8.ひかり
右手が使えなくなり、戦いは困難を極めた。
距離を開けば斬撃が飛んできて、近づいても籠手で阻まれ攻めきれない。
何発か攻撃を当てることはできたが、『脅威個体』はまだまだ魔力を有している。
さすがに片手では斬撃を捌ききれず、ルクシーヌは手傷を負い始めていた。身体の各所にいくつもの切り傷ができている。
どの傷もさほど深くない。だが、流血と痛みは気力を萎えさせる。折れた右手首も動くたびに痛む。
このまま戦い続ければ、ルクシーヌはやがて力尽きることになるだろう。そのことを、彼女自身もよくわかっていた。
それでも、彼女は諦めてはいなかった。
このまま身を削られ力尽きたとしても、それは彼女にとっては敗北を意味しない。
敗北とは、命惜しさにこの場から逃げ出し、人々の暮らす場所が蹂躙されることだ。
死ぬつもりはない。傷つくことは恐れない。
もともと、彼女の役目は援軍が来るための時間稼ぎだ。それまで身体が持てばいい。
だからトラプターに助力を仰がない。
彼は『残滓』の相手をしている。その片手間に、近接戦闘中のルクシーヌを援護するのは、彼の技量をもってしても不可能だからだ。
「まだ、戦えます……!」
言葉を口にして気力を奮い立たせ、ルクシーヌは再び『脅威個体』に立ち向かうべく、一歩を踏み出そうとした。
その時だ。
「ルクシーヌ嬢! こちらに来てください!」
不意に、トラプターの声が聞こえた。通信魔法ではない。肉声だ。
後ろ、およそ50メートルほどの距離に、トラプター本人がいる。
後衛職のトラプターが、この状況で前線に来るなどバカげている。ありえない。ルクシーヌはそう考えた。だが同時に、トラプターが無策でここに来るような人間ではないこともまた、知っていた。
だから声に従い、下がっていった。
追いすがる『脅威個体』に、炎や氷の魔法がいくつも叩き込まれた。トラプターの砲台だった。
その援護を受けながら、ルクシーヌが下がっていくと、本当にトラプター本人がいた。
「トラプター様、どういうことなんですか!? 『残滓』の群れはどうしたんですか!?」
「谷を何か所か崩落させました! 自動起動の罠魔法も仕掛けたので、しばらくは時間を稼げるはずです! あなたはここにとどまり、まずは回復してください!」
「光のオーラは解除できません!」
叫びながら、ルクシーヌは飛んできた斬撃を拳ではじいた。
砲台の攻撃にさらされながらも、『脅威個体』は彼女に向けて斬撃を放ってきた。砲台の攻撃のほとんどは籠手に防がれ、あるいは斬撃で切り払われている。
見ている間に、斬撃で砲台が破壊された。すると、別の場所に新しい砲台が現れた。さすがの罠の密度ではあるが、ルクシーヌが光のオーラを解くほどの隙は作れそうもなかった。光のオーラを纏ったままでは、並の回復魔法は弾いてしまう。
「解除しなくていいんです! ここにいれば、あなたは回復します!」
「回復って……」
そこでルクシーヌは気づいた。身体のあちこちに着いた切り傷がふさがっている。折れた右手も、痛みがだいぶ小さくなりつつある。
「これは……?」
「僕の奥の手、血の魔法陣です! 血で書いた魔法陣に、直接魔力を流し込むと、威力が増すのです!」
ルクシーヌは胸に暖かく満たされるものを感じた。それは回復魔法の効果だけではなかった。
一人でもやれるだけやるつもりだった。それでもつらくなかったわけではい。
だから、トラプターが自分のことを思ってここに来てくれたこと。今、隣にいてくれること。
そのことがどれだけ自分を暖かな気持ちにしてくれることか。
ルクシーヌは言葉に詰まった。どう形にしていいか、わからない想いに心が満たされた。
その時、またしても斬撃が飛んできた。
半ば反射的に、ルクシーヌは光のオーラを高めた拳ではじく。
その拳の感触で、ルクシーヌは思い出した。
自分は縁談中であり、トラプター様と共にあるために、戦う力を示さなくてはならないことを思い出した。
トラプターの助けへの感謝は、戦うことでしか示せない。
そう確信すると、ルクシーヌは新ためて、構えをとった。
「ありがとうございます、トラプター様! これでまだまだ戦えます!」
「それは何よりです! でも……あれは難敵です。どうやったら倒せるか、僕もまだ、いい方法が思いつきません……」
これまでルクシーヌの攻撃を何発も耐えた。そして、トラプターの罠魔法にさらされてもなお、『脅威個体』の魔力の底は見えない。
やはり倒すのには、三人以上の辺境貴族の力が必要なのだろうか。
だが、ルクシーヌには、一つだけ試していない攻撃があった。
「……わたしの方にも奥の手があります。それが使えれば勝てるかもしれません。ですが……使うのには時間が必要です。『脅威個体』をしばらくの間、完全に動けなくする必要があります」
また斬撃が飛んできた。ルクシーヌは再び拳ではじく。こうして横やりが入る状況では、彼女の奥の手は使えない。
トラプターの砲台をもってしても、『脅威個体』を完全に止めることはできない。
「では協力しましょう。まず、ルクシーヌ嬢は『脅威個体』を足止めしてください。その間に、必ずや『脅威個体』の動きを止める罠を作って見せます。そうしたら、ルクシーヌ嬢の奥の手を見せてください!」
トラプターの提案は、数分前のルクシーヌなら、きっと困難に思えたことだろう。
だが今の彼女にとっては、何も難しく感じられないのだった。
ルクシーヌの右手の骨がどうにかつながったころ、トラプターの砲台が尽きた。
ルクシーヌは静かに『脅威個体』に歩いていく。トラプターが準備をする間、斬撃を彼の方に飛ばさせるわけにはいかない。だから、ルクシーヌは踏み込んだ。一気に短剣と籠手の間合いに入った。
待ち構えたように『脅威個体』は短剣で斬りつけてくる。
だが、ルクシーヌはその軌跡の範囲にいない。彼女は短剣も籠手も届かない低い姿勢で、『脅威個体』に足払いをかけた。
光のオーラを纏った足払いは、たやすく『脅威個体』を転ばせた。
倒れた『脅威個体』に、しかしルクシーヌは追撃しない。下手に手を出せば、籠手でつかまれる危険があったからだ。
『脅威個体』はゆっくりと立ち上がる。立ち上がる途中で、こちらが攻撃することを誘っているようだった。狙いが分かっていたので、ルクシーヌは手を出さなかった。
『脅威個体』が立ち上がったところで、ルクシーヌは静かに踏み込み、ほとんど密着するような距離まで近づいた。
『脅威個体』は短剣と籠手を繰り出してきた。ルクシーヌはそのことごとくをルクシーヌは見切り、かわし、さばいていった。短剣と籠手を何度繰り出そうとも、ルクシーヌは難なく処理していった。
光のオーラすら斬り裂く短剣も、軌跡が読めればかわせる。光のオーラを無効化する籠手も、つかまれることにさえ気をつければ、捌くことができる。
『脅威個体』は確かに恐ろしい武器を持っている。魔物らしからぬ戦い方も厄介だ。
だが、純粋な戦闘技術だけに限れば、『脅威個体』はルクシーヌに遠く及ばなかった。こうして距離を詰めて、斬撃を飛ばせず、策を弄することもできない状況を作れば、ルクシーヌに負けはなかった。
わかってみれば簡単なことだった。だが、ここまで落ち着いた気持ちでなければ、こんな戦い方はできなかっただろう。
なぜ、ここまで落ち着いているのか。
そして、思い出した。
トラプターと初めて会った時。ルクシーヌは、自分の強さを見せると決めた。彼の前では、強く在ろうと心に決めた。
トラプターが見ている。そのことを意識するだけで、ルクシーヌは力が湧いてきた。迷いは消えた。全力を出せた。
……かっこわるいところは、見せられません!
無駄なく、よどみなく、微笑みすら浮かべ。ルクシーヌは『脅威個体』の猛攻を捌いていった。
しかし、この戦いにも欠点があった。あまり威力のある攻撃を出せないのだ。ルクシーヌが光のオーラで高い攻撃力を出すには、どうしても深い踏み込みが必要だ。この距離ではそれは難しかった。
また、強い攻撃を当てて距離を離しては、この状態が崩れてしまう。
打たれ強い『脅威個体』をこのまま倒そうとしたら、いつまでかかるかわからない。
だが、問題なかった。
「お待たせしました!」
トラプターの合図だ。
ルクシーヌは『脅威個体』の繰り出された手を取ると、相手の勢いを利用して投げた。
予想以上に簡単に投げることができた。『脅威個体』には、投げではほとんどダメージを受けないことがわかっていたのかもしれない。あるいは、距離をとることを好機と見たか。
だがこの投げは、ダメージを与えるのが目的ではない。予定していた場所に運ぶためのものだった。
『脅威個体』が予定していた位置に達したところで、トラプターの仕掛けた罠が発動した。
「ルゴオオオオオオオオッ!」
『脅威個体』が苦痛の声を上げる。地に伏せたまま、起き上がることもできないようだった。
トラプターの用意した罠がなんであるか、ルクシーヌにはすぐに分かった。何しろ自分も苦しめられたことのある魔法だ。
あれは、「魔力吸収トラップ」。それも血の魔法陣による強化版だ。
『脅威個体』は常に魔力を纏い、魔力を消費して攻撃に耐える。つまり、魔力で動いている。
したがって、魔力を奪われ続ける状況なら、動くことはできない。
「……さすがトラプター様です」
感嘆の声を漏らし、ルクシーヌは奥の手を繰り出すための準備に入った。
やがて、「魔力吸収トラップ」は止まった。許容限界まで魔力を吸ったのだ。それでもなお、『脅威個体』は高い魔力を有していた。
だが、十分だった。ルクシーヌの溜めは完了していた。
ルクシーヌは光のオーラを纏っていなかった。ただ、瞳の奥に、静かに揺れる光の輝きだけがあった。
「ひかり」
技の名をつぶやいた。技の名はそれだけだ。他にはなにも必要なかった。
ルクシーヌは一瞬で『脅威個体』の懐に入った。
『脅威個体』はすぐさま迎撃のため、短剣を繰り出そうとする。
だが、その時すでにルクシーヌの攻撃は終わっていた。『脅威個体』が短剣を振り上げたとき、既に彼女は『脅威個体』の身体から、「拳を抜くところ」だったのだ。
『脅威個体』の動きが止まった。
彼女が拳によって体内に送り込んだのは、全魔力を注ぎ込み、極限まで練り上げ、その効果をたったひとつに絞った光のオーラだった。
その効果とは、対象の内部を灼き尽くすことだ。
『脅威個体』の身体から光が漏れることはない。この技は、そんな無駄をそぎ落とされている。
『脅威個体』は動くことができない。動きを光が灼き尽くしたからだ。
『脅威個体』は叫ぶことができない。声を光が灼き尽くしたからだ。
『脅威個体』は泣くことができない。涙を光が灼き尽くしたからだ。
何も許さない。
ただ、ただ、静かに。身体の内側から全てを灼き尽くす。
それが「ひかり」と名付けられた、この技のすべてだった。
やがて、『脅威個体』の身体がボロボロと崩れる。残されたのは体を形作っていた泥と、短剣と籠手。魔力は一切残ってなかった。
そして光が、ふっ、と昇った。『脅威個体』を灼き尽くした光のオーラが行き場を失い、空に溶けて消えた。
それが『脅威個体』の最後だった。
とどめを刺したことを確認すると、ルクシーヌは膝から崩れ落ちた。地面に座り込み、荒い息を吐く。体中、汗をびっしょりかいていた。
この奥の手は、彼女の全魔力と体力を使って初めて可能となる。溜めが必要なこともあり、実戦ではまともに使えないようなものだった。訓練の締めに、すべての魔力を絞り出すための鍛錬のようなものだった。実戦で使うのは初めての技だった。
だが、『脅威個体』を完全に倒すにはこれしかないと思ったのだ。
ルクシーヌは疲労困憊になりながらも、トラプターに向けて親指を立てて見せた。
トラプターも親指を立てた。だが彼は、地に伏していた。
血の「魔力吸収トラップ」のために血を使いすぎ、貧血になり、彼は起き上がれなかったのだ。