第3話
ガクトは海の中にいた。
とても恐ろしい夢を見た気がするが、記憶が混濁していて定かではない。
「――助けてください」
突然、少女のきれいな声が聞こえた。聞き覚えのある声。夢の中で聞いたのか?
ガクトは振り返ってみる。誰もいない。
「世界の自由は殺されました。あなたの助けが必要です」
またしても声が聞こえた。もしかして、まだ夢の中なのか?
ガクトは頭を振り、手足を使って水を掻き始める。
一匹の豚イルカがやってきた。くりくりした可愛らしい黒目と、文字通りの豚鼻がトレードマークの、遊び好きな哺乳類だ。
横に並んできた豚イルカに、ガクトは微笑みかけた。きっと遊び相手が欲しいのだろう。
ガクトは泳ぐスピードを速めて豚イルカに勝負を挑んだが、あっさり負けた。
なんの取柄もない半端者の自分には、無理だ。
――いや、そう落ち込むな。できることを頑張っていけばいい。
と、前触れなく、自分の中から前向きな考えが沸き起こった。まるで誰かから言われたかの如く、唐突な感情の変化に違和感を覚える。
(夢の中で、何かあったのか?)
思考するガクトの前方で、豚イルカが円を描く華麗なターンを見せ、泳ぎ去っていった。
海面に浮上し、大きく息を吸う。
抜けるような青空に輝く陽光が眩しい。
浜で待つ友人の照に、今海で獲った獲物を見せた。
ガクトはそこで強烈な頭痛に見舞われた。
同時に既視感を覚えた。
ガクトの様子に狼狽え、助けを呼びに行く友。割れそうな頭。脳内に響く少女の声。
全く同じことが、夢の中で起きた気がする。
ガクトは視界を白い光に覆われ、意識を失った。
■
頭痛が過ぎ去り、次いで生じた激しい風と浮遊感にガクトは目を開ける。
そこは雲の中だった。
「――うわぁああああああああああああああああああ‼」
突如訪れた落下に臓器が竦み上がる。本能的に手足が動くが、つかまるものも踏ん張る場所もなく、ただ重力に従って無抵抗に落ちていくしかない。
最も重い部位である頭を下にして、文字通り真っ逆さまだ。
雲が晴れ、眼下に島が見えた。島の中央には山が聳え、広い火口を開けている。
何が起きたのか全くわからないまま、しかしガクトは一つだけ確信する。
これは夢じゃない!
そのときだ。
「うそでしょ⁉」
唐突に幼い少女の声がしたかと思うと、急速な落下の感覚が途切れた。
恐怖とパニックで目を閉じていたガクトが恐る恐る瞼を持ち上げると、小柄な少女の、なにやらゴツゴツした機械に身を包んだ姿が飛び込んで来た。
「大丈夫?」
「――え?」
わけがわからないガクトは思わず間の抜けた声を溢す。
背中と股の裏に、少女の腕の硬い感触。ガクトは今、どう見ても自分より幼い少女にお姫様抱っこされた状態だ。
恐らくは落下するガクトを発見して、救助してくれたのだろう。
抱きかかえられた姿勢ではよく見えないが、少女はまるでSF映画に出てくるパワードスーツのようなものを着用している。
ガクトの脳裏に、また違和感。
ガクトはどういうわけか、彼女の名前を知っているのだ。
ジュリア・ヴェローチェ。軍人だ。
「あ、ありがとう、ジュリア」
「……? あんた、どこかで会った?」
ジュリアが薄いブラウンの瞳でガクトの顔を覗いてくる。
「ええと、たぶん……」
どう説明したらいいかわからないガクトが苦し紛れに言うと、ジュリアは肩を竦める。
「それは他人の空似ってやつよ。あたしもジュリアだから、名前まで同じなのは驚きだけど。――で、どういう状況でこんなところにいるわけ?」
「ど、どういう状況って……気が付いたら空にいたんだ」
近くで見れば見るほどに強調される、彼女のあどけなさを孕んだ可愛さに、ガクトは目を逸らしつつありのままの状況を話す。
「――でしょうね。身なりもあたしたちの制服とは違うし。アリーフェに呼ばれた?」
「アリーフェ?」
誰のことかわからず、首を傾げるガクト。
「声が聞こえなかった? 周りに誰もいないのに、きれいな声だけが聞こえたとか」
「きれいな声なら、聞こえた……と思う」
「それがアリーフェよ。彼女の召喚魔法で、あんたはこの惑星に召喚されたの。でもまさか、召喚された子が空に現れるなんて、さすがに初めてだわ。まったく……」
ガクトの脳内に、死火山の火口の窪みに建設された学園、南側に位置する街、大勢の生徒たちといった、いつかどこかで見た光景が蘇ってきた。
いつかどこかで? どこだ?
ガクトは自問し、すぐに出た答えに自分で驚く。
眼下の島だ。
「――ジュリアは、空のパトロール中だったのか? それとも狩り?」
「パトロール中よ。よくわかったわね?」
ジュリアは驚いて眉を広げる。それから訝しげに、
「……もしかして前からいる? その特徴的な青い肌は見覚えないけど、あたしの名前を知ってる説明がつくわ」
前からこの島にいるのか? という質問にガクトはしかし、頷けない。
眼下に広がる島も、ジュリアのことも、何故か記憶の中にある。しかしなぜ記憶の中にあるのか、その理由がわからないのだ。
夢かもしれないし、昔に見た、似たような光景や人物と混同している可能性もある。
「――ごめん。ここに来たのは初めてだ。だからたぶん、俺の勘違いだと思う」
故にガクトは仕方なく、この島に初めてやってきたという体で回答した。
ジュリアは頷いて、
「きっと一時的に頭が混乱しちゃってるのよ。初めて召喚されたんだもの。珍しくないわ」
ガクトを抱えたまま高度を下げていく。
ガクトは高度が下がったことで生じた気圧差で鼓膜に痛みを感じ、耳抜きをする。
「――パトロールは一旦終了。あんたをアリーフェのところまで送ってあげるから、彼女からいろいろと説明を聞いて頂戴」
「説明?」
「ええ。この島は今、深刻な問題を抱えてるの。あんたもあたしも、その問題を解決するために呼ばれたのよ」
ジュリアの言う、深刻な問題という言葉が示すものを、ガクトは知っている気がした。
■
「ご、ごごご、ごめんなさぃいいいいいい!」
ぱっちりした目から大粒の涙をぽろぽろ溢して、アリーフェが何度も頭を下げる。
グラウンドを四角く囲む、城塞のような外観をした校舎。その角に聳える塔の一つに、ガクトは通されていた。
ジュリア曰く、ここが学園を取り仕切る生徒会室とのことだ。
部屋の奥――窓際に置かれた荘厳なデスクの上に、ミニチュアサイズのデスクが置かれ、そこで身長十センチくらいの妖精・アリーフェが泣き崩れている。
「わ、わたしとしたことがぁああ! コントロールを誤って、あ、あなたを変なところに呼び出してしまいまじだぁあああ!」
「彼女、ごく稀にやらかすのよ。ごく稀にね? ここにはいないけど、リクって子はプールの真上に召喚されてずぶ濡れになったし、そこでボコボコになってる寺之城って男はあたしの胸に顔から突っ込んできたしね。おかげでびっくりして顔面を捻り潰しちゃった。けど、みんな命に別状はなく済んでるから、あんたも許してあげて?」
と、ジュリア。
リクという名前に、ガクトは一瞬頭痛を感じた。
理由はわからないが、何か大切なことを忘れている気がしたのだ。
「いや、どう考えても一人瀕死の重傷負ってないかね? まぁ僕のことだが……」
生徒会室のふかふかのソファに座る男子生徒――寺之城大和が言った。何故か彼の顔はじゃがいものように、デコボコに歪んでいる。
「瀕死で済んで良かったじゃない」
と言って微笑むジュリアの目元に影が差している。ガクトは恐怖した。
「いいかね、ガクト君。そこのジュリア防衛隊長は、この島の守備隊の指揮を取る最強の兵士であり、まな板でもある。優秀だがかなりの脳筋でな。怒らせると恐いから気を付けたまえよ?」
「今、まな板って言わなかった?」
「言ってない」
「い、いい、言いまじだぁあ」
罪の意識が深いからか、まだしゃくりあげながらアリーフェが証言した。
「――言ったのね?」
貼り付けたような笑顔を寺之城に向けるジュリア。彼女が握るマグカップに亀裂が走った。
「僕は事実を言ったまでだ。まな板だって需要はあるさね! だからそんな、僕の腕をつかむ必要ないよね? あの、人間の腕の関節はそっちには曲がらなァアアアアアアアアアアッ‼」
ジュリアが寺之城の腕をこねくり回しているのを尻目に、ガクトはアリーフェに問う。
「リクって子は、この島にいるのか?」
「リ、リクさん? リク・アウストリアさんのことですよね? 今朝は狩りに行ってくれているので、学校にはいません」
と、ようやく落ち着いてきたアリーフェは、ガクトの基本情報を把握するべくメモ帳を開き、万年筆を両手で抱きかかえて尋ねる。
「リクさんの、お知り合いなんですか? 出身の惑星も同じ?」
「いや、違うんだけど、その、無事ならいいんだ」
ガクトは自分の口を衝いて出た台詞に驚いた。
無事ならいい。その言葉が出た理由が、判然としない。
「っ⁉」
そうしてまたもや襲ってきた頭痛に、ガクトは小さく呻いた。
ぎゅっと閉じた瞼の裏側に、切り立つ岩山に囲まれた場所が浮かぶ。
ガクトはその場所で、自分に背を向けて立つ、フードを被った少女を見た。
彼女が徐にフードを外す。ガクトは彼女のさらりと長い黄色の髪が露わになる前から、その人物が女性であることを知っていた。
頭の両端に生えた猫の耳を僅かに震わせ、その少女はガクトの方を振り返る――。
「――リク!」
彼女の名が、ガクトの口をついて出た。
「え? なに?」
ガクトは目を開ける。アリーフェとジュリアが驚いた様子で突如叫んだガクトを見つめ、寺之城は白目を剥いてソファにぐったりしている。
ガクトの視線は自ずと声がした方向――生徒会室の入り口へと向かう。
そこに、狩りから戻ったリクが立っていた。
ガクトはこの部屋で、同じような光景を見た気がした。
確かそのときは、リクはフードを被っていた。
だが、今部屋の出入り口に立つリクは、そのフードを外している。
その僅かな違いが、ガクトにとって、そしてリクにとって、大きな意味を持つように思えた。
依然、理由は定かではなかったが。
「お帰りなさい、リクさん。今日もありがとうございます」
『ぴゅるるるる』という謎の飛行音を発して、アリーフェがリクの胸に抱きつく。
「ただいま、学園長。ごめん、今朝はあんまり獲れなかった……」
リクはアリーフェの頭を二本の指で撫でながら言い、徐にガクトと目を合わせる。
「――君、私の名前を叫んでたみたいだけど、……誰?」
「――ガクト。今叫んじゃったのは、なんでもないんだ……」
リクと自分は初対面。だからお互いのことを知らなくて当然だ。だが、ガクトは何故かその事実にショックを覚えた。
「そう、なんだ……」
と、リクは自分の額に手を当てた。
「リクさん?」
「大丈夫か?」
アリーフェが前へとふらついたリクの服を引っ張って、ガクトがそこへ手を貸す。
「なんだか、急に頭痛が……」
謎の頭痛はガクトだけでなく、リクにも起きているらしい。
「この島に来た人は、時々頭痛に見舞われるみたいなんです」
ガクトと一緒にリクをソファに座らせながら、アリーフェが言った。彼女曰く、どういうわけか、アリーフェが召喚した生徒は全員、時々謎の頭痛を感じることがあるという。
「この惑星の磁場が影響しているのかもしれんが、詳しいことはわかっていないんだ……」
寺之城が白目を剥いたまま言う。
「きっと時差ボケみたいな感じで、転移のときに疲労が溜まるのよ」
自分の握力で亀裂が入ったマグカップに接着剤を塗りながら、ジュリアが述べた。
「まぁ、どうにもわからんことを考えても仕方ない。いつものやつ、やるんだろ? 学園長」
「それもそうですね。今回はガクトさんにお願いしましょう」
白目を剥いたままの寺之城の発言に、アリーフェが頷いた。
■
妖精のアリーフェが学園長を務める【ミープティングレイス学園】は、島の中央に位置する死火山の火口にある。かつてこの島で暮らしていた古代人たちが、島の外から敵が攻めてきたときのために築いた城塞を魔法で改修したもので、この城塞の地下にある体育館は、元々住民の避難場所として使われていたらしい。
学園には、ガクトと同じようにアリーフェの召喚魔法で召喚された生徒がおよそ一千人いて、今日の午前中は勉強タイムということで、各々教室に分かれて自習中だという。ガクトはそんな中、件の地下体育館に通され、生徒会のメンバーが見守る前で、その昔ドラゴンと戦って果てたという戦士の剣を抜いてみてほしいとお願いされた。
「――ぁああっ⁉」
そうしてガクトが剣に近づいた途端、剣が微震してバランスを崩し、真横に倒れてしまった。
「――うそ⁉」
「なんと!」
「まさか、あんたが⁉」
「こ、こ、このときをどれだけ待ち望んだことか!」
リク、寺之城、ジュリア、アリーフェがそれぞれ驚愕の声を上げる。
「いや、触ってない。今、剣が勝手に倒れたんだ」
咄嗟に説明するガクト。
「震えてたよ」
「バイブレーションしていたね」
「震えてたわね」
「剣が主の帰還を喜んでいるんですよ!」
四人が言うには、どうやら剣はガクトが近づいたときに僅かに震動していたようだ。それは、剣が主に反応した証であり、すなわち、ガクトが剣の認めた新たな持ち主であることを意味するらしい。
額の上に生えた触覚など、人間より発達した器官が備わる反面、視力は人間より悪いガクトにはわからなかった。
「俺が、剣に選ばれし者……?」
アニメやゲームで出し尽くされたような展開に、ガクトはまだ実感が沸かない。
倒れた剣を手に持つガクトだが、剣の状態の悪さに思わず顔を顰める。
両刃の刀身は所々欠けており、柄の部分に施された装飾――上下左右のひし形に備わる四つの宝玉のうち、左側に位置するエメラルド以外は輝きを失っていた。
「そうと決まればやることは一つよ!」
と、勇んだジュリアがガクトの背中をバシンっと叩く。
「痛っ!」
ガクトは自分の背中が爆発したかと思った。ヒリヒリとした熱が全身に伝播する。
「急にここまで連れて来られて気の毒だけど、あんたにはこれから戦闘訓練を受けてもらうわ。理由もそのときに説明するから。それでいいわね? 学園長」
「本当に申し訳ありませんが、何卒、よろしくお願いします」
ガクトが自分の置かれた状況を完全に呑み込めないまま、生徒会の面々は今日の活動内容を決めたのだった。
■
「体力テストしながら、この島について説明してあげる」
学園のグラウンドで、手始めにガクトの肉体的ポテンシャルを測りながら、ジュリアは語る。
惑星【ミープティングレイス】は、ドラゴンスレイヤーとドラゴンの戦いによって多くの陸地が失われ、残るは学園島を残すのみだという。
ドラゴンの首領【ベルリオーズ】の魔法によって海面が上昇し、学園島以外の陸地は沈められてしまったのだ。
古代人たちはこの最後の島に集い、ドラゴンスレイヤーを筆頭に抵抗を続け、ついに【ベルリオーズ】に深手を負わせることに成功する。
だが、この戦いでドラゴンスレイヤーは命を落とし、残された古代人たちも、報復しに現れたドラゴンの群れに襲われた。
アリーフェは古代人たちによって地下の施設に導かれ、そこで長期のコールドスリープに入った。しばらく島を占拠したドラゴンたちが去るまで、アリーフェの存在を気取られないためであった。
そうして目覚めたアリーフェは、自分が眠っている間に古代人たちが全滅していたことを知り、ドラゴンへの復讐を誓った。
「ドラゴンスレイヤーが倒れてからどれくらいの時間が経ったのか、アリーフェにもわからないみたい。百年か、あるいは千年以上かもって話していたわ」
島から脅威が立ち退いたことを確かめたアリーフェは密かに召喚魔法を唱え、まず寺之城大和を召喚。以後、地道に召喚を続け、人数を増やして学園を築き上げた。
「これもアリーフェから聞いた話だけど、島の地下にあるダンジョンの最深部は、古代人たちがドラゴンと戦うために造った軍事基地らしいわ。でも、アリーフェが知っているのは基地の外側。内側への扉は解読不明のロックが掛かっていて、彼女にはどうしようもないみたい」
アリーフェは基地の外側にある設備でコールドスリープに入っていた。故に彼女は基地の外側部分しか知らないらしい。しかも悪いことに、地下基地への出入り口のいくつかは開け放たれており、島の北に広がる森から危険なモンスターが入り込み、縄張りを作ってしまっているという。
「――つまり俺たちは、地下基地の内側へ到達する方法を見つけて、ドラゴンと戦うための準備をしなくちゃならないってことか?」
体力テストのため、スクワットさせられているガクトの確認に、ジュリアは首肯する。
「そうよ。【ベルリオーズ】に唯一傷をつけることができた剣――あんたが持ってる【竜斬剣】を扱える者を召喚することと、地下基地の内部への到達は最重要課題。その片方がクリアできた今、あたしたちの目は島の内側を向いてる」
「――地下には危険なモンスターがいるから、訓練を積んで必要最低限の戦闘能力を身に着ける必要があると」
早くも太腿が悲鳴を上げ始め、汗だくになるガクト。
「理解が早くて助かるわ。本当なら全員で地下に潜って調査したいところなんだけど、戦闘力を持たない女子も多いし、食料は基本的に狩りで手に入れなくちゃいけないし、島にいる人は全員学生だから、いつか元の世界に帰ったときのために勉強もしておかなくちゃならない。だからなかなか、地下の調査に全振りするわけにもいかないのよね」
定期的に調査隊を組んで地下に潜ってはいるが、危険なモンスターも出るため、調査に挑める人は限られてくる。そうした調査隊メンバーのメンタルケアも兼ねて、あらかじめ長期戦の生活スタイルが構築されているらしい。
「狩りをして食べて、勉強して、訓練して、ダンジョンに潜る。日常はこの繰り返しか」
「人が増えて、学園が開かれてからこの一年はずっとそんな感じね。さすがにたまには羽を伸ばさなくちゃってことで、明日は初めての学園祭が開かれることになってるわ」
スクワットを続けるガクトは疲労が限界に達し、コメントする余裕もない。
「各クラスごとに出しものを決めて、いろいろなことをやるのよ? 食べ物屋さんが多いけど、中には劇だったり、お化け屋敷だったりするクラスもあるみたい」
「――俺がいた学校でも、年二回、そういうことやってたから、なんとなく、わかるよ」
息も絶え絶えに言うガクト。
「楽しみにしておくといいわ。あんたは【竜斬剣】を扱えるこの島で唯一の存在だから、みんな歓迎してくれるはずよ」
「せ、生徒会は、なにか出し物、やるの?」
ジュリアは首を横に振る。
「あたしたちはパトロールが主な仕事。この島を守る基本よ。あんたはあたしと同じ戦闘班だから、行動を共にしてもらうわ」
ガクトの足はもはや限界だった。
「――けど安心して? 休憩時間もちゃんと設けるから、学園祭を見て回れる」
「も、もう限界……」
ガクトは倒れた。
「もう限界? あんた泳ぎが得意な種族でしょう? 足腰は人間より強いものと思ってたわ」
と、目を丸くするジュリア。
「き、期待に添えなくてごめん」
肩で息をするガクト。
「まぁいいわ。鍛え甲斐のありそうな子が入ってくれたから」
ジュリアがニヤリと笑うのを見て、ガクトはトレーニング地獄の到来を予感した。
■
その日の午後、午前中に勉強をしていた生徒たち(主に男子)と合流したガクトは、予感した通り地獄の訓練に参加。
腕立て伏せや腹筋といった体力作りの基本的なものはもちろん、掛け声を掛け合いながらグラウンドをぐるぐる走り続ける長距離走、槍を使った近接戦闘訓練など、内容は多岐に渡る。
「――ドラゴンと戦う訓練に、槍術って必要なのか?」
ガクトはひぃひぃ言いながら、ペアを組んだ寺之城に聞いた。
「素手で殴りかかるよりはマシっていう、気休め程度のものさね!」
寺之城は答え、槍に見立てた長い木の棒を振り下ろす。
ガクトはそれを横一文字に構えた棒で受ける。
「大砲とか、ミサイルとかないの?」
「似たようなものはあるにはあるんだが、起動方法がわからないんだ」
寺之城が言うには、島には古代人たちが残した対ドラゴン用の魔道兵器が残っていて、しかも劣化もほとんど見られないらしいのだが、肝心の起動方法が不明なため、扱うことができずにいるとのことだった。
「そ、それじゃ、現状、ドラゴンとまともに戦えるのって、パワードスーツで空を飛べるジュリア一人だけってことか?」
打ちかかったガクトをいなす寺之城。
「今まではジュリア君だけだったが、この前島にやってきた拳銃使いのリク君もやり手と聞くし、念願叶って、竜斬剣を抜くことができるガクト君も加わったから、現状は三人だね!」
「た、たった三人って……」
相手はこのブロック宇宙を支配するドラゴンだ。いくら訓練したからといっても、一人の人間、一人の獣人、一人のマーフォークで太刀打ちできるとは思えない。
「――そこの二人、私語しない! 舌噛むわよ!」
パワードスーツのブースターでグラウンドの上空に滞空するジュリアの声が降ってきた。
「まぁ、だからこそ、僕たちは早いうちに地下基地の内側へ到達する必要があるんだよ。そこに何があるかはわからないが、なにか、ドラゴンに対抗でき得るものがあるかもしれないからね!」
「――クソ眼鏡? またこねくり回されたいのかしら?」
額に血管を浮かび上がらせたジュリアが引き攣った笑みを浮かべながら降りて来る。
「ガクトくんにこの島の実情を説明していただけさね。あんまり怒ると胸が萎むぞ?」
「みんないい? もし訓練中におしゃべりしたらどうなるか、今から見せてあげるから気をつけるように!」
言って、ジュリアは己が装備した機械の腕で寺之城をつまみあげ、空中で放り投げたり、掴まえて揉みくちゃにしたりしてみせた。
ゴキゴキバキバキと、人体が破壊されていく音がグラウンドに響き渡る。
ガクトは背負った剣――【竜斬剣】を手に取り、正面に構えてみる。
太い両刃の長さは一・五メートル、重さは約三キロと、一般的な両手剣より少し大振りで重たい。
(ベルリオーズに傷を負わせたのはこの剣だけ、か……)
寺之城が破壊されていく光景は、初見の者にとっては恐ろしいもののはずであるが、何故かこの光景についても既視感があり、特に恐怖は感じていないガクトである。
「あーあ、寺之城のやつまたやられてるよ」
「あいつも懲りないよな。ジュリア隊長、胸のこと気にしてるのに毎回煽るんだから」
「もしかしてあいつ、ジュリア隊長のこと好きなんじゃね? よく言うじゃん、好きな子に意地悪しちゃうって」
といった男子生徒たちのひそひそ話を他所に、ガクトは思考を巡らせる。
(ドラゴンスレイヤーは当時、どうやって戦ったんだろう? ジュリアみたいに空を飛べたのか? あるいは、ドラゴンが地上に降りたタイミングを狙って斬りかかったのか?)
――ひゅーん、どさ!
寺之城が空から帰ってきた。意識が無いらしく、受け身も取らず地面に埋まった。よく見ればまた白目を剥いている。
「――ガクト! あんたは今からあたしと一緒に、空中戦の訓練をやるわよ! ドラゴンは空を飛ぶの。いざ戦うとなれば、あたしと連携して戦う必要が出てくるでしょうから」
と、ジュリアはブースターの出力を弱め、一度グラウンドに着地。
なるほど、とガクトは納得。
「ジュリアが俺を空まで運んで、そこで俺がドラゴンを斬ればいいんだな!」
「口で言うのは簡単だけど、そう思い通りにはいかないわ。だから今のうちに訓練して、身体に覚え込ませるの!」
ジュリアが差し伸べた腕は金属のそれ。電動アクチュエーターで細かな動作が可能らしく、指一つ動かす度、機械的な駆動音が聞こえる。
「頑張れよ、ガクト!」
「俺たちも全力でサポートできるように頑張るぜ!」
「ガクトのおかげで、アリーフェ学園長も報われるってもんだぜ!」
と、他の男子生徒たちがガクトにエールを送る。
ガクトは改めて、自分が置かれた立場に大きな責任を感じる。
アリーフェは、自分の声を聞き取ることができた若者を召喚魔法で呼びよせた。
是非を問うこともなく、身勝手な理由で他人を呼び寄せたことに、アリーフェは深い自責の念に駆られているという。
アリーフェに悪意はない。古代人たちの無念を晴らし、この世界に平和を取り戻すには、自分一人ではどうしようもなく、誰かを呼ぶしかなかったのだ。
たった一人取り残されたアリーフェの悲しみは計り知れない。そんな彼女が悲しみを乗り越え、仲間の死に報いるため行動を起こした結果が今の状況だ。
アリーフェの行為を責めるのではなく受け入れ、諦めず行動し続けたことを称賛するべきだと、恐らくは多くの生徒たちが思っているのだろう。
だから怒りや咎めもなく、みんなで協力して生活を送ることができているのだ。
(そうして集まった人たちの希望が、俺に委ねられているんだな……)
【ベルリオーズ】を倒さなければ、この学園に未来はない。元の世界にも帰れない。
やれる者がやるしかないのだ。
「――俺も、俺にできることを頑張るよ。全力で」
仲間たちにそう返し、ガクトはジュリアの手を取った。
■
「――で、この穴に落ちたわけね?」
と、ジュリアがジト目をガクトに向ける。
「うん……」
熾烈を極めた空中戦訓練は、ガクトが剣を取り落としたことで中断された。
ジュリアは初めて訓練に参加したガクトを容赦なく放り投げ、キャッチしてはぐるぐる振り回してまた放り投げるといった荒業を繰り返した。
おかげで何度も吐きそうになったガクトは、たまらず持っていた剣を落っことしてしまったのである。
「あと少しで、あんたとあたしの連携攻撃が形になりそうだから、さっさと見つけて再開するわよ!」
ジュリアは言って、一旦パワードスーツの機能を停止させ、身体から取り外した。
二人は今、学園がある山の火口から西に少し離れた場所にいた。学園がある山と、西に広がる岩山エリアの間で、渇水によってひび割れた荒野だ。
そこにできた洞窟に、ガクトが落とした剣が入ってしまったのだ。
歪な岩や土の塊でゴツゴツした洞窟を、ジュリアがライトを点灯して先行する。
「この洞窟は、さっき説明したダンジョンの一部よ。ここを奥まで進むと、地下基地に辿り着けるわ。凶暴なモンスターがいなければだけど」
ジュリアの言で、ガクトはダンジョンに北の森の危険なモンスターが入り込んでいることを思い出し、前へと出る。
「――何が出てもいいように、俺が前を歩くよ」
今のジュリアはパワードスーツを外した生身。ここは男のガクトが彼女を庇うのが筋だ。
「あんたは剣を扱えるたった一人のマーフォークなのよ? たとえここで何かあっても、あんただけは無事に戻らなきゃダメ。そういう自覚を持っておいて頂戴」
と言って、ジュリアが前に出る。彼女の言うこともわかる。だが、マーフォークは男が女を守ることを重んじる種族。人間とのハーフであるガクトにも、半分はマーフォークの血が流れているのだ。
「だからって、ジュリアが犠牲になっていいことにはならないだろ」
ガクトは譲ることなく再び前に出た。歩幅は圧倒的にガクトの方が大きい。
「……も、もう! 上官の命令には従いなさい?」
「上官?」
ジュリアの唐突な発言に、ガクトは振り返る。
「――あ、いいえ。その……、あたしってほら、前にいた惑星で軍人だったじゃない? 訓練教官やっててね。あんたみたいに聞き分けの悪い子が一人いたのよ。ちょっとそいつのことを思い出しちゃってね」
ジュリアは表情を曇らせ、俯いた。
この島に召喚された生徒たちは皆違う世界から集まっているという。中にはジュリアのように、凄惨な状態にある世界からやってきた者もいるのだ。
そしてこの島でも、悪のドラゴンの支配という脅威に曝されている。それを打破したとしても、元の世界に戻れば再び凄惨な現実と向き合うことになる。
ガクトはそんな立場にはない。この島へ来て大役を押し付けられはしたが、元居た故郷の惑星は至って平和だ。故に、今こうしてジュリアの表情を見るまで、お互いが直面する現実の違いに気付けなかった。
ガクトは思う。
この島の生徒たちは、帰りたい人間と、帰りたくない人間がいるのかもしれない、と。
「……その人のこと、心配してるのか?」
ガクトは歩を止めて、そう尋ねた。
ジュリアは視線を落としたまま首を傾げる。
「――どうかしら。心配というよりかは、ぶん殴ってやりたい気持ちの方が強いかも」
「いったいその人と何があったんだ……?」
「いろいろとね。そいつとは幼馴染なの。小さい頃家が近くて、同じ学校に通って、それで戦争になって……あいつは逃げた。ジュリアなら一人でも大丈夫とかって言い残して……」
ジュリアはそこで頭を振る。
「――訂正。逃げたのはあいつだけじゃない。自軍のほとんどが、戦って死ぬよりも生きてなんぼだって考え方で、こぞって逃げ出したのよ。あたしは部隊を率いる立場だったからそうするわけにもいかず、あいつはそんなあたしのところへ加勢に来てくれるかと思ったのに、メイドロボットなんか担いでとんずらしちゃったわけなの。ひどい話じゃない?」
「君のいた国の軍隊を否定したいわけじゃないけど、腰抜け集団だな……そのメイドロボットを担いで逃げたやつっていうのは、君の恋人かなにか?」
「言ったでしょ、ただの幼馴染よ。それも女。色気のない男みたいな女よ。戦績はトップクラスなくせにお調子者で、あたしを困らせてばっかりだったわ……」
「いざというときに逃げ出すような人でも、軍隊で活躍できたのか? なんというか、逃げるが勝ちみたいな考え方を軍隊そのものが持ってないと罷り通らなさそうだけど」
「まさに逃げるが勝ちって考えの連中が集まった軍隊だった。まぁそのおかげで逃げきったやつは多いし、逃げ遅れたやつも秒で降伏して捕虜になったから、戦死者はほぼゼロ」
ガクトは思わず吹き出してしまう。
「それはそれで、逆に良かったのかもな」
「戦いには負けたけど、命は取られてないから、いつか逆転のチャンスがあるって思ってる連中が多いみたいだった。そういう人種なのよね、あたしがいた国の人って」
「なら、一応は安心できるわけか? みんな無事だって」
「ええ。でも、メイドロボット担いで逃げたあいつの行方だけはわからない。あいつはポータルっていう、小型の転移装置を使って別のブロック宇宙に飛んだの」
言って、ジュリアは肩を竦める。
「だからあたしも同じポータルを使って、あいつを探しに転移した。でも装置の故障で座標がずれて、気が付いたらこの島にいたってわけ」
ジュリアだけは、アリーフェの召喚魔法ではなく、別の技術でこの島へやって来たらしい。
「戦争の世界からは逃げられたけど、ぶん殴りたい幼馴染とは会えず、この世界はこの世界で悪いドラゴンの支配下だし、複雑な心境よ」
幼馴染を殴ってやりたいとジュリアは言う。
しかしガクトは彼女の言葉の裏に、置き去りにされた寂しさや、その理由がわからない戸惑い、怒りを感じていた。
マーフォークの遺伝子を持つガクトは額の上部に二本の触覚が備わる。この触覚で、相手の言葉に込められた感情をある程度感じることができるのだ。
ジュリアの感情は確かに複雑で、寂しさや戸惑いの更に裏側にもう一幕、それも特に強い感情が見え隠れしている。
その感情までは、ガクトが持つ能力を以てしてもわからない。
ジュリアのように、複雑で辛い心境にある生徒たちの苦悩を少しでも取り払うためには、ガクトがドラゴンを倒さなければならない。
だから、こんな場所で危険な目に遭わせるわけにはいかない。
故に、ジュリアは先導を買って出ようとしたのだ。
ことの重大さを、ガクトはより深く噛み分ける。
「――ごめん。剣、落としちゃって」
堪らず、ガクトは再度謝った。
「そんなこと気にしないの。あたしもさすがに手荒過ぎたと反省してるわ。ごめんね」
背伸びをしたジュリアが、ガクトの触覚に軽く触れる。そこで気になったのか、
「そういえば、マーフォークを慰めるには、どこを撫でればいいの?」
という質問が飛び出した。
「え? ……人間と同じで、頭かな?」
「ふふ、なーんだ。あたしったらどうして触覚だと思ったのかしら? ああおかし!」
突拍子もない問いにガクトが目を瞬かせると、ジュリアは可愛らしい笑顔で噴き出した。
「――これでお相こね」
「提案なんだけど、二人で横一列になって進まないか? そうすれば、お互いにカバーし合えるだろ?」
ジュリアの考えも尊重したいガクトは、我ながらナイスアイデアだと思った。
「まぁ、そういうことで行きましょうか」
ジュリアも眉を広げて了承し、二人並んで歩き出す。
すると、ほんの一分ほど進んだところで剣が落ちているのを見つけた。
この洞窟は割と勾配が急なため、上空から落ちてきた剣はバウンドし、かなり奥まで及んだらしかった。
「割と早く見つかってラッキーだったな! いや、そもそも穴に落ちたのがラッキーだったのか! 捜索範囲を絞れるからな」
剣に異常がないことを確認したガクトは胸を撫でおろす。元々ボロボロなので、傷の新旧の区別はつかないが。
「あんたを見てると、幼馴染を思い出すわ」
ふと、ジュリアがそんなことを言った。
「幼馴染の子も肌が青いの?」
「そうじゃなくて。意外とポジティブに捉えられるタイプなのよ。あんたもあいつも。黙ってれば真面目そうで、ときどきすごく的を射たこと言ったりするから、考察が得意な気にしい(、、、、)なのかって思ったりもするんだけど、蓋を開けてみたら全然その逆なの。あんまり深く考えてないっていうか、気にしてないっていうか」
『名前はありきたりな、平凡な子なんだけどね』と言いながら、ジュリアは笑う。
「あたしはそんなあんたたちを見て、ときどき突っ込みたくなるというか、通り越して怒っちゃうこともあるんだけど……」
ガクトはここでも、ジュリアの心の裏にある別の感情を感じ取ったが、それがなんと呼ぶべき感情なのかまではわからなかった。
何故ならガクトはここで、洞窟の天井に迫る危機を察知したからだ。
「――ジュリア! 危ない!」
ガクトは叫び、咄嗟の判断でジュリアを押し倒す。剣を握っていないほうの腕を彼女の背に回して。
瞬間、轟音が響き、それまで二人が立っていた場所に崩落した大岩が積み重なった。
間一髪の回避劇に、ジュリアは一瞬何が起こったのかわからず、ガクトの顔を見つめながら目をぱちぱちさせた。
「――わっ! 目にゴミ!」
そして粉塵が目に入って呻いた。
「大丈夫か?」
どうやら平気そうではあるが、ガクトは確認する。
「うん、だ、大丈夫よ――、て、ええ⁉」
目を擦ったジュリアは、自分がガクトにお姫様抱っこされている状況に気付いて顔を真っ赤に染めた。その間わずか数秒である。
「なっ、なにをしてるのよ⁉」
「なにをって、君を庇って――」
「そうじゃなくて、今のこの状態ぃいいいい!」
バチィ! と、ジュリアの平手打ちが洞窟内にこだました。
■
顔を真っ赤にしたままのジュリアに引きずられて洞窟を出たガクトは、パワードスーツを装着し直したジュリアに再び空まで運ばれ、昼過ぎまで扱かれた。
「――みんな、これから狩りに出るみたい。ちょっと休んだら、あたしたちも行ってみましょうか」
午後は学園のみんなで大規模な狩りをすることになったと電話で連絡を受けたジュリアが、ガクトに向き直る。
「空中戦の形、サマになったかな? まだなら、午後も特訓したい。ドラゴンはいつ襲ってくるかわからないだろ?」
「続けるのも大事だけど、休むことも同じくらい大事なのよ? 最初よりは大分良くなったし、今日はここまで。あんた吞み込み早いじゃない」
ジュリアは言いつつ、パワードスーツを解除する。手足を嵌めこむことで装備するタイプのパワードスーツは、ジュリアが手足を抜き取ると変形し、キャリーケースくらいのサイズに縮小した。総重量が六〇キロ以上あるというそれを、ジュリアはなんと片手で持ち上げた。
そうして歩き出そうとしたジュリアだが、
「――いたっ!」
突如バランスを崩し、パワードスーツをドシンと落として片膝をついてしまう。
「どうした⁉」
ガクトが歩み寄ると、ジュリアは自分の右足首に軽く触れる。
「さっき洞窟で、足やっちゃってたみたい。最初は大して痛くなかったし、あのあとすぐパワードスーツ着たからわからなかったわ……」
「マジか! ごめん、俺も気付いてあげられなくて」
「なんであんたが謝るのよ。あたしの命の恩人でしょ?」
ガクトの膝に拳を軽く打ち付けるジュリアだが、それが右足に響いたのか、またも唸る。
「俺が君を学園まで運ぶよ。パワードスーツは一旦ここに置いていこう。そんなに重いやつ、誰も盗めやしないよ」
「……これくらい、我慢できるわ」
言って立ち上がろうとするジュリアだが、
「あぅ」
右足の踏ん張りが効かず、尻もちをついてしまった。とても狩りに行くどころではない。
「無理は禁物だ。休むのも大事なんだろ?」
ガクトは背負っていた剣を手に持つと、ジュリアに背を向けてしゃがみ込む。
「ほら」
「……いいの?」
「当たり前さ。けが人を放っておけるかよ」
「……ありがと」
ジュリアに背を向けるガクトには、彼女の表情はわからない。だが、そっと背中に身を預けてきたジュリアの小さな身体は何故か異様に熱かった。
「ジュリア。君、なんだかすごく熱くないか⁉ 熱でもあるの⁉」
「――な、なな、なんともないわよ! は、ハイヤぁ!」
馬の腹を蹴るように、ジュリアはローファーを履いた両足でガクトの腰のあたりを叩く。
「あいたっ!」
悲鳴を上げたのはジュリアの方だった。
「ちょっ! 暴れるなよ」
「むぅうぅ」
ジュリアは顔を真っ赤にしたまま頬を膨らませて唸る。当然ガクトはなぜジュリアが不機嫌なのかわからない。
「と、とりあえず学園に戻るぞ? アリーフェに魔法で治してもらおう」
歩き出すガクト。
「…………」
「…………」
ガクトは学園へと続く細道を見出し、そこを登って火山の火口の淵を乗り越える。すると登り坂は転じて下り坂となり、二百メートルほど下った先に学園が見えた。
「…………」
「…………」
「……大丈夫か?」
「……っこして」
「え?」
「だ、抱っこして。もう一回」
ごにょごにょ、とジュリア。
「こ、こうか?」
また暴れられても困るので、ガクトはジュリアをお姫様抱っこに切り替えた。
ガクトは彼女の控えめな胸の奥から、心の鼓動が伝わってくるのを感じた。それも、かなり早い。
やはり熱でもあるのではなかろうかと、ガクトは怒られるのを承知で聞こうとしたが、
「あたしさ」
ジュリアの言に、遮られる。
「――パパとママを戦争で亡くしたのよね。あたしが幼少の頃に戦争が始まってすぐ、二人とも殺された。それであたしは、パワードスーツの適性が高いって理由で軍隊に引き取られた」
ジュリアはガクトの首を通した小さな手を、ぎゅっと握りしめる。
「だからあたし、抱っこしてもらった記憶がないの。ちょうどいいから、お願いしたってわけ。この年にもなって、笑っちゃうでしょ?」
と、困ったような笑みを浮かべるジュリア。
「……そう、だったのか」
ガクトはジュリアの表情を見続けることができず、視線を足元に落とす。
「もっと大人にならなきゃって、わかってるんだけどさ……」
ジュリアの笑みが、自虐するような薄ら笑いへと変じる。
ガクトにはわかる。いつか誰かに『かわいいね』と褒められた、二本の触覚が告げるのだ。
ジュリアは今、笑ってなどいないぞ、と。
物心ついたときから軍事施設で肉体改造を受け、怪力を持つ、戦うための生きた兵器に仕立て上げられたジュリアは、両親の愛情を十分に受けることなく育ってしまった。
抱っこしてもらった記憶がない、と彼女は言った。
彼女にとって、幼少期に過ごした両親との記憶はむしろトラウマで、自らそれを封じてしまっているのかもしれない。思い出す度、訪れるのは深い悲しみと孤独感だろう。
「みんな、あたしのこと嫌いかな?」
ジュリアの顔から笑みは消え、ぱっちりした目は虚ろに伏せられた。それは、学園島の防衛隊長として生徒たちを率いる立場にあるジュリアの、普段は見せない顔であった。
「――どうして、そんなこと思うんだ?」
「だって、こんなに内面は子供なのに、表では偉そうにして、ときどき怒鳴ったり、暴れたり、寺之城を滅茶苦茶にしたり……」
寺之城は自業自得だ、とガクトは思った。
「来たばかりの俺が言うのは変かもしれないけど、誰もジュリアのこと嫌いだなんて思ってないさ。むしろ、感謝してると思う」
なぜか、今日ジュリアと初めて会った気がしないガクトは、素直な考えを告げる。
「……感謝?」
「ああ。俺だって感謝してる。動きが全然なってない俺を熱心に指導してくれたのはジュリアだ。君がいなければ、俺はまともに剣も構えられないデクの棒だった」
ガクトはジュリアのおかげで、基本的な剣の構えや、空中での必要最低限の身ごなしを習得することができていた。それも要した時間はたった半日ほどである。
「そ、それは、あんたがあたしに頑張ってついてきたからでしょ」
「いや、君の教え方が上手だからだよ。さすが防衛隊長だな」
ガクトは下り坂を降り切り、眼前に聳える城塞――もとい【ミープティングレイス学園】を見上げる。
「こんなに優秀で素敵なんだから、なにも心配することないって」
すると、ジュリアはくすりと息を溢し、その顔に小さな笑みが戻る。
「やっぱりあんた、あたしの幼馴染と似てる。あいつも、まるであたしの心の中を覗いたみたいに、能天気なこと言うの。勘が鋭いとか言って、いつも決まって前向きで」
「……俺はけっこう、気にしいだぜ?」
ガクトは言う。
洞窟に二人で入ったときから見え隠れしていた、ジュリアの裏の感情。ガクトは今になってようやく、拾い上げることができていた。
「いくら君が強くても、辛いことはあるだろ? 俺はそういうの心配になる質で、放って置けないんだ」
ジュリアの目が、僅かに見開かれる。
彼女の鼓動がまた少し、早くなる。
「だから、もし君が望むなら、その、いつでも抱っこするよ! これなんて言うんだっけ? あ、そうそう、お姫様抱っこ!」
なかなか出ない言葉を思い出した喜びで、思わず声が大きくなるガクト。その声が城壁に反響し、やまびこのように聞こえた。
「あ、あたしはあんたのお姫様じゃないわよ! ……あはは」
ジュリアは顔を赤らめて言ったあとで頬を可愛らしく膨らませ、吹き出した。
「――もう、おかしいんだから。なによ、抱っこって」
「あ、あんまり身を捩るなよ。落っこちちゃうよ!」
「あははは!」
腹の底から笑うジュリアの目から、一筋の光が零れる。
それが笑い泣きではないことも、ガクトはわかっていた。
■
ジュリアの足の怪我は思ったよりも酷く、完治したのは夕方だった。
「――これで大丈夫のはず! どうですか? ジュリアさん」
保健室でジュリアの右足に回復魔法を施していたアリーフェが言った。
「さすが学園長ね。もうなんともないわ!」
ジュリアは何度か右足首を揉み、動かして状態を確かめると、寝かされていたベッドからぴょんと飛び降りた。
「珍しいね。あなたが怪我なんて」
戸口のところで腕を組み、様子を見守っていたリクが言った。
「ガクトが剣を落としてね。――その、いろいろあったのよ」
と、なぜが頬を赤らめて答えるジュリア。
「他のみんなは?」
ガクトは寺之城の姿が見えず、また校舎の人の気配が少ないことが気になり、そう尋ねた。
「歌姫はグラウンドの野外ステージじゃないかな? 学園祭で開くバンドのコンサートの調整してるんだと思う。寺之城は他の男連中と狩りに行って、たぶん今頃は南の街エリアで騒いでるんじゃないかな?」
リク曰く、時々大勢で狩りに繰り出して大量に食料を確保しては、南の街エリアで調理・加工し、祝福の宴を上げているらしい。それも、生徒たちのメンタルケアを目的としたものとのことだ。
「歌姫?」
どこかで聞いたような名前だが、よく思い出せないガクト。
「そうか、君はまだ歌姫と顔を合わせてなかったね」
歌姫というのは、さきほどリクが言ったバンドのリーダーらしい。
「居残り組は残念だな。狩りのお祝いに参加できないじゃないか」
と、ガクト。
「居残り組はローテで回してるから大丈夫。次の狩りのときは、今日学校に残った生徒が全員参加するの」
リクは答え、
「――それじゃあ私、今日は調理班の手伝いするからこれで。狩りで新しい食材が入るから、古くなった在庫を全部調理して処理するんだってさ」
軽く手を振って、南側の一階にあるという調理室へと向かった。
「俺たちはどうする? 手伝いに行くか?」
ガクトがジュリアに問うと、彼女は肩を竦める。
「それもいいけど、あんた今日一日、飛んだり落ちたり担いだりで大変だったでしょ。歌姫の歌でも聴いて一休みするといいわ」
「なら、一緒に行こう。アリーフェもどう?」
と、ガクトは提案した。
歌姫のバンドに興味があったこともそうだが、なにより、帰り道で笑いながら涙を流したジュリアの傍に、せめて今日一日くらい居てやりたいという思いが一番の理由だった。
「いいですね。私も時には羽を伸ばさないと」
アリーフェも治療の疲れからか、小さな両手を広げて伸びをし、文字通り蝶のように美しい羽も両側へ伸ばした。
■
ボーカル兼ギターの歌姫を筆頭にした四人組のガールズバンド――【RED】はリクの予想通り、グラウンドの北側の隅に設置された巨大な野外ステージでリハーサルを始めたところだった。
柔らかくて透明感があり、それでいて力強い歌声がグラウンドに響き渡る。
ひとりだけの痛みに耐えて 壊れてもちゃんと立って
いつか見つける 黄金の覚悟
「――あ、学園長にジュリアだ! やっほー! って、そこの青いあなたは誰?」
歌を中断した少女が、ガクトを見て赤い瞳の目を丸くした。彼女の赤毛のショートカットが西日を受けて綺麗に輝いている。
「彼はガクトさんといって、今日、この学園に来た人です。ガクトさん、この人が歌姫さんで、学園一の歌声を持つアイドルさんです」
「ガクトっていいます。よろしく」
アリーフェの紹介で、ガクトは会釈した。
「そっか新人さんか! いいところに来たね! わたしたちの歓迎の歌をあなたにプレゼント
してあげる!」
歌姫は柔らかく透明感のある声で言い、ウインクしてみせた。
それを受けたガクトは、自分の心の蔵が強く脈打ったのを感じた。
「それじゃ、もう一度いくよ? ――凛として戦え!」
「永遠に挑戦!」
「どんな闇にも射す光!」
「体中暴れる血の色は?」
「「RED‼」」
歌姫の音頭に、ギター、ベース、ドラムをそれぞれ担当する少女たちが応じ、
最後に全員で叫ぶと、アップテンポな楽曲のプレイが始まる。
「すごい迫力だな! 俺、バンド演奏を生で見たの初めてだよ!」
「あたしも!」
グラウンドに響き渡る爆音の中、声を張り上げるガクトとジュリア。
一緒に荒野を行こう 心臓破りの丘を越えよう
飛べるだけ飛ぼう 心開ける人よ
眉宇を引き締め、前を向き、ひたむきに叫ぶ歌姫たちが奏でる音色はガクトの心に深く染み
渡り、言うに言われない力となって漲り始める。
「元気が湧いてきませんか?」
ガクトの肩に乗ったアリーフェが耳元で言った。
「ああ! なんだか気分が晴れていくみたいだよ!」
「歌唱魔法といって、歌姫さんだけが使える特殊な魔法なんです。みんなの身体の傷や、心の傷を癒す効果もあるんですよ」
「そういう魔法もあるんだな!」
ガクトが感嘆の思いで聴き入っていると、ジュリアがガクトの服を引っ張った。
「どうした?」
「もう少し、高い目線で見てみたいわ!」
ジュリアはガクト以上に元気が出てきたのか、理由は定かではないが、赤らんだ顔で言う。
「わかった! 抱っこだな!」
と、ガクトは頷き、再びジュリアをお姫様抱っこした。
「っ! や、やっぱりいいわ。なんだか恥ずかしい」
「高い目線で見たいんだろ? こんな特等席でライブを見られることなんてそう無いぜ?」
ガクトは構わず抱っこを続ける。
そうしてステージの上に視線を戻すガクトだが、何故かジュリアはステージの歌姫たちではなく、ガクトを見つめたままだ。
「――聴いてくれてありがとう! ついでに元気になってもらえれば願ったり叶ったり!」
プレイが終わり、歌姫が手を振る。
手を振り返すガクトはジュリアの視線が気になり、彼女に目を向ける。
「どうした? もしかして、まだ足が痛むのか?」
ふるふる、と首を横に振るジュリア。
「ガクトはさ、ドラゴンを倒したあと、どうするの?」
ふと、ジュリアはそんなことを聞いてきた。
「ドラゴンを倒したあと、か……」
自分を取り巻く環境の変化についていくのがやっとで、まだそこまで考えていなかったガクトは言葉に詰まる。
アリーフェは、このブロック宇宙を牛耳る悪のドラゴン――【ベルリオーズ】を倒すことができれば、この学園島に来た者は全員、元の世界に帰ることができると言っていた。
「そのことについては、皆さんに考えを聞いて決めるつもりです。私の帰還魔法で帰るか、ここに留まるか……」
アリーフェがガクトの耳元に顔を近づけ、聞こえるように言った。
ガクトはジュリアの目を見る。
彼女の故郷は戦争状態にあるという。
「アリーフェ。例えばだけど、この島にいる人が、別の誰かの故郷に一緒に帰ることもできたりするのか?」
ガクトの質問に、アリーフェは頷く。
「お互いに合意したうえであれば、そうすることもできます。申し上げにくいですが、中には故郷に戻りたくないという人もいらっしゃいますので」
ジュリアには両親もおらず、幼馴染だった人物は別の世界へ逃げてしまったらしい。
あまりにも孤独だと、ガクトは思う。
「俺は、……どうだろうな。すぐには帰らずに、ここに留まったりするかも……」
「どうして?」
と、ジュリア。
「そうだな、……ここに集まった人は、みんな自分の人生を明るい方向に進むべきだと思うんだ。だから、故郷に帰ることが辛い状態の人が一人でもいるなら、その人が明るい方向へ行けるように手助けをしたい。そうして全員が満足いく結末を迎えるのを見届けたあとで、帰ろうと思う」
ガクトの考えを聞いたジュリアの流麗な眉が、僅かに広がる。
「――奇遇ね。あたしもそうしようと思ってたの」
「そう、なんだな……」
ガクトは胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
故郷に帰ると、そこに待ち受けているのは慈悲の存在しない戦場。誰も、そんな場所に喜んで帰る人などいない。
ジュリアは自分が置かれた状況をわかっていて、それでも気丈に振る舞い、見守る側に立とうとしている。
いや。もう既に、ジュリアは防衛隊長という肩書の下、みんなを見守って導く立ち位置にいるではないか。
自分の気持ちを封じ込めたまま。
「ジュリア。俺がこんなこと言える立場じゃないかもしれないけど――」
ガクトは意を決して言葉を紡ぐ。ガクトが歩んだ平凡な人生と、ジュリアが歩んだ凄惨な人生は、あまりにもかけ離れている。わかったような口を利くことが許されるのか、ガクトにはわからない。同情と取られ、嫌悪の眼差しを向けられてしまうかもしれない。
それでも、ガクトは言うべきだと思ったのだ。
「自分を自分で閉じ込めるな」
「っ……」
ガクトの言に、ジュリアの瞳が微かに揺らいだ。
ジュリアのことだ。きっと他の生徒たちには一切弱みを見せていないだろう。
まだ会って間もないが、マーフォークの触覚を持つガクトにはわかる。
「無理してるのに、それは無理なんかじゃないって、自分に嘘をつくな」
故に、ガクトは言う。わかってあげられる者が、言わなければならないのだ。
「軍人が誰かに助けを求めちゃいけないなんて決まり、どこにもないだろ? 少なくとも俺がいた地球では聞いたことない」
ジュリアは目を伏せる。薄茶色の前髪が下りて、彼女の目元を隠す。
「だから、もし君が望むなら、その、誰かと一緒に、他の世界を見に行くって選択肢もあるんじゃないか?」
ガクトが羽織るブレザー。その胸の辺りを掴むジュリアの手に力が込められる。
「――これは、もしもの話よ?」
目を伏せたまま、ジュリアが言った。
「もしもあたしが、あんたたちと、……あんたと、ずっと一緒に居たいって言ったらさ――」
彼女の声は、僅かに震えている。
ガクトは黙したまま、ジュリアの言葉を待つ。
「それじゃ、二曲目行ってみよう!」
ここで、歌姫たちの演奏が再び始まる。
覚悟を決めるかのような息遣いを、ガクトはジュリアの身体から感じ取った。
直後、俯いていた顔を上げたジュリアは、その目に溢れんばかりの涙を浮かべていた。
喜び、恐怖、希望、そして、縋りたい思いが綯い交ぜになった彼女の表情は、薄幸の中でもめげずに開花した華のように尊かった。
「――あたしを、お姫様にしてくれる?」
だがその言葉は、ガクトの耳に届かない。
「っ⁉」
ガクトは唐突に生じた背中の熱に驚き、ジュリアを落としそうになる。
「きゃ⁉ ちょっと、大丈夫⁉」
我に返ったように声を上げるジュリア。
「な、なんだかわからないけど、背中の剣が熱くて!」
言って、ガクトは背負っていた剣を取る。
「そ、その光は⁉」
異変に気付いたアリーフェが驚愕の声を漏らした。
ガクトが持つ剣――【竜斬剣】の、刃と柄の間にある小さな装飾。そこに施された四つの宝玉が、新たな光を放っていた。
今まではエメラルドの鮮やかな緑色の光だけだったが、ダイアモンドの白い光が加わっているのだ。
「宝玉が光った⁉」
「な、なんで……ガクトの力?」
激しい演奏が鳴り響く中、驚愕に言葉を失うガクトたちだが、次の瞬間、すべてを消し潰す重圧感が生じ、その場にいた全員の行動を縛った。
歌姫たちもプレイを中断し、ガクトたちがそうしたのと同じく、不安げな表情で天を振り仰いだ。
彼らが見上げる空に、突如として黒雲が出現していた。さらに、その黒雲の下――中空に、黒い穴がぽっかりと開いている。
黒雲から雷鳴が轟くと同時。ガクトたちの感情を得体の知れぬ重圧感で縛った根源が、その邪悪な姿を現した。
たくましい胴部と蛇のように長い首。鹿のように大きく伸びた二本の角。口部から覗く鋭い牙。冷徹の象徴とでも言うかのような水色の眼が淡く光り、硬い鱗で覆われた土気色の全身は見た者の精神を恐怖で支配する。
ガクトが対決すべき大敵――ベルリオーズが、無数の僕を引き連れてやってきたのだ。
『我が古敵の憎き剣よ! 探したぞ』
心胆を震え上がらせるような低い唸り声が、テレパシーの如く発せられた。
「皆さん! 地下の体育館に逃げてください!」
アリーフェが叫んだ。ドラゴンの急襲に、現状ではとても対応できる状態にないのだ。
バンドメンバーたちが一斉にステージから飛び降り、地下への階段がある校舎へと走る。
「君たちも、早く!」
歌姫がアリーフェに駆け寄り、彼女の小さな手を取ろうとするが、
「私はここに残って時間を稼ぎます。歌姫さんは、ガクトさんをお願いします!」
「待ってくれ! 逃げるのはみんなだろ! 俺が残る!」
ガクトは事態の急変に足が竦んだが、声を出すことでどうにか身体の震えを抑え込む。
「ガクト、あたし、パワードスーツが……」
消え入りそうな声で、ジュリアが言ったときだ。
ベルリオーズの口腔から放たれた青黒い大火炎が校舎を襲い、その全てを容赦なく覆いつくした。
今まさに校舎に入ろうとしていたバンドメンバーたちが、燃え盛る炎に呑まれてしまう。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああ‼」
仲間の死を嘆き膝をつく歌姫の悲鳴が、ガクトには遠く聞こえた。
自分が尻もちをついたことにさえ、気付かなかった。
なぜ、今なんだ?
どうしてこんなことになった?
ガクトの中で、そうした疑問と遣る瀬無さが渦を巻き、戦意を奪っていく。
「我が盾よ! 我が同胞を守りたまえ!」
アリーフェが呪文を唱え、上空に手を翳した。すると虹色掛かった靄のようなものがドーム状に広がり、グラウンド全体を覆い込んだ。
しかし、校舎は建屋全体が炎に呑まれ、中の生徒たちの生存は絶望的だ。
『これでどこにも逃げられまい』
何物をも噛み砕く牙を覗かせ、ベルリオーズが言う。
『たとえ世界から世界へ渡る力を持つ者がいようと、オレ様がこの宇宙に施した妨害魔法がある限り、他のどの世界へも逃げることはできん』
「――逃げるつもりなんてない」
両の拳をぐっと握りしめたジュリアが言った。
ガクトは戦意を失うばかりだったが、ジュリアは違った。弱気になった自分を奮い立たせたのだ。
「あんたをぶっ倒して、この世界を救うまで!」
「――そうだ!」
涙を拭った歌姫が立ち上がる。
「仲間の仇を、取る!」
尻もちをついたガクトからは、ジュリアと歌姫の表情はわからない。
だが、二人とも恐怖に震え、今にも挫けそうな心に抗いながら立っている。
『ほう? そんなちっぽけな身体で、オレ様と戦うというのか?』
大敵の声に震える足。強く握られた拳。
「――ッ!」
ガクトは歯を食い縛る。恐らくは彼女たちも同じであろう。
自分が恐がってどうする!
さっき、ジュリアはガクトに何と言ったのか。きっと大事なことだったに違いない。それをあとでもう一度聞くためにも、ここで怯えているわけにはいかない。
飛び交う無数の感覚に 本当の自分を見失う
そこで勝ち残るのは 弱さ認める強さ
涙に揺らぐ声を徐々に抑えながら、歌姫が歌い出す。
その場にいた全員の心に、微かな赤い炎が灯る。
反撃の狼煙のごとく、炎は強さを増していく。
「ありがとう、歌姫」
と、ガクトは全身に力を込め、恐怖を振り払って立ち上がる。
死んだみたいに 生きるより
赤い血を流し 牙を剥け
ベルリオーズの僕――体長三メートルほどの小型ドラゴンたちが一斉に降下してきたが、アリーフェの魔法による障壁に阻まれ、ガクトたちには及ばない。
「ジュリア、俺を投げてくれ!」
ガクトはジュリアと目を合わせる。
「――よく言ったわ!」
ジュリアは眉宇を引き締めて微かに笑むと、バレーボールのレシーブのような構えを取った。
ガクトは剣を両手でしっかりと掴むと、それを立てて頭の右手側に寄せる【八相の構え】を作り、ジュリアが差し出した両掌に片足を掛けた。
「どぉりゃぁあああああああああああああッ‼」
ジュリアが気迫と共に両腕を振り上げ、ガクトを上空へ投げ飛ばす。
アリーフェの魔法障壁を通過し、ガクトは真上のベルリオーズへ迫る。
させじと眼前に現れた小型ドラゴンを、ガクトはジュリアとの訓練通りに切り伏せた。
だがこの斬撃で、ジュリアの怪力で得た運動エネルギーが失われ、ガクトはそれより上空へと向かうことができない。
そこへ、燃え盛る校舎から人影が飛来。ガクトへ背後から襲い掛かろうとしていた小型ドラゴンを銃撃で撃破した。
凄まじい跳躍力で校舎を脱した、半ば炎に包まれたリクだった。
「リク⁉」
「――タダじゃ、やられないよ」
苦し気に笑い、リクは靴裏でガクトの背を蹴り上げた。
最後の力を振り絞ったリクが意識を失くして落下する中、ガクトは逆に再上昇。今度こそベルリオーズに至る。
『おお! マーフォーク風情がここまで来たか!』
悪のドラゴンが驚愕の声を漏らし、
「そこよ! ガクト!」
ジュリアの声が届く。
「うおおおおおおおおおおッ!」
ガクトは振りかぶった剣をベルリオーズの頭へ振り下ろした。
「――ッ⁉」
ところが、剣はベルリオーズの頭を斬るどころか弾かれ、ガクトの手から抜け飛んでしまう。
(くそ!)
ガクトは致命的な問題を失念していた。剣は刃こぼれが目立つメンテナンス不足の状態。切れ味が著しく低下しているのだ。
(――こんなことで!)
悔やむガクトの心情を、しかし現実は黙殺する。
眼前から、ベルリオーズの牙が迫る。その奥には、地獄へ続く口腔の闇――。
ガクトの意識は、そこで途絶えた。