4.外縁領地の見回り
縁談のため、ルクシーヌはしばらくの間、ワディフェン邸に逗留することとなった。
一か月を共に過ごしてから婚約を結ぶのが、辺境貴族にとって一般的な婚姻の流れとなる。
一か月の期間があれば、大抵一回くらい、領地へ魔物の襲撃がある。そこでお互いの戦闘スタイルの相性を確認するのが慣習となっていた。
ルクシーヌとしては、手合わせでトラプターとの相性はわかっていた。すぐにでも婚約を結びたい、そのまま結婚してもいい、とさえ思っていた。
「愛のない結婚」では、関係を育む時間はいらない。必要なのは、事務的な手続きだけだった。
だが、急いては事を仕損じる。彼女はそのことを、これまでの近接戦闘で学んでいた。戦闘経験が足らなかった未熟な頃は、突出して苦境に陥ることも少なくなかった。だから焦りはしなかった。
ワディフェン邸に用意された部屋にここしばらくの生活用品などを運び込み、実家から一緒に連れてきた使用人たちに身の回りの仕事について細かな打ち合わせを行った。
ルクシーヌはそうした雑事に三日ほど没頭した。
一段落ついたころ、トラプターから誘いを受けた。
「これから『外縁領地』の見回りに行こうと思います。ご一緒にいかがですか?」
「はい! 是非ご一緒させてください!」
外縁領地とは、辺境貴族の担当する領地の一部だ。人類の生活圏の外側数キロを意味する。
ワディフェン邸から馬で一時間ほど走ると、ルクシーヌは防護結界を抜ける感触を感じた。人類の生活圏は、基本的には巨大な結界で包まれている。低級な魔物は通れないし、通れるような魔物は接近しただけで探知されるようにできている。
その外は危険地帯、外縁領地だ。
供の者はいない。ルクシーヌとトラプターの二人きりだ。原則として、外縁領地での移動を許されているのは、辺境貴族のみだ。常人がついてきても足手まといになることが多いためだ。
戦闘がありうるということで、ルクシーヌは最初から黒のボディスーツに着替えている。トラプターはいつものローブ姿だ。それが彼の普段着で、戦闘時の装備でもあるらしい。
「今日はこの谷の前と、それからこの丘に登って周囲を見渡すつもりです」
外縁領地に入ったところで馬を止めると、トラプターはルクシーヌに今日たどるコースを簡単に説明した。
事前に渡してもらった地図を見ながら、ルクシーヌは真剣に話を聞く。
戦闘において、地形の把握は重要だ。特に、近接特化である彼女は、戦う場所の影響が大きい。しっかりと把握しおく必要があった。
まずは近くの谷に向かった。
馬に乗って流れていく景色。始めは緑あふれる草原と、そこかしこにある小さな林が目に入った。
二年間、ルクシーヌは社交界に傾倒していた。その間も、領地に戻った時は戦闘に参加していたが、こうして外縁領地を見回りするのは久しぶりだった。
しばらく前までは、失恋に気持ちが沈んでいて、外出もほとんどしていなかった。
広々とした穏やかな土地で馬を走らせるのは、気分が良かった。
しかしそんな気分になっても、油断だけはしなかった。いつ魔物が出てもおかしくない外縁領地。そこで常に警戒するのは、辺境貴族の令嬢の基本的な心構えだ。
しばらく走ると、草原は途切れ、土地は荒れ果てていく。辺境貴族と魔物との激しい戦闘があるためだ。荒れやすく、草木がなかなか根づかないのだ
やがて、目的の谷に着いた。
高く峻厳な山に挟まれた、幅30メートルの谷が遠くまで続いている。
「ここがひとつめの目的地の谷です。魔物はここを通ることが多く、迎撃の要となります」
「この道幅は戦うのにちょうどいいですね。これならかなりの数を足止めできます」
「あなたの実力ならその戦い方がいいですね。限られた通路は罠魔法もしかけやすい。罠魔法で戦力を削り、残りをルクシーヌ嬢に殲滅してもらうような流れになると思います」
一旦馬から降りて、二人して地形を観察する。
ルクシーヌは手元の地図と照らし合わせ、ワディフェン邸からの距離や位置などを改めて確認した。
トラプターは分厚い本を手に、ぶつぶつとつぶやいている。
その様子にルクシーヌが目を向けると、彼は本を背に隠した。
「トラプター様。何をご覧になられているのですか?」
「いや、これはその……罠魔法の配置を書き記したものです」
「まあ! それはぜひ見ておきたいです! わたしも配置を知っていた方が、効果的に動けると思います!」
「そうですが……あまり見ても意味がないと思います」
「なぜですか? これから一緒に戦う機会も多いでしょう? 見ておきたいです!」
トラプターは見せるのを渋っていたが、ルクシーヌがじっと見つめると、根負けしたように分厚い本を渡した。
さっそく目を通そうと思ったが、開いたとたん、目に入った情報量の多さに驚いた。
各ページには拡大された地図があり、そこにはいくつもの記号がびっしりと書きこまれているのだ。
「このいっぱい書いてある記号……このひとつひとつが、まさか、罠魔法なのですかっ!?」
「……ええ、そうです。私の罠魔法は、一つ一つは効果範囲がそれほど広くないのです。だからそうして、数を増やさなければ、大軍に対応できないのです」
「……こんなにたくさん設置して、把握できるのですか?」
「自分の設置したものですからね。頭の中に入っていますし、魔力探知で確認できます。見回りは二週間に一度はしているので、それでこまめに位置の確認をしたり、効力の切れてきた罠魔法を再設置したりしています」
ルクシーヌは言葉を失った。
自分の担当した外縁領地にこれだけの数の罠魔法を設置する能力。そしてそれを把握している記憶力。どちらも彼女には無いものだった。たった1ページさえ、覚えきれそうもなかった。
罠魔法の配置をまとめたこの本には、そんな配置図が何ページにもわたって収められているのだ。
「引いてます? 引いてますよね? 以前、友人に見せたときもドン引きされました。これだけ執拗に罠魔法を仕掛けて、それをこまめに確認してるなんて、おかしいって。ハハッ。ルクシーヌ嬢はこんなものを見なくても大丈夫ですよ、だから……」
「『こんなもの』なんて言わないでください!」
急な大声に驚くトラプターにかまわず、彼女はまっすぐに言葉を放った。
「これは、あなたが領地を守るために積み上げた成果です! 素晴らしいものです!」
ルクシーヌは鍛錬や研鑽が大好きだった。
近接戦闘が主体である以上、日々の鍛錬は欠かせない。磨き上げた技術が自分も他人も救うことを、実感として学んでいた。
そして、社交界に傾倒してた頃も、美しさを高めていくことを、研鑽ととらえていた。
そんな彼女だから、トラプターが自らの領地を守るため、どれほどの思いでどれほどの努力を積み重ねているのかを、正しく理解した。
そして、初めて見たときに「体幹がしっかりしている」と感じた理由もわかった。トラプターは、山野でこまめに罠魔法をメンテナンスしている。その結果、身体が鍛えられているのだ。
領地を守るために不断の努力を続ける。それは彼女にとって、尊敬すべき辺境貴族の在り方だった。
「はは、ありがとうございます。そんな風に言ってもらえたのは初めてです。あれ、おかしいな、なんだか視界がぼやけて……」
トラプターは眼鏡をはずし、目元を服の袖でぐいっとぬぐった。
彼が落ち着いたところで、ルクシーヌは本を返した。
「確かに、これはわたしが見ても把握しきれません。だから、戦闘中は指示してください。わたしは必ず、あなたの期待に応えて見せます」
「はい! よろしくお願いします!」
トラプターはぺこりと頭を下げた。
それに答えてルクシーヌもまた、頭を下げた。
二人して頭を下げ、顔を上げたら目が合った。なんだか照れ臭くなり、二人して苦笑した。
その後も見回りを続け、主要な地点を回った。最後に着いたのは、小高い丘だった。
見通しがいい。ここからなら先ほど行った谷の入り口も確認できる。
振り返ると、そこには彼らの守るべき領地、人々の暮らす町も見えた。
そろそろ日も傾いてきた。紅い夕日に照らされたそこは、暖かに見えた。
「いい眺めですね……」
ルクシーヌの口から、戦略的な評価より前に、感嘆の言葉が漏れた。
「はい、僕もここからの眺めが大好きです。ここから見るたびに、絶対に守らなくてはならないと、決意を新たにできるのです。僕の大好きな場所を、あなたのような人といっしょに見ることができて、よかったです」
ルクシーヌはトラプターの顔をうかがった。さっぱりした、穏やかな笑顔を浮かべていた。
なぜだか、ルクシーヌは心臓が高鳴るのを感じた。
その理由に思いを巡らせようとしたところで、トラプターは慌てたように言いつくろった。
「な、なんだか恥ずかしいことを言ってしまいましたね! あのええと……ここは戦いの要衝でもあります! 戦いのときは、ここから罠魔法を起動することも多いので、ルクシーヌ嬢にもここを覚えておいてもらいたかったのです! そのためにここにきました」
「そうですか! ならこの場所は、しっかり覚えていないといけませんね!」
トラプターは赤くなってしまった頬を隠すように顔をそむけるが、辺りの地形を確認しはじめたルクシーヌは、その様子を見ていなかった。
見ている方向はバラバラだが、少しずつ距離だけは縮まっている。そんな二人だった。