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第十話「疑惑」

 

 赤ん坊の特に目と耳が、奇妙なほどにYそっくりに見えたのだ――


 女の子のはずなのに、目と耳以外にも何故だか全体的にYを彷彿ほうふつとさせる……なんだこれは……と。 


 赤ん坊を見たまま固まっていた私は看護師に肩を揺すられて我に返り、条件反射的になんとか無理くり貼り付けたような引きつった笑顔を作って、憔悴しょうすいしきっている妻に「よく頑張ったね」と声をかけた。妻は短く「うん」と答えると、その赤子をとてもとても愛おしそうに見つめた。その時の妻は、昔見たことがある表情を浮かべていた……。


 その顔を……その表情を……私はよく覚えている……忘れられるはずが無い……そう、その表情は、妻がYを見るときの顔だ――



 そう見えてしまったのは、やはりこれも私の気のせいなのだろうか――?



 誰でも一度くらいは自分が親になる瞬間を脳内で思い描く時があるだろう。その想像とは大体が産まれてくる子の顔を予想したり、自分が男なら無事出産を終えた妻との会話を、女なら出産し終わった自分や夫との会話を、担当医や看護師とのやりとりを想像するだろう。


 その中の一つで誰もが簡単に想像できるようなやりとりに「見てあなたにそっくり」や「お父さん似ね」もしくは「お母さん似だ」だのがあると思うが、そういう台詞が一切出てこないほどにその赤子は私に似ていなかったのだ。いや、私に似ているといえば似ていないところもないが、やはり全体的にYに似ている……。そんな気が、根拠も何も無い、いわば直感的に私はそう確信してしまったのだ。 


 生まれたばかりの子供を見て、そこまで判断できるのかと言われればそうなのだが、その時の私はそう思ってしまったのだ。勿論馬鹿げたただの勘違いかもしれない。だが、この子を見る瞬間まで私はYのことなんて脳裏に一μ(ミクロン)も無かったのに、何故急に赤ん坊を見てYに似ていると思ってしまったのだろうか?…… 


 つまりはそういうことではないのだろうか――?



 私の内から消えていた妄執が、また、ゆらゆらと、それも一段と強く、うごめき出した――


 それからというもの妻子が退院するまでの一週間の間、私は家に一人でいると押し潰されそうな不安、強迫観念というには足りぬほどの恐怖が込み上げてきて、殆ど眠ることも出来ず食事も喉を通らなかった。


 不安に耐えかねて膝から崩れ落ち、何度も叫び声をあげ、わけもわからず子供のように一人で泣きじゃくった。それでも気持ちが不安が晴れることは無かった。



 自分の子がYに似ているなんて、そんなことは無い気のせいだと自分に言い聞かせ、何度も何度も自身に暗示をかけて不安を打ち消しながら、仕事の合間をって毎日病院を行き来し、娘と妻を見ては帰った。一日一日と経つごとに、娘を見るたびに、私は愛おしさと同時におかしいという感覚も抱いて帰る。そんな日々だった。だが、退院してきた妻と娘を見ると、おかしいという感覚もあるが、それ以上に我が家に愛する妻がいて、我が娘がいるという安堵あんど感のようなものが芽生え、私は自然と、眠れるように食事がとれるように人知れず回復していた。



 娘には前もって妻と決めていた名、手の綺麗な子になるようにとの思いをこめて手麗児てれこと名付けた。




 手麗児はとても愛らしく愛おしい娘だ。目に入れても痛くは無いし、この子のためならなんだってできる。愛しくて愛しくてたまらない。なんて可愛らしいんだ。大変なこともあるがそれ以上に愛おしい。子を持つとはこういう気持ちなのか、苦労もあるが、この子が笑えばそれだけで全ての苦痛が帳消しになってあまりある幸福を得られる――



 だが似ている――



 それが、それだけが酷く私を苦しめる。


 離乳お食い初め七五三と、どんどんと成長する私の娘は、成長すればするほど私に似ていないということが、目と耳がY似だということが、私に似ているといえば似ているが、全体的にTとYの子供だと言われたほうがしっくりくるほど顕著けんちょになっていった……。

 

 七歳のとき七五三で着物を着た手麗児の可愛いこと可愛いこと…………。

 妻譲りの可愛らしい顔と、尖った犬歯、キリッとした釣り目に、大きい福耳、そして健康的な小麦色の肌。手麗児は本当に健康的な可愛らしさを持つ、友達の男の子たちと一緒に遊んで泥だらけになって帰ってくるような活発で外向的な、それでいて、女友達ともしとやかに遊べる妻譲りの女らしさも併せ持つ、男女関係無く人気者な娘に育っていった。


(その男らしさと女さらしさを無意識の内に上手く使い分け、人から反感を買わないように立ち回れる感覚は私譲りなのだろうか?)


 だが……どうして……どうして肌が小麦色なんだ? ……私も妻も色白なのに……その釣り目と福耳は誰の遺伝子だ……? 内気で内向的な両親から生まれたのにその活発さ……ああ手麗児……。見れば見るほど、Y似ている……似ているようにしか思えなくなってしまう……。



 妻は「あなたの子よ」とは言うが「あなたに似ている」「あなたにそっくり」とは今日までついぞ一言も言わなかった……。初めて手麗児を実家に娘を連れて行った時のことは忘れもしない。あまりにもYの要素を持つ手麗児に、私の両親も妻の両親もYの両親も悪い意味で一瞬息を飲み、気を使っていることや、言葉を選んでいることがわかるくらいに、それくらい、私の勘違いでは済まされないほどに私の娘はYに似ていたのだ。 


 手麗児が生まれてから最初の何年かはYと妻の不義の子かとも一時は本気で案じたことがある。あるが、考えれば考えるほどそんなこと在り得ないと言うことが浮き彫りになるのみで、その事実がより私を不安にさいなめた。何故ならばそんなことは考えるほどもないほどの簡単な話で、Yが死んだのは妻が妊娠する六年も前で、Yは一人っ子で兄弟はいない。Yの両親の間にも隠し子や前の伴侶との子もいないからだ。


 何で私がYやYの両親の血縁関係のことをあれこれ知っているのかというと、興信所を使って調べさせたからだ。一社だけでは不安があったので、有名な所から知る人ぞ知るというところも含めた三社ほどを使って調べさせた。今話した情報は三社ともに提出された調査書で一致していた情報であり、つまり、ほぼ確かな事実であるのだ。


 そうして私は何かの勘違いだと思いながらなんとか自分に言い聞かせつつも、やはり不安で不安で仕方なかった。そもそも、勘違いだと思うように言い聞かせるも何も、本当に私の思い違いなのだ。興信所でこういう結果がでているのだし、Yは確かに、書類上も肉体上も確実に死んでいるのだから、手麗児は私と妻の子供意外にありえないはずなのだ……。


 しかし少し頭を動かせばいつもこう思ってしまう。実はYは生きていたのではないか? 生きていたYと妻が不義を重ねて手麗児が生まれたのではないか? と。だがそんなことはやはり考えれば考えるほどありえない。あの日実際に私は病院で、すぐにでも動き出しそうな活きの良いYの死体を見て、葬式で棺に入ったやすらかに目を閉じているYの顔を見て、火葬場でYの棺に石で釘打ちをして、そのまま火葬路に入っていくYの棺を見て、焼かれたYの白く茶がかった太い骨を箸渡しして、墓まで行き、思いの他重い骨壷を墓に収めるところを見ているのだ。


 だからこそ、Yが生きていることなんてありえない――

 

 ならば……ならばなんなんだ……? と、また私の中で疑問が頭を過ぎった。あれか? やはりYには良く似た兄弟がいて、そのYの血縁である不貞な輩が妻と不義を犯した? それかまたは、Yとは全く無関係のYにそっくりな人間と妻が出会い、私に隠れて不義を重ねていたのか? 論理的に考えるなら後者の線が濃厚だが、それもまた興信所によって妻はシロだという結果がでている。妻は肉体的には実に貞淑ていしゅくな女であったのだ。浮気どころか、怪しげな行動は何一つとすらしていなかったのだ。


 結局、私が興信所で数百万もの金を使って得たものは、幾許いくばくかの安息と、妻を疑ってしまったという重い罪悪感だけだった――



 そうして何年も何年も幾重いくえにも十重二十重とえはたえにも思い悩んでいると、あるとき天啓てんけいのようなものが降りてきたのだ。ある種の閃きというのだろうか、私は仕事と苦悩と妄執と家族との間であるときこの問いに対する解のようなものが頭に浮かんだのだ。


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