第115話 閑話9『memory of "Y"』
視覚もなく、聴覚もない。無音で暗闇の世界。それが今の彼には世界の全てだった。
ただ機械に繋がれて命を永らえながらベッドに横たわる彼にとって、そこが天国なのか地獄なのか、もはやそれすらも判別できない。
九十二年という人生。様々なジレンマに苛まれた生涯だったが、幸と不幸の差し引きがプラスのまま、もう間も無く彼の人生は幕引きを迎えようとしていた。
『終末期医療棟』
面会時間もとうに過ぎた深夜、扉に掲げられた『近親者以外の面会は謝絶します』の札も全く気に留めず、一人の初老の女性が彼の元を訪問する。
彼のベッドの傍に立つと優しく微笑み、そして彼を見つめてそっと呟く。
「…貴方には茨の道を歩かせる事になってしまいましたわね」
そう言って彼の額にかかる髪をそっと優しく避ける。
「私を恨んでらっしゃいますか?」
もはや『生ける屍』と化してしまった彼の身体は、その女性の声も空気の振動という物理現象としてその身に吸収するのみだった。
「貴方の反対、貴方の叱咤、貴方の意見、貴方の指導。全てが今の私に到達するための糧でした。感謝しております」
そういうと女性は懐から綿棒と密閉容器を取り出す。
「また私をお叱り下さいね」
女性は彼の口の酸素吸入器を少しずらすと、綿棒で彼の口の粘膜を採取する。
そして初老の女性には似つかわしくもない妖艶な微笑みを浮かべると
「"来世"でまた会いましょう、教授」
その言葉だけを残し、女性はその場を立ち去っていった。
今際の際の吉井教授と静です。
静が研究内容を発表した事により、共同研究者であった吉井教授もそのとばっちりを受け、メディアに好奇の目で見られたり酔狂な大金持ちにその研究内容を狙われたりなど、平穏とは程遠い人生を歩む事になってしまいました。
ですが教授本人は案外その状況も楽しんでいた様です。彼はこう言ってました。
『探究の道を歩む者にとって『平穏』とは身体を蝕む毒なんだよ』
時間とか状況にある程度の縛りや括りがないと前に進めなかったりしますよね、人って。