春一番のたより
春一番が各地で吹き荒れたとテレビが報じている。
そんなさなかにケータイの聞きなれた着信音。
「母さん? 私」
「お名前をどうぞ」
「何それ」
「おれおれ詐欺に遭いたくないからどうぞ」
「やあね、ホントに」
怒ってる声に思わず笑う。
「マツリよ。猪瀬マツリ」
「はい、どんなご用でしょうか」
「いい物件が見つかったの」
「何?」
「探してたでしょ、私の家に近い空き家」
「ああ、それか」
「ご近所の林さんが息子と一緒に住むから処分したいって」
でも、今はこの部屋で結構楽してる。娘の家の近くに引っ越したらそれこそ、孫の送り迎えやら食事の支度って言われそう。
「まだいいわ。五十五歳だし」
「そんなこと言わずに見るだけでもどう?」
「わかった。今日は無理だけど明日なら」
「うん、林さんに話しておくわ。お昼も一緒に食べようね」
マツリは優しいけど、一人っ子だから親に依存しやすい。父親を早く亡くしたから余計にそうかもしれない。あまりに早かった父親の死。しかも相手が自転車の中学生。坂道を猛スピードで降りてきた少年にまともにぶつかってそのまま頭を打って亡くなってしまった。
元気な夫が自転車の少年とぶつかって死ぬなんて思ってもいなかった。しかも、相手は夕刊を配達する家計を助けるいい子だった。その子は病院でも葬式でももうそんなに小さくなれないと思うほど小さくなって両親と床に頭を擦りつけて泣いて謝っていた。
夫も私も教員だった。しかも中学校。その子の姿を見ればどんな少年で家庭はどんな様子か理解できた。とても慰謝料も払えないということも、保険にも入っていないことも。屋根の修繕で落下し足を痛めた大工の父親と近所のお弁当屋さんでパートタイマーの母親は、その子のバイト代で随分と助けてもらっていたに違いない。
少年は泣きながら今月のバイト代と、母親の給料の前借りした分とを封筒に入れて私に差し出した。中を見るまでもなくそれを受け取る気持ちにはなれなかった。八歳だったマツリはパパを返してと泣いてわめいた。娘を抱きしめながら、泣くしかなかった。その後も何回も彼らは来て仏壇に手を合わせた。墓参りも欠かさず来てくれた。
あれから、二十年。
娘は同級生と結婚して一児の母となった。あれほど嫌っていた教員になって小学校で働いている。しかも結婚相手も教員。
あの少年はいつまでも連絡を絶やすことなく手紙をくれた。立派な青年になったと心からそう思った。何より驚いたのは、彼が保育士の資格を取り、勤め始めたと聞いた時だ。きっといい保育士になるだろうと容易に想像できた。仏前に何回も足を運んでくれた。でも、もういいからとはなかなか言えなかった。彼がどんな大人になり、どんな生き方をするのか見ていきたかった。きっと夫もそう思っていただろうと。
林さんの家は小さいけれど、とても住みやすそうだった。今の家は高台で年々しんどいと思うこともある。それに比べて林さんの家はバス停も近くで、勤め先の学校までバスで二十五分。便利であることは間違いない。だが、今の家は夫と中古物件を探し歩いて見つけた家なのだ。若いから高台もなんということもないと思っていたが、年をとると結構きついのも事実。だからそのことを先日娘に愚痴った。すると、娘はすぐに探し始めたようだ。老後になって一人で住むにはいろいろと問題もあると娘もそれなりに心配してくれているようだ。。
そんなマツリと近所のレストランでランチを食べていると、向かいのテーブルであの少年に会った。
いや、もうすっかり大人だ。今は三十三歳のはずだ。挨拶しようかと迷ってると、気づいた彼はすぐに立ちあがり、私たちの前に来た。
「こんにちは。今、墓参りに行ってきたところです」
「いつもありがとう。お母さんはお元気ですか」
「はい、おかげさまで」
娘は軽く会釈をしながら食事の手を休めない。
いい青年だ。
気まずいだろうに挨拶をするし、墓参りも欠かさない。
「猪瀬さん、あとで伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。主人も喜ぶわ」
「お母さん! そんなはずないでしょ」
マツリが声を荒げる。
彼は困ったように頭を下げてその場を去った。
「お母さんたら、人がいいにもほどがあるわ」
「あなたの気持ちはわかるけど、あんなに心をつくして謝罪を続ける人を見たことないわ。あのときだって雨が降り出して新聞が濡れるとあわてたのよ」
「それでも、父親が死んだ原因の人よ。頭ではわかるけど見ると嫌なの」
レストランを出ると、マツリはふくれながら帰った。
私はもう一度林さんの家を見ようと来た道を戻った。
すると、あの彼が立っていた。
「あら、今から来ますか?」
「いえ、今日は止めておきます。実は僕結婚しようと思っています」
「おめでとう」
「ありがとうございます。でも、お嬢さんの怒るのは当たり前です。僕は大切なお父さんを殺してしまって」
「だけど、あなたの幸せは別よ。もう夫も十分誠意を感じているはずよ。二十年だもの。仏壇の前で報告してあげて」
家に着くと、彼は慣れた様子で線香に火をつけ夫の遺影に話しかけた。
「猪瀬さん、僕結婚します。保育士になって四年。結婚して二人で生活できそうだと決心しました」
彼は深々と頭を下げた。
「おめでとう。よかったわね。幸せになってね。夫もきっと喜んでるわ。新聞配達から始まった親孝行がこんなにも苦労を抱えることになってあなたも大変だったと思うわ」
その言葉にぽろぽろと涙をこぼす彼。思わず泣けてきた。
本当に幸せになってほしい。人に頭を下げるって簡単なことではない。それを二十年。いつも来てくれた命日やお盆。
「あのこれ、少しですが」
彼はいつものお供えの熨斗袋を出す。
「実はね、使わず置いてきたの。あなたの誠意が本物か確かめたくて。いつまで続くのかなと。初めは許せなくて悲しくて、でも十年過ぎたあたりから少しずつどう生きていくのか気になって。今はとても楽しみになってきたの。あなたは立派な人よ。保育士の仕事もがんばってね。そうそう、交通ルールはしっかり教えてね。それで、このお金は交通遺児のための募金にさせていただくわ。いいかしら」
「ありがとうございます。お願いします」
「もういいからね。ただ機会があればいつでも墓参りをしてあげて」
「はい」
彼が帰ったあと、隣に夫がいる気がした。きっと彼の姿をしっかりと見ていたに違いない。
ケータイが鳴った。
「母さん、彼来た?」
「どなたでしょうか」
「もう、またー。マツリですってば」