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第十四話「煩悶」


 妻が未だにYを好きだということを裏付ける出来事は、枚挙まいきょいとまがない……。


 結局、妻は手編みのマフラーもセーターも手袋も、たったの一つも私に編んでくれることはなかった。なのに、妻の自室にある嫁入り道具の化粧机の引き出しの中、そこには、あの時の、Yへの編みかけの青いマフラーがいまでも大事に仕舞われているのだ。


 料理の味も未だにY好みの味だ。それはそうだろう……なんせその料理はYのために覚えた料理なのだから……。私が好きな味付けなどきっと一つも覚えていてくれていないだろう……。


 妻が未だに髪型を変えないのは、幼い頃にその髪型をYに褒められたからなのを私は知っているし覚えている……。私は結婚してから幾度となくそれとなく、髪型を変えて見たらどうだと妻に話して見たことがあるが、その度に妻は「あなたは嫌なの?」と、決まって必ずそう返すのだ。


 「あなた「は」」?「は」とは一体誰のことを指しているのだ? 「は」が妻のことならばYに褒められたから気に入っていて「は」がYのことならば私よりYの言葉の方が上ということではないか! つまり妻は未だに私の言葉よりも願いよりも、Yの言葉のほうが重いということだ。だから、普段反抗することなぞ無いしとやかな妻が「髪形変えたら?」という私の意見を、のらりくらりと言葉と態度を変えながら絶対に受け入れないのだ……!



 それだけではない……当たり前の話だが、Yが死んでから何度も雷の鳴る夜があった……。だが、お前は、一度だって私に抱きついて震えてくれはしなかったな……。自分で自分の身を抱いて耐えていたな……。そして手麗児が産まれ……家族三人同じベッドで寝ていた雷の日の夜、お前は手麗児に抱きついていたな……私には一度だってしたことないのに……。


 妻よ、それはどういう意味なのだ? どうして雷の夜に私を頼ってくれないのだ? 私はYと違って頼りないから抱きついてくれないのか? 私では安心できないからか? それとも、未だにYのことが好きだからか……? 手麗児には抱きついていた理由はそういうことなのか……?


 お前はきっと、産まれた手麗児がYに似ていたのを見て、この時ばかりは信心深くないお前でも神に感謝したに違いない! 私と妻の間に妻とYの子が生まれたのだから!! だから手麗児には抱きつけて私には抱きつけないのだ――!!



 もしかしたらYの亡霊に囚われているのは妻ではなく私なのかもしれない――


 だが……もうどうでもいい……どちらでも同じことだ――



 テレゴニーの話を聞いて以来、私の妄執は加速度的に進行した。

 常に頭の中で繰り広げられる苦悩の数々は、頭の中だけでは収まらず、とうとう私の心身をも侵してくるようになっていた。毎夜の不眠、終わらない頭痛、襲い来る癇癪かんしゃくに悩まされ、せこけ、胃は荒れ、体のあらゆる所がおかしくなっていった。


 妻と手麗児はそんな私を心配し「どうしたの?」「原因は?」などと度々聞いてきた。私は本当のことを言えるわけもないので「仕事の関係でちょっとね」と誤魔化し続けた。このときになると私は、妻の私への心配は、表面上のお義理の体裁ていさい的心配にしか感じられないまでになっていた。


 逆に心の底から心配してくれている手麗児には、心配させて本当に悪いことをしたと、負い目ばかり感じていた。

 


 ある時倒れた私は病院に担ぎ込まれた。医者は心労と判断した。

 妻と十五歳になった手麗児が急いで病院に駆けつけてきて、ベッドに寝かせられていた私に抱きついた手麗児は「お父さん死なないで」と涙を流す手麗児の姿を見て、私は、子供の頃の、映画を見て同じことを言って私に抱きついてきて泣いていた、在りし日の手麗児を思い出して、本当に悪いことをしたと心が痛くなった……。


 その痛みは今でも取れない――。私はそんな手麗児の頭を撫でて大丈夫だよと笑顔を浮かべることしかできなかった。



 妻も涙ぐんでいたが、私は妻の涙は本物かと疑った。Yの葬式で流した涙は本物だろう。だが今私に対して流した妻の涙は対外的なもの、死ななかった私への悔しさで流した涙ではないのか? と、そんなことすら思うようになってしまった。



 程なくして私は退院したが、それ以来何が原因か、度々Yが私の夢に出てくるようになった。

 そしていつもYは私の枕元に立って、無言で、哀れんだ表情を浮かべながら私を見つめているのだ。



 私は夢の中のそんなYの姿に無性に腹が立って「上から目線で何様だお前は!」「憐れむな!」「勝者の余裕か!?」と怒鳴りつけて目覚めたことは数知れない。たまに本当に寝言で怒鳴っていたのか、普段怒ることなぞ無い、怒鳴ることなぞ無い私がそんな大声を出したものだから、驚いた手麗児が「どうしたの」と涙ぐみながら私を揺すって起こしてきたこともあった。



 このように、妻は今でもYを愛していて、私はそのために、ここまで苦しんでいるのだ――

 女々しいか? 情けないか? みっともないか? だが仕方ない……これが、嘘偽りの無い私の本心なのだから――



 結局私が手に入れられたものは想い人の身体だけだ! 妻の魂も心もあの日、葬式の日、Yに連れ去られてしまったのだ――!


 これでは何も意味がない……っ! アフロディーテのいない世界でガラテアに恋をした、衰弱死していくだけのピュグマリオーン、それが私だ――! 何が違うというのか?! どれだけ精巧にできていようが、姿形だけの魂の入っていない人形に価値なんて無い! ああ……っ、どうして私はあの日、あの時、Yの葬式の日にTを諦めることができなかったのだろうか? 私がYに勝つことなんて絶対に無理だと分かりきっていたのに――! 


 ああ口惜しい呪わしい怨めしい、Yよ、お前は死して私を苦しめるのか……? 何故死んだのか!? お前が生きてTと結婚していればこんな惨めな思いをすることもなかったのに……っ。お前も分かるだろう……? 私が妻を諦められるものか……諦められる訳がないっ! どんなことがあろうと私が妻を諦められる訳がない! 


 ならば妻はなんで私と結婚してくれたのだ……? 情か? 情? 情!? 私はお情けで結婚してもらえたというわけか!? その結果がこれか?! 愛しい愛娘をテレゴニーによって姿形すがたかたちを改変させられて、精神的托卵をされたというわけかっ――!?




 確かに……三人の記憶は輝かしいものであったが、輝やくところあればかげるところあり……。まさしく輝やいているのはYとTで、私はその光の陰にしか他ならなかった……。


 あの時、Yの墓前でTを幸せにするよと祈ってしまったことが間違いだったのであろうか? もはや言わずもがなであろうが、Tの本当の幸せとはYと結ばれることだ。だがYはもう既に死んでいる。もし死者に、亡霊に、不思議な力があるとするのなら、蘇ることのできないYはなんとかして少しでもTを幸せにしたいと、せめてものよすがとして、手麗児に干渉を加えたのだろうか……?


 分からない……もう何も分からない……


 愛おしい女が、過去にどんな関係を持とうが誰を想っていようが、上辺だけでも好きだと言ってくれているのなら、受け入れるのが男の度量というものだろう……。だが、私には無理だ……。だから、こんな、こんな下世話な……下卑げびた妄想をしてしまう……。



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