第一章 ロストマン―上
眼を覚ました俺の視界に入ってきたのは、圧倒的な白色だった。
いや、違う。天井が真っ白なのだ。知らない天井だ。寝そべったまま他の場所に目を向けてみると、四方の壁も、寝ていたベッドも、真っ白だった。何故かなにも身に纏っていなかったのが不快だった。ベッドが妙に湿っていたのも。
(汗っかきなのか、俺。………ん?)
そこで、一つの疑問が浮かんできた。
ぺたりぺたりと、両手で自分の顔に触れる。眼と耳と鼻の穴が二つあり口が一つある、普通の顔。
そのまま、頭部や身体も触って調べてみるが、オスの人類としておかしな点は皆無である。
しかし、俺の疑問は消えなかった。
(誰だ、この男は……?)
俺は、今自分が触った人間に関する記憶を何一つ所持していなかった。
そして、今自分が触った人間とは、『俺』のことだ。
どうやら俺は、記憶喪失らしい。
それが、俺が初めて手に入れた『俺』についての記憶だった。
「……………ッ⁉」
吐き気を感じて、口を抑える。もっとも、何も胃の中に入ってない可能性も、記憶が無い以上否定できないので、無意味な行為かもしれない。
それでも、その吐き気を放っておくことはできなかった。
地球が俺を振り落とそうとしているかのような錯覚を覚える。そんな怖気に一人耐えていると、
白い壁の一部が開いた。
いや、よく見ると壁の一部にノブが付いている。どうやらそこは、ドアであるらしい。
「おや、本当に起きてたんだね」
そして、そんな台詞と共に、一人の人間が入室してきた。
見た目は、これまたとにかく白い。着ている白衣も、肌の色も、履いている靴も、手に持った布束も、紈素のように白い。この部屋の一部を削って作りましたと言われても信じてしまいそうだ。
そんな白色の中で、驚くほど暗くて昏くて冥い色のボサボサの髪(ボサボサすぎて両眼にかかっている)と首から垂らした名札に書かれた『田喜野井』の字が、ぼんやりと浮かんでいた。
歳は、二十代後半といったところだろうか?性別はわからない。見た目も声も、かなり中性的なのだ。
スッ、と掛け布団を自分の方へ引き寄せる。
入ってきた人物が、男性か女性かはわからないが、いずれにせよ全裸を見られたくはない。
細身の雪だるまのような眼前の人物は、俺のその行為に対し、下卑た目線をおくってきた。
「君が私に対して照れるのは構わないよ、君から見れば私は異性だしね?でも、君の身体なんて、手術の時に穴があくほど見たから、今さらだと思うけどね?」
そんなことをのたまいながら、彼女はベッドに座った。
そうか、女性に全裸を見られたのか………。
いや、そんなことより。
「手術?」
「そ、手術。神話戦線の兵になるための、ね」
「し、神話戦線?」
「え?このご時勢、知らないってことは無いと思うんだけどね」
「いや、知らないですね。なんか、記憶もないですし」
「……え?」
田喜野井さんの眼が点になる。いや、見えてないけど。
「……そうか、なるほどね。そういうのもあるのね…………」
かと思えば、なにやらブツブツと呟きだした。俺、超おいてけぼりである。
「よし、そうだね。とりあえず、これに着替えながら待っててくれると嬉しいんだけどね?」
そう言って彼女は、手に持った布束をこちらに渡してきた。
「私は、呼んでこなきゃいけない人が何人かいるからね」
言うやいなや、止める間もなく部屋から出て行った。残された俺は、仕方なく渡されたものをベッドの上で広げる。
なるほど、着替えながらの言葉通り、布束は服だった。右胸に星型が、左胸には、縦棒四本横棒五本のマークがついている。なんなのだろう、これは。
まあ、そのあたりは後で聞くとして、田喜野井さんが人を呼んでくると言った以上、俺も着替えねばまずい。
まずいのだが。
「うお、………くっ、この……⁉」
まず、下を履こうとしてベッドから落ちた。座りながら着替えようとしたのが悪かったのだろうと、今度は立って更衣を試みるが、どうもうまくいかない。
というか、立つので精一杯だ。どれだけ寝ていたんだ俺は。立ちかた服の着かたも記憶喪失か。
なんて、着衣に悪戦苦闘していると、
「やっほー!ようやく起きたんだね、おはようおはよう‼」
そんな声とともに、一人の人間が、ニコニコと笑いながら入室してきた。
少女である。
小柄というより、矮躯と言ってもよいであろうサイズ感をしている。俺の年齢がわからないので確かなことは言えないが、おそらくかなり歳下だろう。小学生か?髪は、ボブというのだろうか、肩のあたりまで赤みがかった黒色の髪が伸びている。着ている服が、今俺が着ようとしているものと同じものだ。制服かなんかなのか?小首を傾げてこちらを見つめている。
その顔を見て気づいたが、少女ではなかった。美少女だった。
時間が止まるような思いだった。
なにせ、未だに俺は着替えをすませておらず、なんというかかなり全裸よりの半裸である。おそらく、俺の身体の肌色は、余すところなく目の前の彼女の視界に入ったであろう。
しかし、予想した絶叫は発声せず、予感した衝撃も発生しなかった。おいおい、ラブコメじゃないのかこれは。
不思議に思いながら彼女のことを見つめ返し、気づいた。
「眼が……?」
「あ、うん。そうそう。わたし、全盲なんだよね」
まるで、苦手科目は物理だ、みたいなテンションで驚きの事実を伝えられた。
しかし、見えていないのであれば重畳だ。着替えを進めることができる。もっとも、見えて無いとはいえ少し恥ずかしいが。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。わたし、佐倉紗玖羅。よろしくね!」
こちらに来ながらそう告げる、にこりと笑った彼女の顔は、まったく太陽のようで、目覚めたての俺には少し眩しかった。
……というか、近い。近いよ。近過ぎて着替えられない。
一旦離れようと数歩下がった俺は、ベッドの脚に躓きよろめく。そして、佐倉さんを巻き込んでベッドに倒れこんだ。
「…………え?」
そんな微かな呟きが、小さく耳元に聞こえた。
「え?あれ、な、なに、どうなってるの⁉」
彼女が動転した様子で叫ぶ。
どうなってるかといえば、半裸の俺が佐倉さんに押し倒されている。彼女の可愛らしい顔が、物凄く近くにある。
そして――ここが一番の問題なのだが――俺の右手は、彼女の非常に、あるいは非情に薄く慎ましやかな胸に触れている。
……さて。
薄い胸のことを、まな板と喩えたりする。
しかし、俺はその意見に対し、全力をもって異議を唱えなければならない。
何故なら、確実に胸の薄い、否、無い部類に入るはずの彼女の胸にも、おおよそ板とは思えない確かな柔らかみが存在したからだ。
それが、胸としての脂の柔らかさに去来するものなのか、人としての肉の柔らかさに由来するものなのかはわからない。しかし確かに、胸という部位に対し人類全てが想起するであろう柔らかさ温かさが、そこにあった。
記憶の無い俺にもわかる確かな存在感が、そこに在った。
いや、バカな思考を繰り広げている場合じゃない。
俺の顔のすぐ上で、佐倉さんの頬に赤みが増していく。
ガチャリ。
そんな、まるでドアノブを捻ったような、無慈悲な音がした。
「いやぁ、ごめんね?二人を探すのに手間取っちゃってね」
場違いなくらいに呑気な声とともに、田喜野井さんと知らない女性二人が入室してきた。
途端に、彼女らの眼が見開かれた。
やはり、ラブコメのセオリーというのは避けては通れないらしい。
それでは皆さんご唱和ください。
せーのっ。
『きゃああああああああああああああ⁉⁉』