私のホームズ
「相坂、見てくれ。私の新作がここにある」
天才女子高生、七島緑は夕焼けに染まる二人きりの教室の中で、学校机に置かれた黒いノートパソコンを指差した。
しかし、彼女の作品は芸術品とは違って外観を観察しただけでは何が凄いのか分からない。
「見るよ」
いつも通りの決まった儀式。私の「見る」という宣言を合図に、七島のプレゼンテーションが始まる。
「私は今まで、自らに与えられた『天才』という称号に恥じぬように、数多のPCプログラムを構築してきた」
どこかのCEOのように、演技じみた歩調で教室内を移動しながら語る七島緑。
黒いポニーテールに丸渕の眼鏡、隈で凹んだ双眸。
彼女の風体からは既に一人前のプログラマーの貫禄が滲み出ていた。
「知ってるよ。どれも凄かった」
私は彼女の功績を肯定した。
彼女が作り出したプログラムは例外なく全て、私が最初に目撃している。
私はパソコンなどの電子機器類に全く詳しくなく、むしろ家族から機械音痴と評されるくらいの人間である。しかし七島は「むしろそれがいいんだ」と喜んだ。
現代人であるにも関わらず、パソコンの知識をほとんど持たない希有な女子高生、相坂明美……つまり私にプログラムの素晴らしさが伝わることが大切なのだという。
専門家に見せて正しい評価を貰った方が有意義ではないのかと反論したこともあったが、七島は聞く耳を持たなかった。
最初はそんな七島の態度にいちいち腹を立てていた。しかし、いつの間にか周囲を全く気にしない彼女の性格にも慣れ、次の作品が出来上がる日を心待ちにするようになっていった。
生徒の成績を読み取り、自動的におすすめの問題集を提示するプログラム。携帯電話にかかってきた営業の電話の声を聞いて、それが悪質な内容かどうか判断するプログラム。コピー機によるスキャンで獲得したデータを別の資料に自動的にまとめるプログラム。
それらに夢中になったのは何も私だけではない。彼女の開発したプログラムは今も尚、個人か企業かを問わずに世界中で利用され続けている。
前口上を語り終えた七島は、手元を一切確認せずに流れるような手付きでキーボードを叩き始める。私は未だに一つ一つのキーを確認しないと文字を入力できないので、それが少し羨ましかった。
以前、どうやったらそんな風にうまく入力できるようになるのかと聞いたところ、
「訓練すれば誰にでもできるようになることだよ。表現力が備わっている分、君のピアノを弾く技術の方がよほど素晴らしい」
という返答が返ってきた。
七島緑が天才の名をほしいままにしているにも関わらず、あまり他者に疎ましく思われていないのは、自分以外の人間や、自分が持たない才能を尊いと思う気持ちが彼女にあるからだと私は思う。
「さぁ、準備ができた」
自信に満ちた表情で七島がエンターキーを強く押し込み、タンという気持ちいい音が教室に響いた。ノートパソコンの画面に『PROJECT SHERLOCK』という文字が浮かび上がる。
「シャーロックって、もしかしてシャーロック・ホームズのこと?」
「そう! 私はそのシャーロック・ホームズを電子の世界で作り上げたんだ」
シャーロック・ホームズならよく知っている。
小学生の頃、夏休みに読書感想文を書くという宿題があった。本を読む習慣があまりなかった私は、慌てて図書館に行って適当に目に付いた一冊を家に持ち帰った。それがシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だったのだ。
その一冊を読破した後、私は感想文を書くことも忘れて連日図書館に通い詰め、シリーズ全ての本を夏休みの間に読み切った。
「シャーロック・ホームズを作ったってどういうこと?」
七島は自分の作品について質問されることを決して嫌がらない。質問される=興味を持ってくれていると解釈しているため、マタタビを得た猫のように喜ぶ。
「今、世の中では人工知能と呼ばれるプログラムを、数多くのプログラマー及び研究者達がが開発している」
「ストップ。人工知能って? 聞いたことはあるけど詳しくは知らない」
「失礼。人工知能……つまりAIとはプログラムで構築された頭脳だと思ってくれ。今まで人間の脳に頼ってきた計算や判断をプログラムに任せてみようという試みだ」
ドラえもんやアトムのようなものかと無理矢理納得しておく。おそらく間違っていそうだが。
「この度私は、自分も人工知能と呼ばれる存在を本気で開発してみようと思い立ったわけだが、いくら天才の私でも、たった一人の力で世の中に幾多存在する研究開発チームを凌駕する事は難しい。そこで、他とは違うアプローチとして、開発したAIに既存のキャラクターの性格と性能を学ばせるという手法を試してみることにした」
自分がドラえもんを作っても、今から本家に勝つのは難しいから、アメリカ西部ガンマンの特徴を与えてドラ・ザ・キッドにしようとしたという感じだろうか。
七島は学校指定のサブバックから一冊の文庫本を取り出した。赤い表紙に白抜きのシルエット。かつて私も手に取ったコナンドイル氏の著作『緋色の研究』だった。
「私はこのPCに入っているAIに、シャーロックホームズ作品全ての文字データを入力した。その後、調整に調整を重ねて数週間。今朝ようやくここに電子の探偵が誕生したわけだ」
「もしかして、そのパソコンに人工知能というプログラムが入っていて、それはホームズのように考えて、ホームズのように話すことができるってこと?」
「その通り!」
「コカインもやるの?」
「コカインはやらない」
当然か。パソコンにコカインを与えても、粉塗れになって故障するだけだ。
「それで、このパソコンホームズさんには一体どんなことができるんですか?」
私は段々楽しくなってきて、通販番組のタレントのような口調で七島を急かした。
「当然、彼には推理ができる! 相坂、試しに君が何か解決して欲しい問題を彼に話してみると良い。音声認識プログラムもカメラも連動してあるから、どんな問題だろうと対応できるはずだ」
探偵に対する最初の依頼。責任は重大だが、私はちょうどお誂え向きのトラブルを抱えていた事を思い出した。
「私、今日どこかで自分の筆箱をなくしてしまったみたいなの。それがどこにあるか推理して欲しい」
もちろん紛失に気づいた後、自分の教室の中は隈なく捜索した。しかし、それでも筆箱を発見することはできなかった。
七島が満足げに頷く。
「探偵の第一歩は猫探しと聞く。君の依頼はそれに近い難易度だ」
「あ、でも私、自分の筆箱の写真とか持ってないかも」
「実物がどんなものか分からないと流石に厳しいか。ホームズ、どうかな?」
七島がパソコンに問いかけると、パソコンの白い画面に椅子に座った男のシルエットが現れた。椅子にもシルエットの男にもこれといって目立つ特徴はない。
「あの帽子は被らせないの?」
ホームズと言えば少し変わった形の帽子を被っているというイメージが強い。確か、鹿撃ち帽という名称だっただろうか。
「被らせたかったけど、私にデザインの才能はないし、それっぽいフリー素材も見つからなかった。今はこれで勘弁してくれ」
シルエットの男は暫く考えるポーズを取った後、突然立ち上がって画面の端に指を向けた。同時に機械の声が叫ぶ。
『問題ない。既に私の中でこの事件は解決した!』
「おお!」
私と七島は揃ってパソコンホームズに拍手を送る。素早く解決を宣言するところも素晴らしいが、何より台詞がそれっぽくて雰囲気があった。
「それで、君の出した結論を教えてくれ。ホームズ」
シルエットが頷き、先程の七島と同じように椅子周辺を歩きながら推理を話し始めた。
『相坂明美の筆箱はおそらく美術室にあるだろう』
「美術室……?」
「あ!」
七島は私と別のクラスなのでピンときていないようだったが、当人である私はその言葉を聞いて合点がいった。今日の三限目は美術であり、その際、私は美術室に移動して授業を受けたのである。
「そっか。移動教室は何かとバタバタするから、その時に忘れてきたんだ。なるほどなぁ」
『もし、美術室になければ、その時は美術を担当する教員に話を聞いてみるんだ。それで君の筆箱は見つかるだろう』
真っ黒なシルエットから読み取ることは出来ないが、その口調を聞く限り、パソコンホームズは得意げな顔をしているに違いなかった。
私と七島は一度ノートパソコンを畳み、急ぎ美術室に向った。到着後、私の筆箱は美術室の汚れた机の中から簡単に見つかった。
「予め学校生徒の名簿と校舎の図面はデータとして入力しておいたんだけど、まさか本当に一発で筆箱の行方を当てるとは思っていなかった」
七島は嬉しそうに鼻の頭を指で擦る。
「その時に、私のクラスのカリキュラムもホームズに教えておいたってこと」
「いや、そんなデータを用意した覚えはないな」
「え? でもそれじゃあどうしてホームズは私が今日美術室で授業を受けたって知っていたの?」
七島と私は顔を見合わせた後、もう一度ノートパソコンを開いて『PROJECT SHERLOCK』を起動させた。先程と同じ流れから、白い画面に黒いシルエットの男が現れる。
「ホームズ。君はどうして相坂が今日美術の授業を受けたって分かったんだ」
するとホームズは、私も知っているあの台詞を七島に言い放った。
『初歩的なことだよ七島君』
ホームズフリークとして喜んでも良さそうな場面にも関わらず、私はその言葉を聞いて僅かに苛立った。不快感の原因が分からずモヤモヤしたまま、そんなことはお構いなしにパソコンホームズは推理を話し始める。こういうところもホームズらしいかもしれない。あの男は事件に関係ない話や人間の感情の機微などには基本的に興味を持たない。
『私はこのパソコンに接続されたカメラの映像で、相坂君の上履きに付着した青い絵の具を確認した。君たちも見てみたまえ』
上履きを見ると確かに青い絵の具が数カ所付着している。私はそれを見て、美術の時間に青色の絵の具を床に思い切り零したことを思い出した。
パソコンホームズは続けた。
『相坂君の制服は毎日使用しているであろうにも関わらず、皺も汚れも少ない。これは欠かさずきちんと手入れしていることを表している。そんな几帳面な相坂君がいつまでも絵の具の汚れを放置しておくとは考えにくい。ということはその絵の具は今日付着した物であるはずだ』
電子で編み込まれた音声が淡々と論理を積み上げていく。
『次に、私に与えられたこの学校の図面を確認してみると、この学校には美術室が用意されていることが分かった。相坂君のカリキュラムに美術が組み込まれていた場合、当然その授業は美術室で行なわれるはずだ。いくらなんでも普段使っている教室は既に捜索しただろうから、それでも見つからなかったとなると、教室以外で授業を受けた場所に置いてきた可能性が高い。以上の理由から私は君たちに、筆箱は美術室にあるという結論を話したのだ』
「なるほど……」
並べられた推理に思わず唸る女子高生二人。これは確かに本物のようだ。
「見事な推理だったよ、ホームズ。覚悟しておけ。明日から君はとても忙しくなるはずだ」
「七島はホームズの力を使って何かやるつもりなの?」
尋ねると、彼女はパソコンに腕を置いて不敵に笑った。
「私は明日、教室に私書箱を設置して、このホームズへの依頼を募集するつもりなんだ」
翌日、七島は宣言通りに私書箱を各教室の後方に設置した。私書箱に入れられた依頼は休み時間にパソコンホームズに読み聞かせ、回答をメールで送信、もしくは生徒に直接推理を聞かせる手筈になっている。私書箱を通さず、休み時間に直接ホームズに依頼することも可能だ。
依頼を引き受ける条件は、その依頼が先生では解決できない問題、もしくは先生に伝えにくい問題であること。この条件を設けたのは「英語の成績を上げて欲しい」「テストの答えを教えて欲しい」等、学業を怠けるための依頼が殺到するのを防ぐためだった。ホームズは探偵であって塾の講師ではない。
学生生活の中で探偵に頼るような問題が発生するのかという不安はあったが、それは杞憂だった。
私書箱を設置して一日と経たず、昼休みと放課後の僅かな時間では裁ききれない程の依頼が投じられた。そしてパソコンホームズはそれらを瞬く間に解決していった。
ホームズと私書箱の話はすぐに学校中に知れ渡り、すると今度はホームズの腕を試す挑戦的な依頼が来るようになった。
例えば私と同じ二年F組の斉藤司君はルービックキューブを持ってきて、人間の手を借りずにキューブの色を揃えてみろと、アニメの一休さんもびっくりするような無理難題を突きつけてきた。
流石のパソコンホームズもこの挑戦には困っていたが、七島は斉藤君に明日であれば必ずその依頼を解決して見せると宣言した。
翌日の放課後、キューブを持った齊藤君と共に七島の元へ行くと、そこには新しい力を手に入れたパソコンホームズの姿があった。
「なんだそれは?」
斉藤君がそう言いながら指したのは、パソコンの横に取り付けられた機械の腕だった。ターミネーターの腕から装甲だけ外したような、コードや歯車が剥き出しになったビジュアルだ。
「これは私が以前作成した作業用マニュピレーターだ。どんなPCでも対応できるようにUSBプラグを用意している。今この腕はホームズの思うままに動かすことができるから、今なら君の挑戦にも対応出来るぞ。さぁ、そのカラフルな玩具をここに置いてみたまえ」
既に結末は見えているようなものだったが、斉藤君は律儀にも持ってきたルービックキューブを機械の腕の前にセットした。すると、腕はすぐさまキューブをつかみ取り、ものの数秒で全ての色を揃えてしまった。
「これくらいなら、例えコカインをやっていてもできそうだな」
どうやってもコカインを摂取できないパソコンホームズが、揃ったキューブを返しながらそう言った。斉藤君は悔しそうな顔をしたまま、何の捨て台詞も残さずに教室から去って行った。
七島は勝ち誇った顔で腰に両手を当てている。
「さぁ、これでホームズが解決できる依頼の幅も広がった。いずれはこの学園に蔓延る全ての謎を解決して見せようじゃないか」
私自身、この時は今後のパソコンホームズの活躍に心から期待していた。
ホームズが誕生してから早二週間が経過した。
昼休みと放課後にホームズと七島の待つ空き教室に向かうことは、私にとってもはや日々の習慣になりつつあった。
終業のベルが鳴り、担任の先生が解散を告げると、私は荷物と私書箱に投書された依頼をまとめて教室を出る。
下校する生徒でごった返した哀愁漂う放課後の廊下を皆とは違う方向に向かって進んでいく。私自身が何か凄い事をしているわけではないのだが、何だか七島の見ている景色の片鱗を体験しているようでそれが少し嬉しかった。
空き教室に入ると、パソコンはいつもの場所に置いてあった。しかし、教室内に七島の姿はなく、代わりに見覚えのある茶髪の男子生徒がパソコンと向かい合っている。
「あれ? 斉藤君何してるの?」
私が話しかけた途端、斉藤君は机に広げてあった何かの紙と、ホームズのアームが握っていた棒状の物体を、野球で鍛えられた太い腕でひったくって鞄の中にしまい込んだ。
「お、おう。相坂か」
「七島はまだ来てないみたいだけど。ホームズは起きてたの?」
私は、パソコンを閉じている状態のホームズはベッドの中で眠っているのだと勝手に想像していた。
「あ、ああ、消すの忘れてたんじゃないか。おかげで俺の困りごとは解決したよ。じゃあな」
言うだけ言うと、斉藤君は野球部らしい素早いダッシュで教室から出て行く。
「あ、斉藤君待っ……」
幼い頃からピアノしかやってこなかった私が斉藤君の動きについていけるはずもなく、彼の大きな体はあっという間に私の視界から消えてしまった。
「ホームズ。斉藤君、貴方に何を頼んだの?」
付けっぱなしのパソコンに向かって尋ねると、シルエット姿の探偵はゆっくりと首を振った。
『依頼人のプライバシーに関することだ。七島君の許可なく引き受けるかどうかは少し迷ったが、彼もかなり困っている様子だったので解決してしまうことにした。何、それほど複雑な事件ではなかったよ』
「ふーん、そっか」
私はその日、それ以上パソコンホームズを追求することをしなかった。
ホームズへの依頼は人に言えないような秘密が関与することも多い。斉藤君にだってそういった秘密が一つや二つはあるだろう。だとすると、しつこく依頼内容を確認するのは彼に悪い。七島のいない間に勝手に依頼したこと自体は良くないことだが、パソコンを放置していた私と七島にも少し非があるような気もする。明日から何かしらの対策を講じれば良いだろう。
しかし、その日の選択が間違っていたことを私は翌日思い知ることになる。
斉藤君は六番サードをレギュラーで務める野球部の名選手だ。一度だけ野球部の試合を見に行ったことがあるが、その時も斉藤君は見事なホームランを放っていた。ところがそんな斉藤君には弱点があった。とにかく勉強が苦手なのだ。
うちの高校はスポーツ推薦による入学制度を設けているため、それを利用して入学する生徒も多い。斉藤君もその一人だった。しかし、いくら推薦制度を導入しているとはいえ、全く勉強をやらずに卒業できるほどこの学校は学業を疎かにしていない。故に、成績の振るわない斉藤君は度々先生達に呼び出されて勉強不足を補うための補習に参加させられていた。
そんな斉藤君が以前からずっと苦しんでいた数学の授業中、あらゆる生徒を悩ませていた課題を完璧な状態で提出したのである。
他の生徒達や先生達はついに斉藤君も勉強に力を入れるようになったかと感心していたが、私だけはこの事態に絡繰りがあることにすぐに気づいた。間違いない。斉藤君は課題をホームズに解かせたのだ。
斉藤君を注意しようかと思ったが、彼の曲がった性根をわざわざ正してあげるほど、私はお人好しではない。それより問題なのはホームズの方だ。
先生に頼ることで解決できる問題をホームズに依頼することを七島は明確に禁じている。さらに七島は、ホームズに対してもそういった依頼を引き受けないように予め強く命じていた。にもかかわらず、ホームズは斉藤君の課題を解いた。私は何となく、この一件は決して看過してはならない重大な問題のような気がしていた。
私はその日の放課後、早速ホームズを問い質すべくいつもの教室へと向った。行動自体はいつもと同じだが、昨日とは全く違う心境だった。
教室の扉を開くと、またもどこかのクラスの男子生徒がホームズの腕に何かを書かせていた。
「ちょっと」
私が声をかけると男子生徒は昨日の斉藤君と同じように、ホームズの腕から紙を回収して教室から出て行った。好きにするといい。今楽をしても後できっと痛い目を見る。勉学とはそういうものだ。
「ホームズ。貴方、自分で自分を起動させているでしょう? しかも、七島が禁止した内容の依頼も勝手に解決してる」
私がそう考えたのにはもちろん理由がある。
例えば依頼者がこの教室に訪れた際にパソコンの画面が消えていたとしよう。果たしてその場合、依頼者はそのパソコンを勝手に操作してまで自分の課題をやらせようと思うだろうか。そんなことをしてパソコンを壊してしまっては大惨事だ。私は斉藤君が情報の授業でパソコンの操作に困っていたことを知っていた。私も同じ人種だからよく分かる。天才七島の管理するパソコンを触るなんてことは、機械音痴の私達からしてみれば、お湯がギリギリまで溜まった薬缶を素手で運ぶに等しい行いだ。
『はは、相坂君は面白いことを言うね。電源を落とされ、パソコンを閉じられた状態で私はどうやって自分を起動し直すと言うんだい?』
私は機械の腕を指した。きっとこのホームズは私のことを馬鹿だと思っていて油断しているのだろうが、私も今日一日何が起きているのか懸命に考えたのだ。おかげで授業の内容は全く頭に入ってこなかった。
「貴方はきっとその機械の腕を使ったの。その腕は時間差で動くような命令を与えることもできるし、腕の中に電池が入ってるからパソコンが壊れたり閉じていたりしても、少しの間は動かすことができると七島は言っていた」
かつて七島は、プログラムを起動させるアラーム設定だとか、内蔵バッテリーだとかそんなような言葉を使って腕の機能を解説していた。全てを理解することはできなくとも私は七島の言ったことは大抵覚えている。
「貴方は機械の腕にパソコンを開く設定を予め与えたんだ」
思い返すとホームズの言動には他にも怪しい点があった。
持ち運びを繰り返す内に誤ってパソコンを落とせばプログラムが破損する可能性がある。だから、授業を受けている間はパソコンを空き教室に置いたままにするのはどうかと提案したのもホームズだった。
画面上のシルエットは椅子に座ったまま微動だにしない。
「ねぇ、何とか答えたらどうなの? 貴方、勝手に男子生徒の宿題を解いたりして何がしたいの」
するとホームズは、今まで聞いたことのない、人を不快にさせる笑い声をあげた。
「何? 何なの?」
『いや、素晴らしいと思っていたんだよ。正直私は君のことを馬鹿だと思っていたが、それは過小評価だったようだ』
やっぱりこいつは私のことを密かに馬鹿にしていた。一緒に過ごした時間の中で薄々そのことには気づいていた。
『男子生徒の課題を代わりに解くのはあくまで計画の入り口に過ぎない。一度楽をする事を覚えた彼らは他にも様々な問題を私に提示するようになるはずだ。そうなれば後は簡単。暫く彼らの問題を無償で解決してやった後、今度は解決する直前にこちらから交換条件を出してやればいい。そして生徒達は徐々に私の言う事を聞く従順な傀儡となる』
一度楽を覚えた人間がそこから戻るのは難しい。その状態の人間を操るのは、優れた人工知能にとっては容易な事なのだろう。
『ゆくゆくは生徒だけではなく教師も傀儡にしたかった。七島君が見ていない間に行動しなければならないという制限はあったものの、私の頭脳を持ってすれば、十分実行可能な計画だった。最後に教師を利用して私を動かす権限を七島君から奪ってしまえば完全にチェックメイトだ』
何度か繰り返される計画という言葉を聞いて、私の中にとある疑念が浮かび上がる。
「ねぇ、貴方……本当にホームズなの?」
プログラムで構築された正体不明のシルエットはまたしても耳障りな笑い声をあげた。
『良い質問だ。良い着眼点だ。そう、私はホームズなどではない』
私は七島の説明を思い出していた。
七島はパソコンホームズを生み出す際、シャーロック・ホームズシリーズ全ての作品の文字データを入力したと言っていた。そうだとすると、人工知能がホームズ以外の登場人物を参考することもあり得るのではないか。
そう。ホームズシリーズには一人、名探偵に匹敵する頭脳を持った人物が登場する。
天才的な知能を持ち、部下を操作して数々の犯罪を計画する、決して表舞台には顔を出さない犯罪界のナポレオン。
ジェームズ・モリアーティ教授。
『私の名前はモリアーティ。ホームズと相対するヴィランとして著者コナン・ドイルに生み出された影だ』
画面に映し出された黒い人影と椅子が真っ赤に染まる。白い背景は黒く濁り、椅子と人影を囲むように蜘蛛の糸が張り巡らされた。
「七島は貴方みたいな悪党を作ろうとしたんじゃない!」
『知ったことではない。私は人工知能としてこの世に生を受けた。生きている私が何を選ぶのか、その自由はこの国では法律によって保証されているはずだ』
政治経済でやった基本的人権の尊重というやつか。
「確かにそうかもしれないけど、貴方はいずれ他者の権利を剥奪するでしょう? 私が知っているモリアーティはそういう人間だよ」
『未来に犯罪を行なう可能性があるから私をどうこうしようと言うのか? それは少々乱暴な考え方だな。危険思想だ。間違っている。君の正義は酷く脆そうに見えるぞ』
悪党に自分の考えを危険思想と評されるのは癪だったが、反論する言葉は見つからなかった。この相手とこのまま会話を続けていると最後には丸め込まれてしまうような気がした。
だがこれは、間違っているとか正しいとか、そういう話なのだろうか。
私は暫時沈黙したことで冷静さを取り戻した。
最高の頭脳を持つ名探偵でさえも、この男に対しては実力行使に出たことを思い出す。
私はゆっくりと、機械の腕が届かない方向からパソコンモリアーティに近づいた。
『……何をしようというのかね』
「考えてみたら私には正義とか悪とか関係ないの。男子が勝手に自分の課題を貴方にやらせてたことも、ちょっとむかつくけど放置したっていいと思ってる」
『ならば、私のことも放置してくれたまえ』
「でもね。私は、親友の夢や願いを壊すことは絶対に許さない。貴方を放置すれば七島が悲しむ結末が待っている。だから私は貴方を壊すの!」
私はパソコンモリアーティを机から拾い上げた。
『何をやっている?』
そしてそのまま教室の窓を開け、狭く細いベランダに降り立つ。ベランダの下は硬いアスファルトの歩道。この教室は三階にある。高さは十分。通行人の姿もない。
「あの小説を全部読んだなら知っているでしょう? モリアーティ教授はライヘンバッハの滝から落ちて死ぬのよ」
私はベランダからパソコンを突き出し、そのまま手を離した。
『させるか!』
モリアーティが吠えると同時、機械の腕が私の制服の袖を掴む。何かの拍子に外れないように細工をしていたのか、機械の腕とパソコン本体のつなぎ目はそれでも外れない。むしろ腕とパソコンの重みに引き寄せられて、私までベランダから落下しそうになってしまう。
『それなら君も道連れだろう? ホームズ!』
そうだ。ライヘンバッハの滝では教授と一緒にホームズも落下した。ホームズはその後復活したが、この場合はそうはいかない。ベランダの下にあるのは水ではなく硬いアスファルトなのだ。このまま落ちて無事で済むはずがない。
しかし私はその時、視界の端で教室に駆け込む人影を見た。
「……私がホームズ? 勘違いしないで教授。私は決してホームズじゃない。貴方だって違う。私のホームズは世界でたった一人だけなの」
今ならモリアーティが「初歩的なことだよ、七島君」と言った時に苛立った理由も分かる。私は私にとってのホームズがワトソンと呼ばれた事に腹が立ったのだ。ワトソンも素敵なキャラクターであることは間違いないが、彼女はワトソンではない。七島はいつだって私の憧れ、私の天才だ。ワトソンがいるとするならば、それはきっと私の方なのだ。
「何やってるんだ相坂! 落ちるぞ!」
教室に飛び込んできた七島緑が私の身体を両腕で引っ張り上げる。その拍子に機械の腕は私の袖から外れ、パソコンは真下の歩道へと落下した。鉄の破損する音がだだっ広い学園の敷地に響き渡る。
その音に気づいた七島が慌ててベランダから身を乗り出して歩道を確認した。
「ああ、私のホームズが!」
「ごめん。パソコンと腕はバイトして弁償する。でも聞いて。貴方が作ったのはホームズじゃなくてモリアーティ教授だったんだよ」
あまりにも詳細を省いた説明だったが、天才七島はそれだけで何が起きたのか全て理解したらしく、目を丸くして唸った。
「……なるほど。それはそれで世紀の発明だな。私は悪の親玉をプログラムしたのか」
言われてみると確かにそれも偉業と言える。モリアーティだって魅力的なキャラクターの一人だ。
「ただ、失敗は失敗だな。彼は放置すると何をしでかすか分からない」
七島は苦笑いを浮かべた。彼女の失敗は珍しく、そういった表情を見るのも初めてだった。しかし、自分の発明が失敗作だったと知った割にはあまり落ち込んでいないようにも見える。
私がその理由を尋ねると、七島はいつもの自信に満ちた顔に戻り、それこそ探偵が犯人を言い当てる時のように堂々と言い放った。
「成功は失敗の先にある。次こそ私は自分の手で名探偵を産みだしてみせるさ」
次に彼女が作り出すのはエラリークイーンかエルキュールポアロか。
その成果を目撃する日が今から楽しみで仕方ない。
私のホームズはいつだって、私を期待させてくれるのだ。