第九話「結婚、出産」
そして私は無事に大学を卒業し就職した。
その頃になると、私の頭の中はTと結婚したいということでいっぱいだった。無論、この段階ではまだTにプロポーズなどしていないし、結婚の「け」の字もお互いに話したことがなかったが、私はTと絶対に結婚するんだと半ば狂信的に思い込んでいた。
だから仕事は最初のうちは何かと大変だったが、Tとの結婚のことを思えばこそ弱音なぞ吐いていられないと、ストレスで胃潰瘍になりながらも諸々の難事に耐え、正面から向き合って出来るだけ仕事を覚え、将来の独立を視野に入れながら誰よりも身を粉にして働き、正攻法が通じなければ人に言えないようなことだってした。
家に帰ればTが料理を作っていて、どれだけ私が遅く帰ろうとも食べずに待っていてくれていることが何よりも嬉しかった。Tが側に居てくれるだけで私は何にでも耐えられたし、何もいらなかった。どれほど辛辣悲惨な目に遭おうともTの笑顔さえ見れれば幸せだったのだ。
そんな生活を続け一年が経ち、私の仕事も軌道に乗って順調になってきた頃、Tも無事に大学を卒業することが出来た。
卒業式も無事終わり、休みを取れた私とTは二人で卒業記念に帰郷して、Yの墓参りに行き、私は、あの告白の時と同じように、Yの墓前でTにプロポーズをした。
Tは、一瞬虚を突かれたような顔をしたあと、とてもはにかんだ笑顔を浮かべて「はい」と答えてくれた――
私は嬉しさと、これからもTとずっと一緒に、死ぬまで生きていけるのだと、また涙を流した。
墓から実家に帰りそのことを両親たちに伝えると、Tの両親も私の両親もそしてYの両親も私たちの結婚を心から喜んでくれたが、Yの母親がTに言い放った言葉があまりにも腹立たしくて未だに忘れられない。
「Tちゃん、Yの早く忘れて幸せになりなさい」
こんなことをYの母親はTに言い放ったのだ――
私は常の如く表面では穏やかにしていたが、内心激しい苛立を感じていた。いや、そんな生易しいものじゃない、怒っていた、激怒していたのだ。なんて無神経で頭の足りない失礼な人間だと、余計なお世話だと。結婚する報告を、本来しなくてもいいお前なんぞにしてやったんだぞ? 死んだ家族同然だった幼馴染の両親だからという義理でわざわざ報告に行ってやったのに、その義理堅い私を前にして、その妻になる女に、昔の男の話をするか……?
しかも「Yのことは忘れて幸せになりなさい」?
私はこいつ以上に失礼なことを言う無思慮で無礼な人間を見たことが無い。
上から目線でよくもまぁ……本当に……無神経だ無礼だ。仮にこの夫婦が崖から落ちかけて助けを求めていても、周りに人がいないのなら私は見なかったことにして通り過ぎるだろう。碌な人間ではない正気を疑う。やはりこの私の狂える頭を荒ぶらせる遺伝子はここにあったのかと思ったほどだ。
この時私はできる限り、義理事としてのYの法事や帰郷時の挨拶意外でY家に近付くのはやめようと心に決めた。本当なら二度と会いたくなかったが、そんなことをすればTの心が私から離れていってしまいそうに思えたので口に出すことは出来なかったが……本当に口惜しい殴り飛ばしてやりたかった……今思い返しても殴ってやりたいと思える…………っ!
このようにYの両親への怒りを笑顔で押し殺して都へと戻った私達は、それから程なくして結婚し、同時に今の新居を購入した。
白無垢を着た妻は本当に綺麗だった……美しかった……。絶世の美女という言葉を、現実で使うときがくるとは思わなかった……。
披露宴では会社の同僚や上司たちに、なんて綺麗な奥さんなんだと誉めそやされ、羨ましがられた。私は自分のことを褒められるよりも妻のことを褒められた方が何百倍も嬉しいから、皆から投げかけられる羨望の言葉が、私にとっては最高の言祝ぎだった。この時は集まってもらった皆に「ありがとう」と心から言えた。
ただ一つの、難点があるとすれば、義理で呼ばなければならないから仕方なく読んだYの両親が、Tの希望もあって(表面上私も賛同したが)Yの遺影を持って結婚式に参列したことだ……。いや、私もYのことは兄弟のように思っていたから……いいんだが……だがよくない……。
なんと言えばいいのだろうか……嫁の元恋人が結婚式にノコノコ参列しているのを知ってしまった新郎の気持ちというべきか、うまくいえない嫉妬の情が、このハレの場で芽生えてしまったことが一番イヤだった。つまり、自分自身に一番嫌悪していたのだ。一生に一度のハレの場で悪しき感情を抱いてしまったということが最悪で、画竜点睛を欠くとはまさしくこのことだろう。
何よりも腹が立ったのは、妻が読んだ両親への感謝の手紙の内容の三分の一くらいが、何故かYに関する内容だったことだ。
「兄妹のように育った、慕っていたお兄さんのような存在だったYくん、私の晴れ姿見てくれてる?」
要約すれば、このようなこ内容が結構長く綴られていたのだが、なんだろう、私は、私の結婚式のはずなのに、私が新郎のはずなのに、Tは私に見せるよりも、Yに晴れ姿を見せたがっているように聞こえてしまって仕方がなかったのだ…………!!
私は狂っているかのだろうか? おかしいかのだろうか? こんなことを想ってしまう私は、やはり最初から妻に相応しくないかのだろうか? 結局、嬉しさよりも苦悩を多く背負い込んでしまった結婚式は、そうして終わった――
新婚旅行の間もその苦悩が邪魔をして心から楽しむことができなかった。染みこんだ黒い感情、嫌な記憶、苦しみ、そられは一度抱いてしまえば、脳髄と魂に深く刻まれ二度と消すことは出来ないのだ。何度、輪廻転生しようが絶対に消えることの無い傷なのだ。たとえ生まれ変わって忘れたとしても、傷自体は無くなるわけではない。傷に気がついていないだけなのだから。何かの拍子に思い出してまた苦しむのだ、今世に関係ない前世の傷を永劫苦しみ続けるのだ。
話がまた逸れてしまった……話を戻すと、そうだ……新居の話だ……結婚のあとは新居を構えたのだ。とうとう私のようなものでも一国一城の主になることになった。
一等地とはいえない郊外にはあるが、一応都内の庭付き一戸建ての、我ながら立派な家だと思う。決して安い買い物ではなかったが、ローンを組んで、逆にそれを励みにした。そのローンも五年程前に完済している。
そして新居が完成してから一年後の春に妻が妊娠した。私は妻の妊娠を心から喜んだ。私は完成した我が家で妻と一緒に子供の名前や生まれてくる子が男なのか女なのかと話しながら、日に日に大きくなっていく妻のお腹を見つめ、人生の幸せというものを謳歌し噛み締めていた。
今思えば、この時が私の人生の絶頂期だったのだと思う。私が求めていたものは、この時間の中にはあった。穏やかに凪いだ、何物にも煩わされることのない平穏な時間こそが、そこにはあったのだ……。ここで死ねていたら、私はどれだけ幸せだっただろうか…………。
これ以降私の人生から凪は消え、動悸激しい心電図のみたく激しく波打つようになる――
願わくは心停止一歩手前の心電図のような人生が送りたかった――
山も谷も起伏も無い、平らな、平野な人生が良かった――
その翌年、妻は出産を迎えることになる。私は妻の出産に立ち会ったが、生来臆病な私は病室の中に入る勇気がなかった。妻の苦しむ姿を見ることが耐えられなかったのだ。だから分娩室の前で待った。
妻は実家の田舎で産婆を呼んでの自宅出産を望んでいたが、とんでもないと私はそれを拒んだ。そんな危険なことは絶対に認められなかったからだ。自宅出産が悪いといっているのではないし、できる限り妻の望みを叶えてやりたかったが、最新の医療設備と経験豊富な腕の良い医者が居る病院が都内にあるのに、わざわざ近くにまともな病院もないような田舎に帰って出産という、自分から危険を犯しにいくようなリスクしかない行動を許すわけには絶対にいかなかったのだ。
だから今回の出産は都内の最高の設備を持つ病院で行っている。私と妻の母たちも出産に立ち会いたいようであったが、臨月とはいえいつ出産するかは、神のみぞ知ることで、仕事や諸々の関係から田舎から出てこられなかったため、今回の出産に立ち会っているのは私一人だけである。
そうして待って待って待ち続け、一体何時間経ったのかわからないほど待ち続けた。
妻は難産で母子供に危ない状態だと看護師に伝えられたときなどは、動悸と震え冷や汗が止まらなくなり、床へ滑り落ちた眼鏡はそのままに、視界がぼやけてるのだが意識が薄れているかすら定まらず、握り込んだ両手指の爪が手の平深く食い込み青アザとなって、顔面蒼白にして呼吸荒く、頭の中では最悪の事態を想像というよりも「母子ともに危険な状態です」という看護師の言葉が無限に繰り返され何も考えられず、終いには私の方が看護師たちに心配されるほどであった。
そしてついに、その時が、我が子誕生の瞬間が訪れた――
分娩室から元気な泣き声が――
生命の産声が聞こえる――
「私」の子が生まれたのだ――
こんな嬉しいことがあろうか? こんな美しい泣き声があろうか? 私は喜び歓喜すると供に極限までの緊張から解放されたことでヨタヨタと足をもつれさせながら必死で妻の元へ駆け寄った。
「元気な女の子です」そう言った看護師に抱えられている、赤黒い体液塗れの、世界一美しい小さな肉の塊、三千グラムにも満たないであろう小さな小さな愛しい我が子を見て――
時間が止まった――
どうして? 何故? ありえない――
脳内が静かに停止したまま目まぐるしく思考が駆け巡り、先程とは全く違った意味で心臓が止まり、脳内が白く染まり、私は確かに確実に何秒間か、死亡しない程度に心停止していたと思う。
まさに脳内驚天動地と言えばいいのか、ものすごい衝撃を受け脳が揺さぶられたときのように、視界がグルグルと恐るべき眩暈がしたかと思えば、真夜中の暗闇で突然現れた車のハイライトを浴びせられた瞬間のような、眩い光のようなものが視界に入って目がちかちかとして、眩暈、光、吐き気、ぐるぐると回る世界。なんと形容すればいいのか分からないが、なんだか脳が焼いてない腸詰肉を捻りきったときみたいな弾けかたをしそうで、脳が爆発しそうだったのは覚えている。
何故急にそんなことになったとのか?
何故私は急に爆発しそうになったのか?
何故なら――何故なら――何故なら――
その赤子がYに似ていたのだ――