盆会
間もなく盆会という、暑い夜である。このところ罪人の処刑もなかったが、えんは、涼みがてら頻繁に閻魔堂に顔を出していた。大抵は暗闇の閻魔堂を覗いて、木造りの像を眺め渡して帰るのだが、今日はぼんやりと閻魔堂に灯りがともっている。
がらんとした処刑場の方を見れば、山の端には半月から満月に向かう半端な形の月が昇っている。ほのかに光が漏れる閻魔堂の前に立ち、えんはそっととびらの隙間から中をのぞいた。
正面壇上に閻魔王、黒鉄の鉄札を手に控える具生神、左右に赤青の獄卒鬼、壇荼幢の二つの首が目を光らせ、業の秤が揺れている。ろうそくの灯りを映して、浄玻璃の鏡がきらきらと輝いた。
閻魔王の前に、なにやら異形の者が額づいている。形はひとの様でもあるが、土気色の乾いた肌は、ひとのものではなかった。
「えん、遠慮はいらぬ。入れ。」
閻魔王が声をかける。
えんはとびらの隙間から、するりと中へ滑り込んだ。
時節柄閻魔堂に参拝する者もいつもよりは多いのか、堂内にはささやかながら供え物がされ、香華が手向けられている。異形の者は、物欲しげにそれらに目をやっていた。
――餓鬼か…。
えんはその異形の姿に思いあたる。それは、六道絵に見た餓鬼の姿であった。
「ここにお前の口に入る物はない、疾く去ね。」
獄卒鬼が威しつける。
それでも餓鬼はその場を動かない。物欲しげな、悲しげな顔が上を向き、えんと目が合った。
えんは小さく舌打ちをして、すばやく供え物の菓子を手に取ると、半分に割って餓鬼に投げた。餓鬼の手がすばやく動き、菓子を取る。そのまま身を翻すと、餓鬼はとびらの隙間から逃げるように出て行った。
獄卒鬼たちが振り上げた金棒を下ろす。
「盆会が近いと思うてか、近頃随分うろつき居る。どうせいくらも口にはできまいに。」
「口にしたところで、炎となって身を焼くばかり。」
獄卒鬼たちが苦々しげに言った。
「とはいえ、えんの寿命は幾らか延びましょう。餓鬼は施しの代償に命を払うと申しますゆえ。何者にも優しいのは善い事にございます。」
具生神がにこりと笑って言う。
「そんなんじゃないよ。」
えんはそっけなく云った。
「ただ、腹を減らしてるのが嫌なだけさ。自分でも、他人でもね――。」
えんはそう言って、半分の菓子を口に放り込んだ。菓子には香の匂いが染みていた。
「えん、頼まれてはくれぬか。」
えんが香臭い菓子を飲み下すのを待って、閻魔王が云った。
「今度の相手はなんだい?」
えんが、尋ねると、閻魔王は笑った。
「心配するな。今度はれっきとした人だ。少なくとも外身はな。」
――それごらん、やっぱりまともな人間じゃあないんじゃないか。
えんはそう云って閻魔王を軽く睨む。
「そうにらむな。えん、若西屋を知っているか。」
「――ああ、知ってるよ。」
えんは渋い顔でそう答えた。いつか見た嫌な光景が脳裏に浮かんだ。
幼い子どもを連れた物乞いが、大きなお店の門口で施しを請うている。よほど食い詰めているのか、子どもの手足は驚くほどに細い。母と見える物乞いの女も、頬はこけ胸にはあばらが浮いている。おそらくは飢饉の続く北の在から流れてきたのだろう。最近は時々こうした物乞いの姿が見受けられた。
大抵の大店では、こうした物乞いたちに、しぶしぶながらも何がしかのものを施してやるのが普通である。信用や評判で商売をする商家は、つまらぬ悪評がたつことをなにより恐れる。あの店の主人は無慈悲だなどと風評を立てられれば商売にも差し障りが出ようというものだから、大抵は物乞いにも寛容になり、中には儲けの内から何がしかの金を投じて、年に幾度か物乞いに施しをする商家もあった。
しかし、門口に立った親子に、店の小僧はあからさまに嫌な顔をした。
――でないよ。お行きったら。
追い払おうとする小僧に食い下がる女を、手代らしき男が乱暴に追いやる。突き飛ばされるように転んだ子どもが泣き声を上げた。
「なにをしてるんだい。」
咎めるような声がして、主人らしいおとこが店表に通りかかる。
一瞬、えんは店の主人が、無体なことをする手代や小僧を叱ったのかと思った。だがおとこは、汚いものでも見るような顔を物乞いの母子に向け、
「さっさと追い払っておしまい。」
そう、言い捨てて店の奥へ引っ込んだ。
その時のおとこの顔は、これまでえんが見た中でも一番の醜い人間の顔だった。
物乞いの女は、いまいましそうに追い立てる手代に恨めしげな目を向け、ぐずる子どもの手を引いてどこへともなく去った。えんはその様子をじっと見ていた。
――その時の店が若西屋さ。
ぽつりと、えんが苦々しい顔で云った。
ずいぶんと以前のことであるが、いまだに嫌悪感が鮮やかに甦る。それほどに嫌なものを見たと思った。
「その若西屋が、まもなく死ぬ。」
閻魔王がきっぱりと云う。
「そうかい。」
特に同情する気にもならなかったから、えんはそっけなくそう云った。
「あのおとこには、餓鬼が憑いておってな。」
「どういうことだい?」
「なにも含むところは無い。そのままの意味だ。」
そう云って、閻魔王は苦笑いした。
「えん、餓鬼というものを知っておろう。餓鬼には大きく三種がある。――具生神。」
はい、と具生神がかしこまる。
「餓鬼には無財、少財、多財の三種の餓鬼がおります。無財餓鬼とは餓鬼道に住まい、一口の食物、一滴の水さえ儘にならぬ餓鬼にて、財を何も持たぬことから一名無財餓鬼と申します。少財餓鬼はあるいは餓鬼道に、あるいは人道に住まい、ごく限られたものや不浄のものを僅かに口にすることを許された餓鬼。先程ここに来ていたのは、仏前に供されたものが腐り干からびた後、僅かにひとくち口にすることを許された少財餓鬼の一種にございます。多財餓鬼は主に人道に住まいし、富裕にして強欲な人間に憑く餓鬼にございます。餓鬼でありながら、並みの人間よりも遥かに贅沢な暮らしをし、欲しいものは何でも手に入れることができますが、けして満足することができぬ餓鬼にございます。」
ふうん。と、えんは肯いた。
「餓鬼のくせに、贅沢三昧のやつもいるんだねえ。」
うむ、と閻魔王が肯く。
「とはいえ、他の餓鬼がわずかな物を手にして、一瞬の満足を得られるのに対して、この餓鬼はどれほど贅沢をし、考えうる限りの物を手にしても、少しも満たされるということがない。ただただ命のある限り、求め続けるのだ。浅ましき餓鬼であろう。」
閻魔王の言葉に、えんはなにやら背中の辺りがうそ寒くなるのを感じた。
「若西屋にとり憑いているのはこの多財餓鬼にございます。多財餓鬼は、強欲にして慈悲心のない富裕な人間に取り付いて、その人間の望みを叶える代わりに、その寿命を縮めます。これはとり憑いた人間が死んだときに、餓鬼もまた生まれ変わる機会が与えられるためでございますが、そのためとり憑いた餓鬼は憑いた人間の欲望をかきたて、なるべく多くの望みを叶えて寿命を吸い取ろうといたします。」
「若西屋は本来寿命の尽きる歳ではなかったが、強欲が仇となり餓鬼に憑かれて寿命を縮めたのだ。自業自得の呆れた奴よ。」
閻魔王が苦々しい顔で言った。
なんとも嫌な話である。
「で、若西屋の主に死んだらすぐに此処へ来いって伝えるのかい?」
えんが問うと、閻魔王は肯いた。
「無理だよ。相手は餓鬼がとり憑いてるかなんだか知らないが、大店の主だよ。あたしらなんか相手にしちゃくれないさ。」
――なにも直接に会わずともよい。
閻魔王はそう云って、さらさらと何かをしたため、えんに渡した。
「これを、届けてはくれぬか。」
――さて、届けられるかどうか……。
えんはつぶやきながら、しぶしぶその書付を受け取った。
相変わらず暑い日が続いている。照りつける日差しをいまいましげに見上げて、えんは首筋の汗をぬぐった。明日は盆の十三日、町中には飾り物売りが忙しく売り声を上げている。
閻魔王の頼みで、えんはめったに足を運ぶことのない表通りの商家街に来ていた。目指すのは大店、若西屋である。町内で聞いてみると、主は評判の吝嗇強欲で、物乞いもよけて通ると言うはなしだった。
――いくら欲をかいたってそれで死んじまうんじゃ、元も子もないだろうに。
えんはそっとつぶやく。
若西屋の看板が少し先に見えていた。えんは結び文にした書付を手の中で確かめる。中身は呼出状であるらしかった。
――さて。
と、えんは考える。店表に投げ込んだところで、いたずらか嫌がらせと思われるだけであろう。下手をすればえんが袋叩きにされるのがおちである。主のところまでは届くまいと思った。
ともかく、店の裏へまわって見ると、なにか蠢いているものがえんの目に入った。
店裏の路地の奥、日も射さぬ薄暗がりの中に、それはいた。それは異形のものである。驚いたものの、見覚えのあるその姿にえんは声を掛けた。
「昨日の餓鬼だね。」
ごそごそと何かを漁っていた餓鬼は、えんが声をかけるとびくりと振り向いた。
餓鬼の目が驚いたようにえんを見る。
「化け物を見たような顔をしなくたっていいだろう。」
えんが顔をしかめて云うと、餓鬼は不思議そうな顔をえんに向けた。
「ああ、普通はあんたの姿は見えないのかい?」
――あたしは半分彼の世の人間だからねえ。
呟いて、えんはふと思いついて餓鬼に聞いてみる。
「あんた、この店の主を知ってるかい。あんたの仲間の餓鬼が憑いてるはずなんだが。」
餓鬼は、なにやら憐れむような目を若西屋の屋敷に向けて肯いた。
「知ってるのかい。じゃあ、これを届けてくれないか。主が必ず読むように、目に付くところへ置いてきてくれればいい。」
――頼まれてくれたら、まんじゅうをやろう。
そう云って笑いかけると、餓鬼は少しうれしそうな顔をして、結び文を受け取った。
餓鬼が、裏口から屋敷内へ入っていくのを見届けて、えんはまんじゅうを買いに表通りに出た。
三つばかりまんじゅうを買って裏路地へ戻ると、心細そうな顔つきで待っていた餓鬼が、うれしそうに寄って来た。
えんがまんじゅうを差し出すと、餓鬼はその内のひとつを取り、悪いことでもするようにそっと口へ持っていった。ひとくちふたくちかじったとたん、餓鬼の手の中のまんじゅうが燃え上がる。悲しそうな悲鳴を上げて、餓鬼は手の中のまんじゅうを投げ捨てた。
「いいよ。」
すまなそうに見上げる餓鬼にそう云って、えんは残りのまんじゅうをそっと置いた。
「すまなかったね、ありがとう。」
そう云って、えんは路地を出た。そっと振り返ってみると、餓鬼の姿は消えていた。
迎え盆の夜である。夕刻に門々で焚かれていた迎え火もあらかた消え、川向うの家々は薮入りで帰った家族が集まってにぎやかな夜を過している。
そんな明るくにぎやかな川向うとは裏腹に、橋のこちら側はしんとした闇に包まれている。やはり川のこちら側は彼の世なのだろう。亡者さえも今夜は川向こうへと帰って行ったのに違いない――。
そんなことを思いながら、えんは寂しく静まり返った闇の中を閻魔堂に向かっていた。近づくと闇の中にほんのりと、閻魔堂から漏れる灯りが浮かんでいる。
若西屋の主が、帰ってくる亡者とは反対に彼の世へ行ったという噂を耳にしたのは、夕刻のことだった。満月にわずかに足りぬ月を見上げて、えんはそっととびらの隙間から堂の中をのぞいた。
正面の高い壇の上には鮮やかな衣装を纏った閻魔王。
黒々とした鉄札を手にした具生神。
左右に赤と青の獄卒鬼達。
壇荼幢、業の秤、浄玻璃鏡――。
浄玻璃の鏡が堂内の灯りを映してきらりと光る。
えんは、そっととびらを開けた。
目の前に、おとこがひとり額づいていた。
おそらくは、若西屋の主なのだろう。恰幅のいいそのおとこは、絹物の経帷子を身にまとっている。
えんは何とはなしに嫌な気分になった。
「さて、具生神。」
閻魔王が声を掛ける。
は、と具生神がかしこまった。
「このおとこの一生の内の善行、悪行は、すべて記してあろうな。」
閻魔王が問う。
「細大漏らさず記してございます。」
具生神が答える。
「お待ちください。」
おとこが顔を上げた。大店の主人らしい鷹揚な雰囲気が無く、なんとなくぎらぎらした感じがするのは、その強欲ゆえであろうか。癇の強そうなおとこである。
「ここは、一体どこです。あなた方は一体? 私は店にいたはずですが、どうしてこのようなところに――。」
言葉はまだ丁寧だが、口調は明らかに不満げである。まだ、自分の置かれた状況が判っていないのだろう。
見かねてえんが口を開いた。
「呼出状を見なかったかい。」
「あんないたずらをしたのは、あんたかい?」
おとこの言葉には怒りが混じっていた。
「縁起でもないいたずらは止めておくれ。こんなところまで連れてきて、私をどうしようって云うんだい?身代金でも強請り取るつもりかい。」
「なに言ってるんだい? あたしはあんたなんか揶揄ってるほど暇じゃあないんだよ。」
えんは呆れて云った。
「じゃあ、なんだってあんないたずらを――」
「いたずらなんかじゃないさ。」
えんがそっけなく云った。
おとこが目を丸くする。
「まさか――。」
「その、まさかなんじゃないのかい。」
信じられない様子のおとこに、えんはあごをしゃくって見せる。
「呼出状に此処へ来いって書いてあったから、あんた此処へ来たんだろう? 此処をどこだと思ってるんだい。そこに居るのは閻魔王、あんたの善行悪行を残らず書き止めた鉄札を持ってるのが具生神、あんたに裁きが下されるのを待ち構えてるのは地獄の獄卒鬼じゃないか。」
おとこは居並ぶ面々を見回すとうつむき、黙ってぶるっと身を震わせた。
「そう云うことだ。おまえは死して閻魔の前に居るのだ。――神妙にするがよい。」
閻魔王はそう云っておとこをじろりと睨みつけた。
おとこは座り込んだまま、茫然と目の前の地面をみつめている。
「さて具生神。このおとこが一生の内に犯した悪行を、のこらず読み聞かせてやるがよい。」
おとこがびくりと肩を震わせた。
「承りましてございます。」
具生神がかしこまる。
「このおとこは大店の跡継ぎと生まれ、幼き頃から何不自由なく育ってきたにも関わらず満足を知らず、強欲にして物惜しみをし、さらに他に施すということを知らぬ愚か者にございます。生業である商売には汚く、安く買い叩いたものを高く売り、貪欲に儲けを上げておりながら、利を世に還元することなく死蔵し、わずかな銭物を乞うて門口に立つ物乞いさえも追い払うという有様。寺社には布施をして後生を願うこともせず、その強欲さゆえに餓鬼に付かれ、更なる欲望をかきたてられた揚句、寿命ここに尽き果てたことにも気がついてはおりますまいと思われます。辛うじて堕獄の種はなきと云えども、いずれ厳しき沙汰のあるべき身、どうぞ十分に罰していただきますようお願い申し上げます。」
うむ、と閻魔王が肯く。
おとこの顔がすうと青ざめた。
「このおとこに憑いて居った餓鬼はどうした。」
閻魔王の問いに、獄卒鬼達が一匹の餓鬼を引き据える。
それを見たおとこが、汚らわしそうにその小さな餓鬼を指して云った。
「この餓鬼が、私の寿命を奪った張本人でございますね。おのれの欲望を満たすために、赤の他人の私にとり憑くなど、なんと浅ましい――」
「だまれ!」
閻魔王の厳しい声が響いた。
「おのれの強欲を棚に上げて餓鬼に憑かれたせいにするか、この愚か者め! そも、この餓鬼といえども、足るを知らぬ強欲の権化のような人間にしかとり憑くことはできぬ。餓鬼に憑かれたは、おのれ自身が餓鬼同様に貪欲であったからであろう。なんとも浅ましきはおのれのことだ!」
呆気にとられて見上げるおとこの顔を、閻魔王はぎろりと睨みつけた。
「具生神、このおとこになにぞ善行はあるか。」
は、と具生神がかしこまる。
「善行と云えぬでもないものはありますなれど、どれもこれも欲得ずく。すべては見返りを期待しての行いにございますれば皆帳消し。特に申し上げるべきほどのことはございませぬ。」
閻魔王は、肯いて云った。
「そうか、ならば遠慮はいらぬ。おとこよ、聞くだに地獄送りにしても飽き足らぬところなれど、堕獄の種も辛うじて無いことなれば、その貪欲を戒め、餓鬼道行きを命ずる。おのれの強欲の虜となりて、他を顧みず、虚しゅう財を積んだその報いには、無財餓鬼となりて餓鬼道に住し、飢渇に苦しみ、禽獣、獄卒の呵責に怯えて暮らすがよい。」
――利を追うことのどこが悪い!
閻魔王の言い渡しに、おとこが叫ぶ。
「わたしは商人だ。商売の利を上げること、家内の倹約をすることを考えて何が悪い。無駄な金を使わぬことの、どこが悪いというのだ――」
――いいかげんにしな。
おとこの言葉をさえぎって、えんが言い捨てた。
「そんなだから、餓鬼なんぞに憑かれたんだろう。いい加減におしよ。」
おとこは驚いたようにえんを見た。
「利を上げるのも、倹約も結構さ。だけどあんた、その金を生かして使ったことがあるのかい? 物乞いにやるわずかな金さえけちって、それで何をしたのか云ってごらんよ。金蔵に積み上げといたって、あんなものはただのがらくたじゃあないか。それが――ほんとの無駄って言うのさ。」
おとこが、悔しげに項垂れる。
その姿はすでに一匹の餓鬼のようだった。
「獄卒鬼ども、この餓鬼を疾く餓鬼道へ連れてゆけ。」
はっ、と赤青の獄卒鬼がかしこまり、たちまちおとこを捕らえると、どこへともなく引いて行った。
「さて、もうひとつ裁きが残っておる。」
閻魔王はそう云って、ひっそりとうずくまる小さな影に目を向けた。
「あのおとこにとり憑いて、ずいぶんと贅沢な思いをしたことであろう。少しは満ち足りたか。」
閻魔王の前に進み出た小さな餓鬼は、悲しげに俯いてかぶりを振った。
「どうした、あれほど強欲なおとこに憑いて、勝手気侭な暮らしをしても、まだ足りぬと申すか。」
餓鬼は面目なさそうに項垂れる。
「さてどうしたものか。お前の寿命はまだ半分ほどは残っておる。餓鬼の寿命は五百年。あと二百年余りは餓鬼の境涯を続けねばならぬ。とはいえ、お前は多財餓鬼であるから、飢渇の苦しみはあるまい。今度はもっと強欲な者を探して、とり憑くがよかろう。」
閻魔王が突き放すように言うと、餓鬼は悲しげに涙を流し、首を横に振った。
「嫌だというか。多財餓鬼の身の上が嫌だというなら、お前もあのおとこ同様、無財餓鬼となして飢渇の苦しみを負わせるがよいか。具生神――。」
「はい。」
具生神が答える。
「この者に、餓鬼道の様を見せてやれ。」
は、と具生神がかしこまると同時に、浄玻璃の鏡の面が揺れた。
鏡の面にたちまち映し出されたのは、、見渡す限りの荒野である。その乾ききった地に、餓鬼達がうごめいていた。禽獣に襲われうずくまる餓鬼。獄卒の杖に打ち据えられ、悲鳴を上げて許しを請う餓鬼。咽喉を潤そうとすれば清涼の水は猛火と変わり、わずかに口にした食物は獄卒の手によって吐き出させられる。飢渇の苦しみにもだえ、泣き叫ぶ有様は、なんとも無残であった。
えんは思わず目を背けたが、餓鬼は、鏡に映る光景をじっと見つめていた。
「どうだ、これでも今の身の上には耐えられぬと申すか。」
閻魔王が問うと、餓鬼は逡巡し、肯いた。
「一度この世界に入れば、寿命の尽きるまで出ることは叶わぬ。覚悟はできておろうな。」
餓鬼は、悲壮な顔で肯いた。
「よかろう、獄卒鬼ども。」
呼ばれて、赤青の獄卒鬼が姿を現す。
「この餓鬼を、餓鬼道へと引いてゆけ。」
はっ、と答えて獄卒鬼達が餓鬼を捕らえる。小さかった餓鬼は、今は人並みの大きさに変わり、怯えとも、安堵ともつかぬ顔つきで引かれて行った。
「なぜ、あの餓鬼はわざわざあんなとこへ行きたがったんだろうねえ。このまま人の世にいれば、贅沢三昧の暮らしができたんだろうに。」
獄卒鬼達が餓鬼を引いてゆき、閻魔王と具生神、そしてえんだけが残った閻魔堂で、えんはぽつりとそう云った。
「得ても得ても満ちたりぬ苦に、耐えられなくなったのでございましょう。」
具生神が言う。
「求めて得られぬ苦と、得て満足できぬ苦は、どちらが辛いと云えるものではありませぬ。あの餓鬼は、求め続けることの虚しさを知ったのでありましょう。」
「求め続けるのが苦しいからって、餓鬼道へ逃げたところで、結局は同じじゃあないか――。」
えんは、悲しげな目で吐き捨てるように言った。
「それでも、求め続けることの虚しさ、愚かさを知っただけでも無駄とは言えまい。世の中なぞというものは、そうしてわずかずつ知るしかないものよ。それを、哀れと思うか、えん。」
閻魔王の問いに、えんは答えなかった。
あの夜から、数日が過ぎた。
盆会もそろそろ送り盆という日である。
えんは、若西屋の菩提寺に来ていた。これまでにろくろく布施もしたことがないとの評判ではあるが、見栄もあってか家内の者が主の追善にと施餓鬼会を修している。
いまさら何をと思わぬでもなかったが、えんはそっと法会を見ていた。余人には見えぬのであろうが、早くも数匹の餓鬼が施米に預かろうと集まって来ている。
中には若西屋の主その人もあるのかも知れない。いけすかないおとこではあったが、餓鬼道で飢渇の苦しみに喘いでいるかと思えば、哀れであった。
相変わらず強い日差しが照りつける暑い日である。木陰を見つけて涼んでいると、見覚えのある影が姿を現した。
「あんたも来てたのかい。」
それは、いつか閻魔堂でみた餓鬼であった。
「この間は助かったよ。施しには預かれたのかい。」
餓鬼はかぶりを振った。
「なんだい、もらえなかったのかい。」
気の毒そうに云ったえんの前に、餓鬼はなにかをそっと差し出した。
「なんだい? なんだ、この間のまんじゅうじゃないか。まだ持ってたのかい? さっさと食べちまいな。」
笑うえんを見上げ、施餓鬼会の法要が行われている方に向かって、餓鬼はそっとえんの袖を引いた。
「どうしたんだよ、施米が欲しいなら行っておいで。」
えんが言うと、餓鬼は黙って二つのまんじゅうを差し出した。
「――まさか、あんたこれを他の餓鬼に呉れてやろうってのかい?」
餓鬼が、恥ずかしげに肯いた。
えんは呆気にとられて、餓鬼を見つめる。
「――分かったよ、待っておいで。」
法要はすでにあらかた終わり、餓鬼達への施物が載せられた台のまわりには、たくさんの餓鬼と物乞い達が集まっている。供養の済んだ施物は、実際には物乞い達に施されるのだ。
「ちょっとごめんよ。」
えんはそっと台の上にまんじゅうを載せる。
「ちょっと古くなってるかもしれないけどね。とびっきりの貧者の施しさ。功徳があるかもしれないからね、よかったら取っておくれ。」
そう云って、えんはその場を離れた。餓鬼がうれしそうにえんに頭を下げる。えんは笑って首を振った。振り返ってみると、誰が持ち去ったか小さなまんじゅうはなくなっていた。
――そんなことがあったのさ。
送り火の煙が立ち昇る夜、えんは閻魔堂に居た。
今日は、閻魔堂に灯りはない。暗闇に沈んだ堂内にはうっすらと埃を被った木彫りの像が安置されている。
鮮やかに彩られた閻魔王。黒々とした鉄札を掲げる具生神。赤青の獄卒鬼達。業の秤、壇荼幢、浄玻璃の鏡。
大して上手い出来とは云えないそれらの像に向かって、えんはなんとなく満たされた気持ちで昼に会った餓鬼の話をした。
「あの餓鬼は、そのうち生まれ変わるんだろうか。」
呟いて、とびらの隙間からのぞく月を眺める。中途半端な半月が、覗いている。
人も、餓鬼も、様々いるが、世は押しなべてそう悪いものではない。そう思った。
のっぺりとした木造りの浄玻璃の鏡が、月の光に白々と照らされている。それを目の端にとめて、えんはそっと閻魔堂を出る。盆会も終わり、外にはわずかに涼しい風が吹き始めていた。気の早い虫がひとつふたつ鳴いている。
とびらを閉めたえんの背後で、月の光を受けた浄玻璃の鏡がきらりと光っていたような、そんな気がした――。