第四話「T」
もう一人の幼馴染は私の妻であるTだ。
Tは私とYより一つ下の女の子で私の実家の右隣に住んでいた。Tもまた、生まれた時から家族同然のような存在であった。
Tは私と同じく内向的で内気な子供であったが、周囲からの評価は私と正反対だった。
私の内向さは男という性別と思春期という年頃にあって、YとT以外の私を見る周りの目が「なんだアイツ男のくせになよなよして、本ばっかよんで気持ち悪りぃ」「男女」というような不の方向へ向かうが、Tの場合は女の子という性別とその可愛らしい見た目も合間って「女の子らしい」「可愛らしい」という正の方向へ周りの目が向かったのだ。
夫である私が言うと惚気ていると思われてしまうかもしれないが、Tは幼い頃からとても可愛らしく、そして非常に愛らしかった。まさに非の打ち所のない女性だった。誇張無しに小中高大と学校中の男子が一度は好きになると言われるほどに美しく可憐だった。そしてそれは結婚して二十年が経った今でも全く変わらない。妻は何年経っても、いや年を経るごとにその美しさを増している。
故に当然の帰結として、私は物心付いた時からTのことが好きだった。本当に好きだった。どれ位の頃からそれが恋だと実感したのかは覚えていないが、少なくとも五歳の時にはTのことが好きだったと断言できるほどにTが好きだった。
その優しいたれ目も、愛嬌のある丸顔も、眉毛の上で切り揃えられたぱつんの前髪も、小さめな身長も、綺麗な歯並びも人より尖った犬歯も、右目の泣きぼくろも、淡雪のような白い肌も全てが好きだった――
ただ、ぱつんの前髪に関しては似合っているから良いとは思うし、また、私も妻のその髪型が大好きだが、ある理由がまたしてもその妻の髪型を純粋に良いものとして見ることをできなくさせ、故に新しい髪形にしてほしいと願わずにはいられないのだ。何度か髪型を変えてみたらどうかと提案したこともあったが、結局の所、その願いは叶わなかった。
小中高とTは学年問わず男子達の憧れの的であったが、周囲に不良とみられていた腕っ節の強いYの存在があることから、Yの彼女と見られていたTに色目を使うような男、告白しようという勇気のある男はおらず、結果としてTも誰かと付き合うということはなかった。
私とTとYは三人でずっと一緒に育った。幼稚園も一緒であったし、小学生にあがる頃には三家族とも共働きの両親に留守を任されお互いの両親が帰ってくるまでは三人で、三人の誰かの家に集まり留守番をしていたし(もっぱら私の家であったが)、時には泊まったりもしていた。私たち三人は所謂鍵っ子というやつだったが、私たちはいつも三人でいたので特に寂しい思いはしなかったし、むしろ両親が帰ってくると、楽しい時間が終わってしまったとがっかりしたくらいだ。
(自分が大人になり、家族を養うようになった今になって思えば、ど田舎の寒村でそこを出て行かずに出稼ぎにも出ずに、子供を養いながら暮らせるほどの収入を共働き程度でよく得られていたと思う)
三人での留守番はずっと続き、Tが小学校高学年になる頃には料理の許可を両親からもらい、私とYも手伝いながらTが料理をするようになった。Tの料理の腕は日に日に上達し、プロ顔負けといえるほどになって、出てくる料理の全てがY好みの味付けだったこと以外は、文句のつけようがなかった。私とYは両親の料理よりもTの料理のほうが好きであったし、共働きで殆ど家にいない両親の料理よりもTの料理を食べた回数の方が多いくらいだ。
Tが中学生に上がる頃には三人が泊まる際には、Tに気を使い居間にカーテンで仕切りをつけて、私とYが布団をくっつけた横並びで寝て、その仕切り越しの隣にTが寝る、というようになった。だがTは高校生に入るくらいまではたまにそのカーテンの仕切りを越えてくることがあった。
それは、悪い夢を見たというときもごく稀にあったが、大体は雷が鳴る夜の日で、雷恐怖症であったTは度々私たちが寝ている布団の間に入って来た。口惜しいことに、Tは必ずYの方を向いて、ふるふると震えながらYにしがみついていたことだ。
一度も私を頼ってくれることはなかった。だからこそ私はTが真横で同じ布団で寝ているというドキドキ以上に、想い人が間男に寝取られてしまったような寂しさと、屈辱と、怒りと嫉妬に駆り立てられたものだ……。
そうではないだろうか?
年頃の男女が夜中に、布団の中で密着して「こわい……」「大丈夫だよ、怖がんな」などと言い合ってYがTの頭を撫でているのだ。しかも私が横で寝ているのに! 私はそういう時いつも寝たふりをしていたが、正直二人は狸寝入りだと分かっていて見せつけられていたとしか思えない。
そしてその度に、雷の夜の度に他所でやってくれと何度も思い、祈った。だってこれはもう、殆ど性交渉のようなものではないだろうか? 正直にこのときの私の心境を言えば二人揃って雷にでも打たれて、真っ黒焦げに死んでしまってほしかった。それ程に私の中で恋と嫉妬の激情が渦巻いていたのだ。
晴れて高校も三人で同じところへ通えることとなった。
偶然ではなく、同じようにさせるためにYとTに高校受験の勉強を私が教えて、なんとか二人とも同じ高校に通えることになったのだ。
そう、受験でいえばまた一つ、名状しがたい思い出がある。
私がTに受験勉強を教えていた頃、Yは手持ち無沙汰だったのか、何か金を使いたいことができたのか隣町でアルバイトを始めた。業種は確か原付を使った配送か何かであったと思う。ここでもまた、私はYとTに情念を駆り立てられるような様をみせつけられることになったのだ。
「俺来週からバイト始めるわ」
いつものように三人で集まり私の家で夜を過ごしていたとき、私は机で向かい合ってTに受験勉強を教えていると、こちらに背を向け雑魚寝しながらつまらなそうに雑誌を読んでいたYは唐突にそう切り出した。
「そっか、頑張れよ」
「おう」
私はYのそういう突然さには慣れていたし内心、Tと二人きりになれる時間が増えると喜んだのだが、それを微塵も気取られないように、何気なさを装ってそう答えた。が、その秘めた内心の喜びは、机を挟んだ対面にあるTの顔を見た瞬間粉々に砕け散った。
「え……」
ただ一言、そう発したTの顔たるや……寂しげで侘しげな捨てられた犬のようなその表情……げに憎らしい……。そんな顔を私にしてくれたことなんて今まで一度だってなかったではないか……。別に離れ離れになるわけではないというに今生の別れにのような顔をしてまぁ……たかだか数時間共にいる時間がなくなる程度ではないか……。
「なんだTその顔は?」
Tの声の元気のなさを感じ取ったYは起き上がりあぐらを組んでこっちを、正確にいえばTに向いた。
「……ううん、なんでもない」
そんな顔をしておいてなんでもない訳があるか――なんというあざとさだ――という心の声を押し殺すのに精一杯だった。
「なんだ寂しいのか? ちょっと会える時間が減る程度なんだからそんな顔すんな。たまにお土産も買ってくるからよ」
Yはそう言うとニコッと笑顔を浮かべ身を乗り出してTの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「……うん」
頭を撫でられているTのまんざらでもない顔に、やはり私は堪え難い精神的苦痛を味わわされ、狂え溢れ出る嫉妬の情を恨みを押さえつけねばならなかった。
――Tよ、Yはバイトでいなくなるが僕はいるんだぞ――? 僕のことは眼中にもないのか? 僕は? 僕は?! 僕はここにいるぞ、いちゃつくなら他所でやってくれ! 僕の家でこれ以上僕を苦しめないでくれ!――
と、何度もそう思った。だがそれだけでは終わらず、それからYのバイトが始まると、私のTとYへの嫉妬による苦痛は、それ以降なお増して執拗に私を苦しめた。
Tがバイトを始めてからは私とT、二人だけの勉強会が始まったが、色っぽいことや恋愛的進展など僅かにもあるはずもなく、それどころか、Tは私との勉強会の途中で必ずそわそわとしだす時間があった。それは勿論Yが帰ってくる時間に近くなった時である。そしてYが「ただいま~」と帰ってくると必ずTは「おかえり」と声をあげながら私との勉強を投げ出して、いそいそと玄関まで小走りにYを迎えに行き、作っておいた夕食を温め「今日は遅かったね」だの「今日はどうだった?」だのYと楽しげに会話をしだすのだ。
私はYがバイトから帰ってくる度に「おかえり」と一応は返しつつも、微動だにせず瞳孔まで開くように目を見開き、されど二人に気取られることがないように泰然自若としつつ、内から攻め寄せる負の感情の濁流をいつも、いつも、いつもいつも抑えねばらなかった。
――はっ! まるで新婚夫婦だな、えぇおいっ? 僕との勉強はどうしたY! 僕はいつもいつも馬に蹴られる役なのか?! いや馬に蹴られる役にすらなれてないなぁおい!
分かってるよ? お前がYのことを好きなことは百も承知の上だ! だがこれはあんまりにも露骨すぎやしないかっ?! そうだな! 僕はお邪魔虫だなぁ! ここは気を使って帰らせてもらうとするよ! お邪魔しましたね! そうだった! ここが僕の家だったなバカヤロウ! 早く二人とも出てってくれ! イチャつくなら自分の家でやってくれ!――
当時のありのままの気持ちを取り繕わずに再現すれば大体にしてこんな風なものだ。
自分で自分が嫌になるが、この気持ちは卑しいものなのだろうか……? 結局答えは出なかったが、負の感情であるのだから良いものでないことは確かだろう…………
だが私はTとY、この二人のことを決して嫌いではなかった。
むしろ三人でいる時間に安らぎと温かさを覚えていた。
だが、その安らぎをいつも粉々に打ち壊し、私に負の感情を与えていたのは、恋という感情のせいだった。嫉妬が私を狂わせ、恋が私達の仲を粉砕するのだ。恋などしなければよかった……。せめてT以外の女性を好きになれればよかった……。
恋なんてするべきじゃない。恋は執着、愛も執着だ。捨てたほうがいい。穏やかで凪いだ平穏な人生が送りたいのなら、恋なんてするべきじゃないのだ。少なくとも、叶わぬと分かっている恋と関りなんて持つべきじゃなかったのだ…………。