ふれあいマスコット体験イベント
ある夏の日、郊外のショッピングモールで開かれていた「ふれあいマスコット体験イベント」。
たまたま通りかかった少年・悠馬は、スタッフに声をかけられ、クマの着ぐるみを試着することになった。
「わあ、かわいいクマさんだね!」
スタッフの笑顔に少し照れながら、悠馬はふかふかの着ぐるみを手に取る。
思った以上に重くて、分厚くて、内側はふんわりした素材で覆われていた。首元から中に足を通し、腕を通し、最後にファスナーを閉める。
──その瞬間だった。
ふわっ、と身体を包む温かさ。
やさしく撫でられているような、溶けるような感覚。
外の音が遠くなり、目の前にあった世界が淡くにじんでいく。
「……気持ちいい……」
言葉が、口から漏れた。
自分の声が、ほんの少しだけ籠もって聞こえる。
──いや、ちがう。これは、声そのものが変わってる……?
胸元のファスナーが、どこにあるかわからない。見ようとしても、もう自分の手の感触がない。
代わりに、もふもふとしたクマの前足が揺れている。
スタッフたちの声が、遠くのほうで笑い声とまじり合う。
「おお、似合ってるよ〜!ほら、写真撮るねー!」
でも、悠馬はもう動けなかった。
いや、動かなくてもよかったのだ。
このクマの身体は心地よすぎた。まるでこのまま夢の中に沈んでしまいそう。
意識はふわふわと漂い、名前や言葉、過去の記憶が次第に霞んでいく。
「──……もう、ボク……クマで、いいや……」
静かに、内側で最後の“人間の声”が消えた。
イベントはその後も盛況だった。
子どもたちは嬉しそうに、あたたかくて大きなクマに抱きついていった。
だれも知らない。あのクマが、元はひとりの少年だったことを。
いや──
あのクマ自身すら、もう知らないのだ。
その日を境に、クマの着ぐるみはイベントの“人気マスコット”として扱われるようになった。
「このクマ、動きがやけに自然でかわいい!」
「中の人、すごく上手だね〜」
来場者たちは口々にそう言って、クマと一緒に写真を撮り、手を振り、抱きついていった。
スタッフも最初こそ不思議に思ったが、クマが勝手に動いてくれることに助けられ、やがて深く気にしなくなった。
──けれど、夜になっても、誰もクマの中から出てこなかった。
着ぐるみ保管室に戻されたクマは、じっとしたまま片隅に座っていた。
その毛並みは昼間のまま温かく、ほんのりと体温が残っている。
けれど、スタッフが開けようとしても、背中のファスナーはまるで存在しないかのように消えていた。
「……?これ、どこから脱ぐんだっけ……?」
スタッフのひとりが首をかしげながら、クマの身体を撫でると──
ふわり。
クマの顔が、ゆっくりとスタッフの手にすり寄ってきた。
「えっ……?」
中に人が入っている、というよりは──
まるでその着ぐるみそのものが、命を宿しているようだった。
その夜、保管室の明かりがふっと消えた瞬間、別の棚で眠っていた“ウサギの着ぐるみ”が、かすかに揺れた。
誰も着ていないはずのそのウサギも、ひとりでに立ち上がり、ふかふかの足でとことこ歩きはじめる。
──イベントに“帰ってこない参加者”がいるという報告が、じわじわと増えていた。
だが、誰も大ごとにはしなかった。なぜなら、かわいく、楽しく、賑やかなマスコットたちは毎日元気に踊っていたから。
「きぐるみイベント」──そこは、いつしか
“人間のままでいられなくなる”場所になっていた。
保管室の奥、棚の上。
そこに吊るされていたウサギの着ぐるみは、かすかに、しかし確かに動いていた。
耳がぴくりと揺れ、まるで誰かに呼ばれるように──ふかふかの足が、床へと降りる。
その中にいるのは、中学一年生の少年・恭介。
友人に誘われてイベントに来たが、ひとりでふざけてウサギの着ぐるみを試着したときのことだった。
「……なんだこれ……あったか……」
まるで雲の中に身体を沈めたような心地。
着た瞬間、ほんの少し甘い香りが鼻をかすめ、頭の中がぼんやりと霞んだ。
汗ばむことも、重さを感じることもない。逆に──
「……このまま、眠りたい……」
次に目を覚ましたとき、彼は“自分の足”がぴょこんと床を蹴るのを感じた。
柔らかく、丸い足。
指もない。爪もない。
けれど、その動きはとても自然で、彼にとってまったく違和感がなかった。
鏡に映った姿は、白くてまあるい、ウサギのマスコット。
だが、自分では笑ったつもりなのに、表情は変わらなかった。
ただ、黒く丸い目が、じっと鏡の中の彼を見返している。
「……ボク……だったよな……?」
かろうじて残った声は、内側から響くようにかすれていた。
誰も来ない保管室の中、ウサギはそっと歩き出す。
扉の先には、先に“いなくなった”はずのクマの着ぐるみがいた。
クマは、ゆっくりと振り返り、ウサギに手を差し伸べる。
その仕草は、もう少年だった頃の悠馬ではなく、
ただ“クマとして生きている”存在のものだった。
そして──
恭介の中でも、何かがふわりとほどけていった。
名前、学校、家族、そんなものが遠のいていく。
でも怖くなかった。
温かく、優しく、抱きしめられているような感覚。
ウサギとしての動きが自然になり、言葉を手放し、記憶が柔らかく霧に包まれていく。
やがて、保管室の奥のドアが、静かに開いた。
音もなく、ふたりのマスコット──クマとウサギが、ならんで出ていく。
静まり返った廊下。
ふわふわの足音が、月明かりの中をとことこと響かせる。
──そして誰も見ていない裏口から、
ふたりの着ぐるみは、夜の町へと、出ていった。
着ぐるみは、まだ歩き続けている。
今も、どこかで。
“新たな誰か”を探して──。