星の生まれる話
霜月 透子様『ピュアキュン企画』参加作品です。
もうすっかりと
陽の光が届くことを諦めてしまうような深い海の底に、
呪われた群青の鱗を纏った人魚がひとりいました。
長い黒髪のおんなの人魚の名は、ナサリというのでした。
ナサリは、辛い想いを忘れたいと、叶わない想いから逃げ出したいと、
暗い海の底でひとりで、胸の内を吐き出しているのでした。
身を捩り目をきつく瞑って、声を殺して泣くのでした。
――どうぞ、この想いよ届かないで。
深く、この暗い海の底へ沈め。
どこまでも深く、深く――
人魚の涙は海の水に混ざらないのです。
海の中を夜光虫のように漂って、
やがて光を無くしてゆっくりと沈んでいくのでした。
そうして暗闇の中で泣き過ごして夜になりますと、
ナサリは、ふらふらと寝床に戻り眠りにつくのでした。
そして朝、目が覚めるとナサリは思うのです。
――昨日は何を悲しんでいたのだろう。
すっかりと忘れてしまった。
(呪われているのです。これは忘却の呪いなのです。)
ナサリに、また悲しみの一日が訪れます。
夜になり、忘却の朝が来て、
また泣き疲れて夜が来て、朝が来て……
ある日、ナサリは泣き疲れて、
海の底に、両手と、髪の毛の先と、尾びれを着けました。
海の底には、さらさらした綺麗な砂が積もっていましたから、
柔らかく静かに砂煙が舞いました。
砂煙がおさまると、ナサリは瓶が埋まっているのを見つけました。
それが少しだけ砂の上に出ているのでした。
ナサリはまだ、表情を無くしたままでしたが、
その瓶を手に取りました。
(これはボトルメールなのですが、ナサリはそれを知りません。)
ナサリは、少し微笑んだようでした。
そしてそれをそっと埋め直しました。
翌朝、目を覚ましたナサリが海藻の褥で寝返りを打ちましたら、
隅に何か固いものがありました。
手に取ると、何かの瓶でした。
ナサリは覚えていませんが、
これは昨日、海の底で見つけたあの瓶だったのです。
この瓶は、ナサリがそっと元の場所に埋め直したはずでした。
どうしてここにあるのでしょうか。
時折海の底までやってくる、
お節介な黒潮の袖に引っかかって運ばれてきたでしょうか。
それとも、悪戯な歯鯨の子どもが咥えてきたのでしょうか。
ナサリは、しばらく眺めていましたが、
やがて、何かを決めたような顔をしました。
それから、そのコルクの栓を「きゅっ」と開けたのでした。
入っていたのは古ぼけた紙でした。
広げてみれば、何やら書いてありました。
ナサリはじっと眺めていました。
何やら懐かしいような気がするのでした。
(ナサリには字が読めませんから、
わたしが代わりに読むことにしましょう。)
*ボトルメールに書かれていた詩のようなもの*
あなたへ
もしも届くなら
思い出して欲しいのです
喜びに満ちていた星空の広がりを
悲しみなど知らなかった夕暮れの華やかさを
知らない夜に
銀の光が流れます
あなたは それを髪に留めて静かです
わたしは背伸びして 星の果実をひとつ
夜の枝から もぎ取りましょう
おひとつ どうぞ 冷たいうちに
ふたりで 半分こしましょう
そうしましょうか ありがとう
これを食べ終わったら
わたしとあなたは
ずっと ずっと ひとつです
ずっと 何時までも
たったひとつの消えない星になって
あの夕暮れに灯りましょう
朝の光を迎えたら
夜明けの三日月に
まだ ふたりだったころの思い出を語りましょう
ふたつに引き裂かれてしまった魂の
寒くて寂しい宵闇の別れのお話を語りましょう
夕星の君よ
薄葡萄色の暮色に輝く君よ
あなたへと交わした
幾筋もの流れ星の手紙たちを思い出しています
わたしが明ける空で書いた手紙を
あなたは暮れる空で読んでくれました
あなたが暮れる空で書いてくれた手紙を
わたしは明ける空で読みました
あなたの言葉で わたしの朝が始まり
わたしの言葉で あなたの夜が始まりました
あなたとの出会いは許されないものでしたか
わたしがあまりに急ぎ過ぎたのでしょうか
それともあなたが美しすぎたのでしょうか
突然、怒りに満ちた巨星が近づき
わたしたちを滅ぼしてしまいました
あなたは海へ落ちて
半人半魚の姿になってしまいました
わたしは姿も名前も無くしてしまって、
言葉だけが残りました
あなたは海の底へ沈み
わたしは風に漂う儚いものになりました
この恐ろしきアンタレスの呪いは
終わらないのでしょうか
わたしはもう消えてしまいそうなのです
明るすぎる太陽にもう耐えられないのです
最後に一目だけでも
あなたに会いたいのです
どこにいるのでしょうか
あなたへの最後の手紙として
この詩を海に沈めます
ナサリ あなたへ 届くように
*
ナサリがそれを眺めていますと、不思議に体の奥底から
力が湧いてくるのでした。
――なんだろう。そうだ。ここじゃないのだわ。
わたしのいるところは、もっと、もっと!
ナサリは、海の上を睨みました。そうして、
力の限り水底を打って、
上へ上へと、
光の方へと泳ぎ出したのでした。
ナサリは、水面に向かってぐんぐん昇っていきます。
何故だかとても嬉しくなってきました。
懐かしいところへ近づいているようです。
ナサリの体が光り出しました。
ざぶり。
水面へ顔を出すと満天の星空です。
――あなた!どこにいるの!
ナサリは叫びながら、海から飛び上がりました。
そのまま宙に浮かび、丸く光る星となっていきます。
ナサリは、ゆっくりと夜空へ昇りながら叫びます。
――タサリ!どこにいるの!
ナサリが呼んだ名前こそ、
呪いにより失われた夜明けの星、タサリの名前でした。
――ここにいるよ。
懐かしい声がしました。海を渡る風に乗って、
タサリの言葉が答えたのでした。
優しく仄かに光りながら、夕星は昇っていきます。
その周りを回るように、小さな星が昇っていきます。
夜明けの星は、次第に輝きを増していきます。
今、東の海が金色に光りました。
新しい夜明けの陽が、広がろうとしています。
呪いはすっかりと解けたのです。
二つの星は、くるくると絡み合いながら
遥かな星空で一つになっていきます。
星空が騒めいています。星々が噂話をしているのです。
ひとつの星が生まれようとしています。
*
夜明けには、東の空を見て下さい。
かつてタサリだった「明けの明星」が輝いています。
夕暮れには、西の空を見てください。
かつてナサリだった「宵の明星」が輝いています。
今は一つになって、どちらも「金星」と呼ばれる美しい星になっているのです。