第一話 「ダメ男、離陸する」
約12時間のフライトだ。飛行機に乗ったら寝ればいい。そんな考えはあまりにも浅はかだった。これは興奮ではない。紛れもない、ただの緊張だ。
大木武志に見送られた後、飛行機の座席に無事座る事の出来た平良は、少しずつ、少しずつ、自分を取り巻く環境が想像とは違う事に気付いてきた。周りを見渡すと、日本人の姿は見当たらない。少なくとも、エコノミーのこのシートからは確認が出来ない。それだけならまだよかった。
何よりも不安にさせたのは、搭乗員と思わしき女性達の顔があまりにも濃い事だ。たまたま濃い顔の女性が揃ったというのだろうか。いや、そんなはずはない。この人達はきっと、アメリカ人だ。日本人ではない。きっと、日本人はいないのだ。
約24時間、まともな睡眠が取れていない平良一徳ではあったが、またもや覚醒が始まった。酒を飲んでいるにも関わらずだ。当然、こんな状況の中では酒の酔いなど、微塵も感じる事はないのだが。
あまりにも挙動不審な自分の動きが目立ってしまい、なんなら殺されてしまうのではないかという、普通の人が聞いたら冗談としか思えないであろう恐怖に怯えていた。
そんな中、救世主と思われる人物が視界に飛び込んできた。何故、救世主と思ったのか。それは、同じ系統の顔。つまり、アジア人と思わしき顔立ちをした、搭乗員の方が1名いらっしゃるではないか。平良は願った。彼女が日本人である事を。
40代を過ぎたくらいの年齢だろうか、化粧は派手で、そして髪の毛の色も、日本の企業では不採用間違いなし。唯一、顔立ちだけが頼りだ。
足早に動き回る彼女との会話を成立させる為には、恐らく一瞬の判断の遅れが致命的となるだろう。そんな彼女が自分に近づいて来るのを、平良はじっと待ち構えた。
こんな状況下において、非常に助かった事がたった1つだけある。平良一徳という男は、知らない人に話を掛ける事に対して、何の躊躇いも感じない男なのだ。
そして、まもなく決戦の瞬間は訪れた。「はーい!あ、お姉さん!お姉さんは日本の方ですか??」彼女は足を止め、こちらの顔を覗き込んだ。成功だ。ひとまず、成功だ。
「いえ、日系のアメリカ人です。でも日本語は問題なく話せます」そう冷たく話し終えると、彼女はニコッと微笑み、そして足早に立ち去っていった。
なるほど、“おもてなし”の精神というのは、日本の文化を象徴とする特有なものなのか。きっと、彼女はアメリカの文化で育ったのだろう。それが良いとか悪いとかではなく、平良が想像していた“アジア人顔”の人がする対応ではなかったのだ。温かみの欠片も感じない。めちゃくちゃ怖かった。
しかし、日本語が話せる人がいたという、ただそれだけの事で、今の平良を安心させるには十分だった。そしてまもなく、離陸の準備が整ったのであろう。搭乗員である女性のアナウンスが始まり、それが終わると、今度は恐らく機長であろう男性のアナウンスが始まった。
アナウンスは英語なので、喋っている内容こそ解らないが、それでも、とてもワクワクする。その感覚は、アミューズメントパークのアトラクションに乗る時の“あの”感覚とよく似ていた。
そして機体は動き出し、徐々に加速を増していく。最高速に差し掛かったのだろう、平良の身体に今日一番の重力がのし掛かる。
離陸は無事に成功した。離陸した直後の“ふわっと”した不思議な感覚が平良はお気に入りだ。あまりにも月並みな表現になってしまうが、「浮いた!」と、平良はいつも感動してしまうのだ。
それにしても、いよいよ待ちに待ったロサンゼルス行きの旅が始まったのである。平良は改めて、ここ1ヶ月で起こった出来事を振り返った。よくやったもんだなーと、想いに浸っていると、ようやく場の空気に馴れてきたのか、平良はある1つの好奇心を抱き始めた。
搭乗員に水を頼む時、ウォーターと言っても通じない。ウァーラーと言ってみよう。と、昨日買った小冊子に書いてあったのだ。平良は、搭乗員が近づいてくるのを待ち望んだ。待っている時というのは、どうしても「まだかまだか」とソワソワしてしまう。
そして、まもなく決戦の瞬間は訪れる。「ハーイ!イクスキューズミー!」アハン、と、搭乗員は足を止めた。順調だ。「えー、ドリンク、あー、プリーズ!」さぁ、いけ、今だ、解き放て!「ウァーラー!!!」……あれ?何故だ。何故なのだ。解らない。ただ1つ、解ることがある。どうやら俺は“やって”しまったらしい。何故かってそれは、搭乗員は不思議そうな顔をして、まさかの「ウァーラー?」とおうむ返しをして来たのだから。
そうか、そうなのか。『ウァーラー』は通じない。それを理解した平良は、唸りながら辺りを見回した。何かしら手がかりがないものかと探しているのだ。あった。隣に座っているアメリカ人男性と思わしき人の、ドリンクフォルダーに水のペットボトルが置いてある。
咄嗟の判断で、あえて少し離した距離から“それ”を指で差し、もう一度言ってみせた。「ウァーラー!!!」搭乗員はニコッとしながら「OK」と言い、そして水を渡してくれた。「センキュー」とお礼を言うと、隣の席の男性は、小声ながらも遠慮無しに笑っている。そして目があった。平良は彼にも「センキュー」と伝えた。
すると、彼は口を閉じたまま、左右の口角をグッと持ち上げ、一瞬、目線だけを上げるという、おどけた表情を見せてくれた。50代くらいだろうか。平良は「ナイスミドル」と心で呟き、そして彼の表情を真似た。
なんて言っているかは解らないが、少し笑いながら一言二言彼は呟いた。そして、何故か平良はもう一度「センキュー」と一言。それをきっかけに、お互いが個人の時間に戻った。
それにしても惨敗だ。ウァーラーは通じない。
平良一徳の波瀾万丈飛行機の旅は、まだまだ序盤なのだ。