1.ルクシーヌが婚約解消に至るまで
「すまない……君との婚約は解消させてほしい」
夕日に照らされた公園。その一角の、町を一望できる広場。初めてデートをした場所だった。そこで告げられたのは、しかし、別れの言葉だった。
告げた男はノーマル・ルーディエット。
金髪に整った顔。誰が見ても洗練された貴族とわかる、すらりとした美しい青年だった。いつもその顔には、優しい微笑みがあった。しかし今、その顔には恐怖しか窺えない。
その言葉を受けたのは、一人の少女。
肩まで届く、よく手入れされたつややかな金の髪。
まだあどけなさの残る、整った美しい顔。凛と輝く、金色の瞳。
胸元は慎ましく、なだらかでほっそりとした身体。
それを飾るドレスは、白を基調とした清楚なもので、少女の可憐さを強調していた。
花開く時を控え、膨らみ始めた白いバラのような少女だった。
「どうして……どうしてですか、ノーマ様……! わたしに至らないところがあれば言ってください。わたし、がんばります! がんばりますから……!」
少女が手を伸ばすと、青年はひっと息をのみ後ずさる。
その怯える容姿に、青年が心底恐れているのだと知り、少女は動きを止める。
「すまない……どうか許してくれっ……! 私はもう、君の手を握ることすらできないんだ……!」
彼は震えていた。心底おびえていた。そして、深々と頭を下げて、もう一度言った。
「どうか、婚約を解消させてほしい……!」
青年の恐れは不当なものではない。
光属性・近接特化・撃滅型令嬢ルクシーヌ・インファート。
彼女がその気になれば、伸ばしたその細腕で、たやすく青年を破壊してしまえるのだ。
およそ300年ほど前、「魔王大蹂躙」と呼ばれた時代があった。
突如生まれた魔王は、これまでとは一線を画する強さを持っていた。
交渉に応じず、自ら名乗ることすらせず、ただ敵対する勢力をその強大な力でもって蹂躙していった。何者に応じず、それまでの世界を決定的に変えてしまったことから、その魔王はいつしか「断絶の魔王」と呼ばれるようになった。
伝説では魔王に対する勇者が現れるはずだった。
しかし勇者は現れず、「断絶の魔王」の蹂躙は続いた。
およそ世界の8割が「断絶の魔王」の手に落ち、世界の滅亡も間近と思われ時、ようやく勇者が誕生した。
その勇者は、それまでの不在を取り戻すかのような、逸脱した強さだった。
瞬く間に魔王の幹部を倒し、「断絶の魔王」すら討ち果たした。
しかし、勇者は帰ってこなかった。
ただ、「断絶の魔王」が倒されたと言う報告と、魔物の勢いが大きく落ちたことだけが、人々の知る全てだった。
魔王がいなくなっても人類の苦境は続いていた。世界の8割は、未だ魔物の支配する領域だった。じわじわと生活圏を削られ、人類は緩やかに滅びるしか道は無いように思えた。
そんな中、一つの仮説が提唱された。
魔王がいなくとも、それに匹敵するほど人類は危機的状況にある。勇者誕生する条件は成立している。ならば……人の力で、意図的に勇者を生み出せるのではないか。
その考えは、「人為的勇者誕生論」と名付けられた。
夢想にすぎないその理屈に、しかし追い詰められた人々は縋った。人類はその理論の実現に向けて死力を尽くした。
そして、奇跡が起きた。人為的に勇者に準ずる力を持つものを生み出す方法が確立されたのだ。
かつての勇者に遠く及ばないものの、それでも当時の人類からは大幅に逸脱した強さを持つ彼らは、「疑似勇者」と呼ばれた。疑似勇者たちの強大な力により、人類は徐々に生活圏を広げていった。
王城を中心地として、疑似勇者たちは外縁部の土地を守護するようになった。外縁部の土地を治めるようになったことから、やがて「辺境貴族」と呼ばれるようになった。
そして国の中心にある王城と、その周りで政治や経済を運営する貴族たちは「中央貴族」と呼ばれるようになった。
ルクシーヌ・インファートは辺境貴族の令嬢だった。
彼女は辺境貴族として優秀な資質があり、それにふさわしい強大な力を持っていた。
彼女の能力は、身体能力を大幅に向上させる光属性のオーラをまとうことだ。光のオーラを纏った彼女が拳を振えば、大岩もたやすく砕くほどの威力となった。纏ったオーラは並の刀剣や魔法では歯が立たないほどの防御力を発揮した。
彼女はその力におぼれることなく、ひたすらに研鑽を続けた。
15歳になった時、彼女は初めて王都の社交界にデビューした。
初めて見るきらびやかな世界に、彼女は魅せられた。
そこで婚約者として引き会わされたのが、中央貴族の青年「ノーマ・ルーディエット」。
整った顔に爽やかな微笑。スマートな立ち振る舞い。高度な教育に裏打ちされた、知的なトーク。
彼女はたちまち魅了された。
髪を整えれば、あの人が気づいてくれる。
華やかに着飾れば、あの人が褒めてくれる。
美しくなれば、この恋が成就し、幸せになれる。
ルクシーヌは、戦いの技術向上に向けていた情熱を、美しさを磨き上げることに傾けた。
目的に向かい、ただひたすらに研鑽する、それが彼女の在り方だった。
ルクシーヌはしあわせだった。好きな人のために、美しくなることが嬉しかった。恋をすることがしあわせだった。
二年にわたり、彼女は幸せの絶頂にあった。
そんなある日のことだった。
ノーマとルクシーヌが街を散策していた時。暴走した馬車が通りかかった。
彼女の能力であれば、ノーマ一人を守るのはたやすい。だが、彼女は辺境貴族だ。多くの人を救うのが辺境貴族の役目であり、誇りだった。
ルクシーヌは躊躇わなかった。
暴走する馬車の前に出ると、光のオーラを纏った。
それだけで、馬車は止まり、馬は総立ちになった。しかしまだ、暴走する可能性はあった。
彼女がその気になれば、馬車ごと馬を消し去ることもできた。だがそれは、人を救うことにはならない。
だから彼女は地面を打った。
割れる石畳。衝撃に揺れる付近の家屋。その威力と衝撃に、暴走していた馬たちは昏倒した。
路面は破壊されたが、けが人は一人も出ず、馬も死なずに済んだ。
光属性・近接特化・撃滅型令嬢としての力を適切に使った、鮮やかな活躍だった。
彼女を称賛する声が周囲から上がった。
しかし、それを見ていたノーマは、その声に加わることができなかった。身体に傷一つ負わなかったものの、彼は心に大きな傷を負っていたのだ。
彼は中央貴族として厳しい教育を受けていた。辺境貴族の強力さは幼いころからよく教え込まれていた。もしルクシーヌが使ったのが魔法なら、彼はそこまで恐れることはなかっただろう。魔力を持たない彼にとって、魔法は縁遠く感じられるものだ。その破壊を目の当たりにしても、信頼する相手が為したことなら、頼もしいとすら感じたかもしれない。
だが、彼は、見てしまった。清楚可憐な少女の細腕が、石で舗装された道をたやすく大きく破壊するさまを、一部始終見てしまったのだ。
手を握ると、控えめに握り返してくる、細くて、柔らかい、少女の手。そんな手が、あれほどの破壊を生み出すことに、彼は恐怖することしかできなかった。
ノーマ・ルーディエットは、ルクシーヌ・インファートの手を握ることすらできなくなった。婚姻など、とても無理となってしまったのだ。
婚約の解消を受け入れ、ルクシーヌは失意の中にあった。
初めての失恋は、失うことの痛みは、彼女の心を打ちのめした。彼女は前のめりで全力で社交界に挑んできだ。婚約解消は、そんな努力の完全な否定だった。すべてが無駄になってしまったように感じられた。
彼女は三週間の間、鬱々と過ごしていた。
さすがにルクシーヌもこのままではいけないと思った。どうにかして、この失恋から立ち直らなければならなかった。
兄がいるので家督については問題ない。それでも、彼女も貴族だ。次の縁談について考えなければならなかった。
ルクシーヌは縁談について、あらためて考えをまとめた。
辺境貴族にとって縁談は二つだ。
ひとつは、辺境貴族へのつながりを求める中央貴族との縁談だ。中央貴族は武力として辺境貴族を求めている。辺境貴族にとっても、政治と経済を司る中央貴族とのつながりは重要なものだ。これは両者にとって、価値のあることだった。
もう一つは、辺境貴族同士の縁談だ。これは戦力の強化の意味合いが強い。力ある辺境貴族が婚姻を結べば、その地の戦力は高まる。また、生まれる子供も両親の資質を受け継ぎ、強力な辺境貴族になりやすい。
考えを整理するうち、彼女は解決策を思いついた。
「お父様! わたし、前の婚約解消のことはすっぱり忘れることにしました! 新しい縁談を手配していただけないでしょうかっ!? 辺境貴族との縁談に、興味があります!」
「ルクシーヌ……!? よ、よしわかった! 父に全て任せなさい!」
突然、書斎に入ってきて縁談を要求した娘に、父は喜んで応じた。
父はずっと、落ち込む娘のことを気にかけていた。ルクシーヌは若く美しい。婚約解消を知って、いくつもの貴族から縁談の話が持ちかけられていた。傷心にある娘のため、それら全てを止めていた。
だが、娘が立ち直ったのだ。娘がしあわせになる縁談を選び出そうと、父は奮起した。
しかし、ルクシーヌの現状は、父親の認識とは異なっていた。
彼女は立ち直ってなどいなかった。未だ生々しく引きずっていた。
ルクシーヌは「自分は恋愛には向かない」という結論に至っていた。
しかし貴族の令嬢である以上、いつまでも縁談からは逃げられないことも知っていた。
そこで彼女は「愛のない結婚」をすることに決めた。
「愛のない結婚」であれば、夫に恋愛で振り回されることもない。浮気されても、もともと愛情が無ければ気にならないはずだ。既婚者になれば、寄ってくる男も少なくなることだろう。
役立たずなら、離婚されるかもしれない。だが、辺境貴族との婚姻なら問題ない。戦う力さえあれば立場を維持できるはずだ。
ルクシーヌは自らの至った素晴らしい結論に満足を覚え、笑みすら浮かべていた。
実のところ、ルクシーヌは全く冷静ではなかった。
そのことに彼女が気づくのは、ずっと先のことである。