7.脅威個体
ルクシーヌは、トラプター領の外縁領地にいた。
以前、見回りをした谷の前で待機していた。ボディースーツに身を包み、肩まで届く髪を飾り紐で一つにまとめ、いつでも戦闘を開始できる状態だ。
彼女は普段から戦う覚悟ができている。今もそれは変わらない。しかし、その顔には陰が差している。緊張の色が濃い。
予想される魔物の数は五千。前回撃退したものと同規模だ。侵攻ルートも谷を通る見込みだ。
以前の見回りで確認したように、この谷は戦うにはいい場所だ。
限られた道幅は光属性・近接特化・撃滅型令嬢の彼女にとって、大軍を相手にしやすい。トラプターの罠魔法も有効に働くことだろう。
平地で五千の『残滓』を相手にしたルクシーヌとトラプターにとって、本来なら何も心配はない。
ただひとつ、大きな懸念材料があった。
「辺境観測士」から警告があったのだ。
今回、『残滓』を率いているのは、『脅威個体』だというのだ。
『脅威個体』。強大な力を持つ辺境貴族にとってすら脅威となりうる、強力な魔物に与えられる呼び名だ。
『脅威個体』は遭遇例が少なく、その能力もバラバラだ。
たった一撃で大地を割った、一瞬で森を燃やし尽くした、遠隔魔法・殲滅魔法型辺境貴族の魔法に何度も耐えた……などなど、様々な噂がある。
共通するのは、辺境貴族すら圧倒する能力をもっており、人の形をしているということだけだ。
ルクシーヌも今まで遭遇したことがない。噂を聞いたこともあり、いずれ戦うことになるかもしれないという覚悟もしていた。
彼女の心を乱すのが、この襲来のタイミングだ。
もともとトラプターの領地は、魔物の襲撃が少ない土地だ。トラプターは優秀な全属性・罠設置魔法・駆逐型辺境伯だが、それでも辺境貴族としてのランクはCだ。
彼一人に任された領地は、魔物の襲撃回数も少なく、数も多くない傾向にある。
そんな領地に『脅威個体』がやってくる。それも五千という数を鮮やかに退けた直後というタイミングは、あまり出来過ぎているように思えたのだ。
ルクシーヌには、まるで今までずっとうまくいっていることの反動が来たように思えてしまうのだ。
だがそんな不安に頭を悩ませても仕方がない。ルクシーヌは頭を振って、余計な考えを振り払う。すべては戦ってみなくてはわからない。
「『残滓』たちが谷に侵入します。予定通り、罠魔法で迎撃を開始します」
「了解しました。よろしくお願いします」
トラプターの通信魔法に答えると、谷の先から轟音が響いてきた。罠魔法の攻撃が始まったようだ。
今回の作戦は、まず戦力を削ることとなっている。
トラプターが罠魔法で谷に入った残滓を迎撃する。ルクシーヌは谷の出口で待機し、罠魔法を抜け出てきた『残滓』を始末する。そうして『残滓』の軍勢を足止めする。
『脅威個体』が確認されたら、まずはトラプターの罠魔法で能力を探る。必要に応じてルクシーヌが援護に入るという作戦だ。
『脅威個体』の討伐には、最低でも三人の辺境貴族が必要とされている。既に近隣の領地から辺境貴族を増援として呼んでいる。だが、到着するのは早くても今日の夕方頃になる見込みだ。ルクシーヌとトラプターは、それまでの時間稼ぎをする方針だった。
「トラプター様、そちらの様子はどうでしょうか」
「……思ったより手こずっています。これまでの『残滓』とは段違いの強さです」
「そうですか……何体か通してもらえますか? 今のうちにどの程度のものか知っておきたいです」
「わかりました。気をつけてください」
しばらく待つと、10体ほどの『残滓』がやってきた。
普通の『残滓』は歩いて移動する。人間の歩みより速いが、その進軍はゆったりしたものだ。しかし、この『残滓』たちは、走ってこちらに向かってきた。
ルクシーヌが踏み込むと、『残滓』たちは立ち止まり、構えを取った。警戒している。通常の『残滓』ならもっと反応が鈍い。近づくものにとりあえず襲い掛かるという感じだ。それと比較すると、ずいぶんと反応がいい。
だが、その程度では、光属性・近接特化・撃滅型令嬢の敵ではなかった。
ルクシーヌは疾走を止めることなく、すれ違いざまに拳を叩き込み、瞬く間に『残滓』たちを撃破していった。
「トラプター様、これなら問題ありません。どんどん『残滓』をこちらに回してください」
「まだこちらで十分対応可能です。それに、僕たちの目的は援軍が来るまでの時間稼ぎです。『残滓』は足止めだけで十分では?」
「そうですね。でも……なんだか嫌な予感がするのです。『残滓』はなるべく減らして、『脅威個体』の姿を早く確認したいのです」
「……わかりました。ルクシーヌ嬢がそうおっしゃるのなら、そうしましょう」
トラプターはルクシーヌの提案をすぐ受け入れた。
本来、ルクシーヌたちの目的は時間稼ぎだ。その目的に従えば、『残滓』を無理に倒して『脅威個体』をあぶりだす必要はない。
だが、二人とも、何か得体のしれない不安を抱いていた。
そうして、二人で分担して『残滓』の数を削っていった。
順調だった。何も問題はない。それが、不気味だった。
「気をつけてください! 50体程度の集団が抜けました! その中に『脅威個体』がいます!」
ついに、来た。
ルクシーヌは気を引き締める。
「武器は短剣! 斬撃を飛ばしてきます! 射程は最低50メートル! 僕の罠魔法を破壊する威力があります!」」
トラプターの報告に、ルクシーヌは思わず令嬢らしからぬ舌打ちをしてしまそうになった。
近づくには、中距離まで届く斬撃を躱さなければならない。短剣を持っているというのなら、近接でもかなり戦えるのだろう。やりづらい相手であることが予想された。
やがて谷からどっと『残滓』があふれ出す。その中に特に変わったものは見られない。まずはこの『残滓』たちを片付けるべく、ルクシーヌは一歩を踏み出した。
瞬間、ぞっとするものを感じた。ルクシーヌはその感覚に従い、地に伏せた。
目の前の『残滓』がの数体が上下に分かれた。何かに切り裂かれたのだ。そして、黒くて薄い、半円形の魔力が、彼女の頭上を通り過ぎていった。おそらくこれがトラプターの報告にあった「斬撃」だ。
そして、『脅威個体』が姿を現した。
噂通り、人の形をしていた。真っ黒な泥で作られたような、ぬらりとした人形。その身体は輪郭がゆらめいており、形が定まらない。そこから感じられる魔力もどうにも曖昧で、力の底が探れない。
唯一確かな形を保っているのは手だ。『脅威個体』は、籠手を着け、右手に短剣を握っていた。
その姿には、見ているだけで背筋が凍るような、禍々しさがあった。
だが、ルクシーヌを戦慄させたのは、その異様な姿ではなく、戦い方だった。
指揮官となった魔物が、『残滓』を攻撃に巻き込むことは珍しくない。
だが、今のは違う。『脅威個体』は、配下である『残滓』を目くらましに使い、もろともに斬撃を浴びせてきたのだ。
ここまでルクシーヌとトラプターが楽に『残滓』を倒せたのは、おそらくこの『脅威個体』の作戦だ。こちらを慣れさせ、油断させるために、配下である『残滓』を犠牲にしたのだ。
そうでなければ、あのトラプターの罠魔法を、こうもたやすく抜けらてこられるはずがない。
勝つために、意図的に配下を使いつぶす。危険な相手だった。
ルクシーヌが伏せた状態から立ち上がると、『脅威個体』は右手の短剣を何度も振り回した。無数の斬撃が生まれ、ルクシーヌへと襲い掛かってきた。
だが、近接特化・撃滅型令嬢である彼女にとって、対応できない攻撃ではない。躱しながら、そのうちの一つを、光のオーラを高めた拳ではじく。
想像以上に重い手ごたえだった。直撃を喰らえば、ルクシーヌでもダメージなしとはいかない威力はありそうだった。
そこまで確かめたところで、ルクシーヌは前に進むことにした。
タイミングを計り、一気に『脅威個体』に肉薄すると、ルクシーヌは拳を放った。
大岩をも砕くルクシーヌの一撃は、しかし、『脅威個体』の籠手に受け止められた。
「なっ!?」
思わず驚きの声が漏れる。
見た目にはただの古びた革製の籠手だ。ルクシーヌの光のオーラを纏った拳なら、たやすく消滅させられるはずのものだ。
しかし、ルクシーヌの拳は止められた。『脅威個体』は揺れもしない。完全に威力を殺されていた。
そのまま、掴まれた拳を握られる。危険を感じ、ルクシーヌはすかさず蹴りを叩き込んだ。『脅威個体』は数メートル下がり、しかし姿勢を乱すことなく着地する。彼女の蹴りを受けたにしては、吹っ飛び方が足りない。
だが、手ごたえはあった。ダメージはあったはずだ。
揺らめく泥のような身体には、ダメージ受けた様子は見えない。しかし、ルクシーヌは相手の魔力が減っていることを感じた。どうやら、身体へのダメージを魔力で相殺する能力があるようだ。
斬撃を飛ばす短剣に、ルクシーヌの攻撃を無効化する籠手。おまけに魔力がある限り傷つかない。厄介な相手だった。
警戒しながら、トルクシーヌはラプターへ向けて通信魔法で語りかけた。
「トラプター様。『脅威個体』と接触しました。『脅威個体』の斬撃はわたしの防御を抜くほどの威力です。また、籠手でわたしの拳を無効化されました。やっかいな相手です」
「それほどですか……! わかりました、すぐにサポートに……」
「いえ、トラプター様は引き続き、『残滓』の本隊を足止めしてください。しばらく、わたしだけで時間稼ぎをやってみます」
一人で相手するには危険な相手だった。だからと言ってトラプターまでこちらに注力しては、多数の『残滓』が押し寄せてくる。『脅威個体』と『残滓』の軍勢を同時に相手どるのは避けたかった。
『脅威個体』と共にやってきた『残滓』は、まだ30体近く残っている。
『脅威個体』を視界から外さないように注意しながら、ルクシーヌは次々と『残滓』を倒していった。
途中、斬撃がいくつも飛んできた。その斬撃に『残滓』が巻き込まれるように調整し、ルクシーヌは効率よく『残滓』を倒していった。
ほどなくして、『残滓』を倒し終えた。ようやく一対一だ。ルクシーヌは『脅威個体』に対し、改めて構えを取った。
「ルゴオオオオオオオオッ!」
突然、『脅威個体』が叫んだ。そして、ルクシーヌへ背を向けると、谷に向かって駆けだした。
それを追いながら、ルクシーヌは通信魔法でトラプターに声をかけた。
「トラプター様、そちらはどうなっていますかっ!?」
「急に『残滓』の勢いが増しました! 今のは『脅威個体』の声ですか!?」
「そうです! 『残滓』の本隊と合流するつもりのようです!」
また『残滓』の中に紛れて攻撃されたら厄介だ。ルクシーヌは『脅威個体』を追って走り出した。
光のオーラを爆発させ加速する「爆光」を使えば、追いつくのはたやすい。だが、迂闊に攻撃を仕掛けても、あの籠手で止められる。いっそ、相手を追い抜いて一気に前に出るべきだろうか。そう思い、ルクシーヌは力を溜め始めた。
すると、そのタイミングに合わせたかのように、『脅威個体』は突然立ち止まり、無数の斬撃を放ってきた。
ほとんどの斬撃は狙いが甘かった。不意打ちであろうと、ルクシーヌにとって躱すのはたやすかった。
だが、妙だ。いくら振り向きざまの攻撃にしても、見当はずれな方向の攻撃が多過ぎた。
その疑問の答えはすぐに出た。周囲から、石や土が崩れ落ちてくる。『脅威個体』が狙っていたのは谷の崩落だった。
たとえ岩や土砂を受けようと、光のオーラを纏うルクシーヌには、ほとんどダメージはない。だが、それで動きが止まれば、『脅威個体』の攻撃を受けることになる。
一旦下がるべきかと、ルクシーヌは一瞬迷った。その間隙を縫うかのように、『脅威個体』は一気に踏み込み、ルクシーヌに切りかかった。
短剣は中距離の斬撃だけでもルクシーヌの光のオーラを抜けうる。短剣本体の直撃は更に危険だろう。
ルクシーヌは落石を避けつつ、短剣をなんとか躱した。
そして、自分の右手がつかまれているのに気がついた。
『脅威個体』の籠手は、光のオーラを無効化する。マズイと思った瞬間、右手首から嫌な音が響いた。
「うああっ……!」
激痛が走る。ルクシーヌの右手首が折られた。
その痛みにしびれる中、更なる追撃が来る。
「爆光!」
両足を『脅威個体』の腹に叩き込みながら、ルクシーヌはどうにか脱出した。しかしその代償は大きかった。強引に引き抜いたせいで、右手首の骨折は悪化していた。右手はもう、攻撃にも防御にも使えそうになかった。
『脅威個体』の狙いは、谷を戻り本隊に戻ると見せかけて、実際の狙いはルクシーヌにダメージを与えることだった。
正面からの攻撃ではなく、翻弄すること自体が目的のような戦い方。魔物のやり方ではない。まるで人間の、盗賊職のような戦い方だった。
そして、ルクシーヌは退くことができない状況にあることを悟った。
仮に回復のために一度引いたらどうなるか。この『脅威個体』の行動は読めない。『残滓』の本隊に合流するかもしれないし、単独で町まで向かうかもしれない。
もし仮に、こんな厄介な怪物が町に行ったらどうなるか。
「させません……!」
ルクシーヌは辺境貴族だ。幼いころから領民を守るものと厳しく教育を受けている。だが今は、そんな義務感だけではなかった。
ルクシーヌは町に行った。領民の顔を見た。言葉を交わした。彼らと同じものを食べた。
もし『脅威個体』が町に侵入すれば、あの暮らしが失われる。外縁領地に近い町は、一度でも魔物が侵入すれば、人が戻ってこなくなる。やがて廃れてしまう。あの暖かさは戻ってこない。
ルクシーヌは失う痛みが大嫌いだ。だからこそ、失恋の痛みから逃れるために、「愛のない結婚」をするなんていう、おかしな考えにすがったのだ。
この『脅威個体』を野放しにすることはできない。
ルクシーヌは覚悟を決めた。