件だ」と言いたげな顔をする。
(……いや、証拠を見つけるのが仕事じゃないの?)
その時、店員がバックを抱えて駆け寄ってきた。
「お客様、これ……さっきフィッティングルームで見つけまして」
中年女性が受け取り、中身を確認する。
「封筒に入った……20万だけ抜かれてる」
空気がぴんと張りつめる。
ねむは顎に手を当て、再度考え込んだ。
(全員の持ち物は確認した。靴もバッグも、キャップも……でも、ひとつだけ調べてない所がある。もし“キャップじゃない被り物”あるとしたら)
ねむはふらりと歩み寄り、若い女性の後ろに立った。
そして、ためらいなく髪をつまんで引っ張る。
「ねむ!? 何してるの!」
凛子が目をむく。
次の瞬間、長い髪はあっけなく外れた。
床にばさりと落ちるのは、偽物のウィッグ。そして隠していた札束がぱらぱらと散らばった。
「なっ……!」
楠木の目がまん丸になる。
「カツラの中に隠していたのか!」
「なんで分かったの?」
凛子がねむを見る。
ねむは肩をすくめた。
「キャップを調べたときにね。逆に“帽子じゃない可能性”が浮かんだの。被り物って、帽子だけじゃないから」
若い女は舌打ちして駆け出そうとしたが、楠木が素早く腕をつかむ。
「動くな!」
「くそっ……あと少しだったのに!」
女は悔しそうに顔を歪めた。
──こうして、ひったくり事件はあっけなく幕を閉じた。
もっとも、一番手柄を立てたのは警察官ではなく、どう見ても寝不足気味の女子高生だったが。
事情聴取が終わり、ようやく解放されたねむと凛子は商店街へ足を向けた。
空はすっかり群青色に変わり、提灯や看板の灯りが通りを彩っている。
「ふぅ……やっと終わった。お腹空いたー。凛ちゃん、ラーメン食べたい」
「さっきまで事件に巻き込まれてた人の第一声がそれ?」
文句を言いつつも、凛子はねむに付き合って近くのラーメン屋へ入った。
店内はこぢんまりとして、湯気と炒め油の香りが漂っている。
ねむは席に座るなり、メニューをぱらぱらとめくって迷いなく声をあげた。
「ラーメン一丁! あとライスと餃子も!」
「ちょっと、そんなに食べるの?」
ねむは胸を張って言った。
「だって今日は頭を使ったからね。エネルギー補給しないと」
「寝てた時間の方が長かったでしょ」
しばらくして、湯気を立てる丼が並んだ。
ねむは両手を合わせて「いただきます」と言うと、すぐさま箸を突っ込み、ずるずると麺をすすり始めた。
「んーっ、しあわせ……!」
目を細めるその顔は、ひったくりを暴いた探偵ではなく、ただの食いしん坊女子高生だった。
凛子は呆れ半分、感心半分でため息をついた。
「本当に、よく食べるわね」
ラーメンを半分ほど平らげたころ、凛子が箸を止めてねむをじっと見た。
「ねえ、さっきの……なんであんなことに気付いたの?」
ねむは口いっぱいに餃子を頬張りながら、もぐもぐと咀嚼する。
飲み込んでから、ようやく肩をすくめた。
「んー……たぶん、母の影響かな」
「お母さん?」
「うん。ミステリー作家なんだ。子どもの頃から、原稿の相談とかトリックの話ばっかり聞かされてて」
凛子が目を丸くする。
「えっ、お母さん、作家さんなの!? すごいね」
「まあ、すっごく売れてるわけじゃないけどね。
でも、食べていくには困らないくらいかな」
ねむはスープをずずっと飲み、あっけらかんと笑った。
「だから、小さいころから“どこに死体を隠すか”とか“犯人は誰か”とか、
そんな話を聞かされて育っちゃったんだよねー」
「……それ、家庭環境としてどうなのよ」
「おかげで退屈はしなかったよ」
ねむはライスにスープをかけてがつがつと食べながら、どこか楽しげに言った。
「お母さんの作品、今度読んでみてよ。けっこう面白いよ。
“成世 李庵”っていうペンネーム。ちょっとグロい描写もあるけど」
「グロいのか……いつか読むよ」
凛子が笑うと、ねむは箸を動かしながら、いたずらっぽく口を尖らせた。
「読む気ないでしょ」
「バレた?」
ふたりの笑い声が、湯気と一緒に店内に溶けていった。
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