3.イーリアス聖霊学院
ロートフィアス聖国──通称“聖霊の棲まう国”。聖霊王アルシオンⅠ世が、自身の契約聖霊たちと共に築き上げた人口五百万足らずの小国。東方にリーフォリア王国、西方にルギアス帝国と二大大国に挟まれたこの国には、ある特別な学院が存在する。
“イーリアス聖霊学院”。
聖霊と契約を交わした少年少女たち──聖霊士を指導、育成していくための教育機関である。城壁の内側には美麗な庭園を抱き、荘厳かつ豪奢な校舎が立ち並ぶさまは、さながら貴族たちの住まう宮殿のよう。というより、実際に各国の貴族の嫡子たちが在学しているのだから、この装いもうなずける。
「……それで、俺はいつまでお前を肩に乗せていればいいんだ?」
そんな場所を、貴族の生まれでも何でもない自分が、肩に銀髪の少女という奇怪な格好で今は濃赤色の絨毯が敷かれた校舎の三階廊下を歩いている。現実を見て、アルスはすでに辟易していた。もうため息すら出ない。
「……学院長に会うまで」
銀の長髪を揺らし、紫紺の瞳をたたえた少女は、そんなことには気にもとめず相変わらず抑揚のない声で告げる。ちなみに、森での戦闘で負った負傷は、道中に少女が治癒霊術を“無理矢理”施そうとしたため、一悶着あったのは言うまでもない。
「学院長? 思ったんだが、何故俺の身を騎士団に引き渡さない。聖霊を殺したとなれば、それなりの──」
「だから、聖霊は死なない。ただ還るだけ。しかも大した問題じゃないし、むしろありがたい。それに、わたしはアルを気に入った。手放すなんて馬鹿の極み」
アルスの言葉を遮り、そんなことを豪語する少女。不可解に思いつつ、アルスは外套のポケットに突っ込んだ左腕の〈呪刻〉のことを考える。
(ここはある意味敵地だ。色々と、隠し通さないとな……)
と、そこでアルスは足を止めた。目の前に重厚な木製の扉。学院長の執務室だ。
「ここか?」
「そう」
こくんと頷いた少女は、アルスの肩から降りると圧迫感さえ感じる扉を三回軽く叩いた。乾いた音が、静寂に包まれた廊下全体に響き渡る。
「──誰かしら?」
わずかな間のあと、扉越しに伝わってくる女性の声。
「エレン、わたし」
「あら、帰ってきたのね。どうぞ、入って」
少女は扉に手をかける前に、アルスの外套の裾をつまむ。
「何だ?」
アルスを見上げる少女の瞳には、言葉にせずとも、逃がさないという意思表示がしっかりと映っていた。
「……もし俺が、このお前の手を振り払って逃亡を図ったら?」
「地の果てまで追いかけて殺す」
間髪入れずの即答。分かりきっていただけに、アルスは嘆息するしかない。
「……邪魔する」
少女がそう言って扉を開けた瞬間、かすかな香水の香りが鼻先を掠めた。廊下との温度差が顕著に感じられ、室内は優雅な空気を漂わせている。室内の両脇に設置された凝った装飾のほどこされた木製の棚。その下半分は引き出しになっており、上半分が二段づくりの書棚で、そこに数え切れぬほどの書物が隙間なく整然と並べられている。どっしりとした重厚な木製の机と、まるで柔らかな陽射しのような温もりを感じさせる煌びやかなシャンデリア。仕事部屋としては豪華な洋装だが、彼女の前では少々霞んで見えてしまう。そしてその室内の最奥。腕組みをして、窓際に佇んでいる一人の女性の姿をアルスは見る。
「お帰りなさい。急にここを飛び出していったけど、どうかしたの? それに、隣にいる男の子は? かっこいい顔してるけど、服がボロボロじゃない。やっぱり何かあったみたいね」
女性は少女のほうへ振り返ると、炯々とした眼差しを向けてきた。ゆるやかに波打つ紅蓮の髪。妖艶な大人の色気を含みながらも、大理石の彫像めいたその美貌は、穏やかな口調とは裏腹に凄みさえ感じさせる。抜群のプロポーション。豊満な肉体の起伏は、格式張った教員用制服でも隠しきれぬほど。
「少し森に出掛けてきた。ちなみに、これは森で捕まえた侵入者」
少女は自身が履く厚底の長靴で、アルスの脚を蹴り上げた。そんなに痛くはない。しかしそんなことよりも、アルスは驚愕のあまり、自身の眼前にいるエレンと呼ばれた女性から目を離せずにいた。
(……間違いない。確かこの女の名前は、エレン・アリファール。大陸で一、二を争う、王城直属の聖霊騎士団〈カーディナル〉の元団長。一年程前に突然退役したと聞いていたが、まさかここの学院長になっているとは)
彼女の武勇は、大陸ではあまりにも有名だ。ひとたび戦場を駆ければ、一騎当千の勢いだったという彼女。もちろん他の騎士たちの練度も非常に高く、その純粋な強さと技量は立てた数多くの|武勲(武勲)が証明している。と、どこかで聞いた話をアルスは思い返した。この国で行動するにあたって要注意すべき人間を挙げるなら、真っ先に彼女の名前が挙がるだろう。アルスの所属している組織でさえ一目置いている存在であり、そんな人間と早速相見えたのだ。驚愕するのも当然だろう。直接的な干渉をするのは、決して都合のいいものではない。
「侵入者……。ああ、もしかして君のことだったのかしら」
エレンは一人納得がいったような顔をする。その言葉に、アルスは疑問を抱いた。
「どういうことだ。俺が森に入ることを知ってでもいたのか?」
「んーと、私じゃなくて君の隣にいる子が、なんだけどね」
ピッ、と銀髪の少女を指さすエレン。言われて見るが、そんなことはおくびにも出していない感じで無表情だ。
「別に、ちょっとした違和感を気取っただけ。実際に行ってみたら、この侵入者がいた。ちなみにエレン。こいつ、竜を殺した。しかも霊術を使わずに体術だけで」
何の遠慮もなく、今度は少女がアルスのことを指さしながら告げる。ただ、そのことに関してはあまり問題視していない雰囲気をアルスは感じ取った。大した問題ではなく、むしろ有難い──先の少女の言葉が蘇る。
「竜を殺したって、森にいた竜のことよね? へえ、君強いのね。体術だけで竜と渡り合えるなんて、本当なら凄いことよ」
と、アルスに興味を持ったのか、まじまじと見つめてくるエレン。
「……何だ」
「んー、とね。少し気になったんだけど、君から霊力の波長が感じられないのよ。完全に霊力を隠しているのか、それともただ単に、元々霊力自体ないのか。前者は難しいけど、熟練の者なら出来ないことはない。後者は、難しいというよりかなり珍しい、ね。君は一体、どっちなのかしら?」
「…………」
それはエレンにとってみれば、純粋な質問だったのかもしれない。しかし、答えるわけにはいかないとアルスは口をつぐむ。自身を見つめてくる、引き込まれそうな美しい紅玉の瞳。胸中の深層まで見透かされている、そんな錯覚に陥る。誤魔化す方法を模索するため、アルスは必死に思考を巡らすが、妙案というのはそうそうすぐに出てくるものではない。
(マズいな……。おそらく探られている。俺が無霊力だとはもう勘付かれているだろうし。相手は元騎士団長という大陸きっての実力者。いかなる情報も漏らすわけにはいかないが──)
してやってくれたと、心中で舌を打つアルス。傍らの少女を恨むが、時はすでに遅かった。居心地の悪さを感じながらも、アルスは悟られないよう最大限に努める。
「…………」
「…………」
香水の微香がたゆたうなか、視線をぶつけ合う二人。
「……やっぱり話す気はない、と。うーん、どうしようかしらね」
諦めたのか、エレンは小さく息を吐く。手に顎を乗せ思案する姿はどこか美しく、それだけでも絵になろう。対するアルスは警戒を緩めない。任務の時と同様に、相手が動いてもすぐさま対応できるよう立ち位置をわずかな動きで調整する。この場から逃げるという選択肢は、得体の知れない少女とエレンを前にしてとうに消えていた。
「……そうね。ともあれまずは、名前を教えてもらえるかしら。私はエレン・アリファール。ここの学院長をしているわ」
「エレン。こいつはアルス・ログナート。さっき森で聞いた」
と、早くも少女が暴露する。予想は出来ていたため、アルスは後悔に苛まれるも胸中で恨み言を言うにとどめた。
「アルス君ね。その張りつめた警戒心も解いてくれると嬉しいんだけれど」
「何?」
自身の警戒を感じ取られている。そのことで、アルスは思わず反応してしまう。
「私たちは君に危害を加えようなんて思っていないわ。それに、今さっき微妙に立ち位置を変えていたようだけれど、そこまで警戒する必要もないだろうし」
エレンはそう言う。その気はないにしても、だがやはり、間合いは踏み込みと横への一太刀でアルスの首を断てる距離。故に、解くわけにはいかなかった。
「まあ、強制する気もさらさらないけれど。でもそうなると、君の正体は何となく掴めたような気がするわ」
(……こいつ、何を根拠に)
胸がざわつく感覚。分かるわけがないと高を括るアルスだが、
「例えば、暗殺者、とかね」
「……ッ!?」
心臓が跳ねる。たった一つのその単語に、大きく狼狽えてしまう。表情には出していないつもりだったが、果たしてどうか。何故、と頭の中を疑問符が占める中、エレンは言葉を続ける。
「否定しないのは肯定と受け取るけれど?」
「…………」
答えられなかった。いま口を開いてしまえば、余計なことまで言葉が出てしまうと、漠然とした不安がアルスにあった。
「なるほど。私の勘も捨てたものじゃないわね」
まるで悪戯が成功したときの子どものような表情だ。実際はそんな穏やかな話ではないが。
「勘、といってもアルス君の立ち居振る舞いやその警戒心に少しだけ混ざっている殺気とか、あとはその着ている外套ね。ちょうど夜に溶けそうな色合いの黒だし、聖霊の加護も施されていないようだから暗躍にはもってこい。まあそんな諸々の情報と、勘ってところかしら」
どう? といった感じで、エレンは茶目っ気のある瞳を向けてくる。
「はあ、さすがは世の武人たちに〈一の緋剣〉と呼ばれているだけはある。聡明すぎてこっちは困る」
そのずば抜けて正確な着眼点と洞察力に、アルスは軽く舌を巻いた。
「あら、アルス君も色々私のこと知っていそうじゃない」
「誰もが知っていることしか知らない」
「ふふ、そう。なら、君の所属する組織にもある程度見当がついてしまうわね」
「…………」
やはりか、ともはや諦めの心持ちであるアルス。エレンはそう言うと、机の引き出しから数枚の紙を取り出し、机上に広げた。そこには非常に少ないものの、アルスの所属する暗殺者組織──〈高教院〉についての『情報』が記されていた。
──約十年前。隣国リーフォリア王国にて起こった、聖霊たちの一斉暴走。七大元素に尋常ではない異常をきたしたその災厄は、直接的な災害となって王国に降り注いだ。その時と同じ年に明るみにされた、ルギアス帝国の暗部。大陸中から暗殺者として素質のある孤児を寄せ集め、訓練と称し残虐な実験を繰り返している、狂気の集団。設立時期、所在地、構成員数等の情報はまだまだ不明な点がほとんどである。
ただ分かっているのは、〈高教院〉の暗躍により、各国の重鎮、要人が多数殺害されたこと。そして同時期に孤児院などから子供が誘拐されたことから、各国は〈高教院〉を第一級指定組織に位置付けた──。その内容は、ただちにその存在を揺るがすようなものではなく、アルスは心中で安堵した。
「……それで、目的は何だ? 俺の名前を国にでも売るつもりか?」
しかし、状況は芳しくない。歯を噛み締めるアルス。
「そうしてもいいけれど? 〈高教院〉といえば、今となっては大陸中が血眼になって拠点を捜索している第一級指定組織。そこの構成員である君を国に突き出せば、まさに万々歳ってところね」
軽く声を弾ませ、得意げなエレン。その挑発に、アルスは視線をきつくした。
(……こうなったら、〈呪刻〉を使ってでもコイツを)
そう思いかけるが、ここで予想外な言葉が掛けられる。
「でも、私個人としては、そんな真似はしないわ」
「……なに?」
まさに思いもよらない発言。優しげな表情は崩さず、エレンは続けた。
「そこで、君にひとつ提案があるの。……アルス君、この学院に入ってみる気はない?」
「ない」
「あら即答?」
予想通りの答だったのか、特に残念がるようすもない。
「当たり前だ。どうして俺が学院なんかに」
アルスの反応ももっともなもので、幼少の頃から〈高教院〉で育った彼は学院に通うなどという概念がない。むしろ〈高教院〉の訓練の過程で学院で学ぶ内容以上の知識を擁していた。そして何より、アルス自身は犯罪者という括り。自ら王城勤めであったエレンの目の届く範囲にいること自体、危険極まりない。
「それに、俺が学院へ入ることに何の意味があるんだ」
「意味ならあるわ。君が経験したことのない、素敵な学院生活が送れるはずよ」
「興味ないな」
その提案を、アルスは一笑に付した。
「もう、頭が堅いわね」
むっとするエレンに、思わず頭をかかえるアルス。
「聡明だと思った俺が馬鹿だったのか? もう知ってのとおり、俺は大陸中から追われている犯罪者組織の一員だ。こんなところにいられるわけがないだろう」
これ以上話す気はない──その意思表示をと、アルスは踵を返す。
「……はあ、やっぱりここは強硬手段しかないわね」
背後からのその言葉に、進んでいた足が止まる。嫌な予感に、もはやため息すら出て来なかった。
「ここで首を縦に振らなかったら、君を今すぐ王城へ連行するわ」
「……ッ」
ある意味予想通りで。殺意を込め、エレンを睨み付ける。
「ふふ、いい目付きね。余計に君が欲しくなったわ」
対するエレンは心底愉快なのだろう。私情が混じり始めているあたり、学院長の体裁は形無しであった。
「さて、君はどっちを選ぶかしら? 素直に私の提案を受け入れるか、このまま私に連行されていくか。賢い君なら、答えはすぐに決まると思うけど」
微笑んだエレン。アルスの答えは分かりきっている、そこからきた余裕の表情であった。
「……俺の実力では、お前たちには勝てない。何しろ実力者が二人だ。そして拒否すれば、俺はおそらく断首刑だろうな」
「ええ」
「はあああ。……ちっ……分かった、今回だけはお前に従おう」
本日二度目の熟慮の結果、まさに苦渋の決断であったが、アルスは半ば脅迫という名の提案をのんだ。
「ただし、条件がある」
嬉々としているエレンに水を差すように、アルスはそれを遮った。
「条件?」
「そうだ。この学院にいる間は、俺の素性は一切口外しないと約束しろ」
「それはもちろん、約束するわ」
犯罪者を国直属の教育機関に迎え入れることが、内部はおろか外部までに漏れ出しては、学院としての信用が失墜する。そのことも踏まえて、エレンは最低限の約束を交わした。真剣な表情に、偽りはないと判断したアルスはつまらなそうに顔を背け、再び踵を返す。
(まあいい。今だけ従順にしておけば、抜け出すのも楽になるか)
と、
「あ、ちょっと待って」
エレンがアルスを呼び止めた。近くに置いてあった書類の切れ端に素早くペンを走らせ、
「知ってると思うけど、ここは全寮制よ。ちょうど空いている部屋があるから、そこを使って」
手渡された切れ端に記されていたのは、寮の部屋番号。記憶している学院内の地図を思い浮かべ、アルスは頷いた。
「場所は分かると思うから、今日は人目につかないように移動して。部屋内の物は好きに使ってくれていいわ。それと、一応編入ということで手続きをすませておくから」
「ああ」
「それじゃ、明日からよろしくね」
「……私からも、一応よろしく。挨拶として。そして奴隷として」
そんな二人の言葉には応じず、アルスは静かに執務室を出て行った。扉が閉まると、エレンが柔らかく微笑む。
「明日から楽しみね」
「退屈ではなくなりそう」
「そう? それなら良かったわ」
少女の言葉を受け、執務室からは、エレンの小さな笑い声が響いていた。
*
──翌朝、学院の廊下に硬い靴音が響き渡る。支給された制服に袖を通したアルスは、揺れる銀髪を追って歩いていた。制服は、エレンが用意した学院専用のもの。基調となるカラーは他の学院生と同じ紺色であるが、肩には上級課程の証である金の線が三本入っていた。生地には聖霊の加護を織り込んでおり、着心地はとてもいい。
(はあ……。何で俺はこんなことをしているんだ。学院に行っている暇なんてないんだが……くそっ、やっぱりあいつの提案になんて従うべきじゃなかったか)
アルスは胸中でエレンを罵った。
(そもそも、何でそこまで俺をこの学院に入れたがるんだ? 特に何の接点もないはずだが。……今度問い質してみるか)
「この学生棟は食堂やその他諸々の施設。教師棟は二階廊下と繋がってる」
校舎を案内してくれているのは、昨日森で出会った銀髪と紫紺の瞳をたたえた少女だ。捕まえてきた責任として、エレンに押し切られるかたちで不機嫌ながらも案内を続けてくれていた。校舎のだだっ広さと複雑な設計は、契約聖霊たちが心地良い空間を作り出すためらしい。最先端の聖霊工学技術を応用した建築様式。そのデザインは、完全に人間のことを度外視していた。ふわりと揺れる少女の髪を見つめながら、アルスは昨日の会話を思い返す。結局、エレンの思惑通りになってしまったことは気に入らない。だが、犯罪組織の弱点で脅されてはアルスに選択肢はなかった。
生まれながらにして、自身の中に霊力がない──無霊力と言われてきたアルス。実際、霊力制御の基礎中の基礎である七大元素の顕現すらできない。聖霊の恩恵を受けているこの世界で、無霊力など存在しうるはずがないのだが、アルス自身がいい証拠だ。故に、〈高教院〉という暗殺者集団で鍛え上げた圧倒的な体術のみでこの世界を渡り歩いてきた。霊力を扱う聖霊士を、無霊力者が殺せる術はない。〈高教院〉でまず教えられたことだった。
「…………」
歩きながら、袖に隠れた左腕をそっと撫でる。
(今まで生きてこられたのは、この〈呪刻〉のおかげか。皮肉なもんだな)
アルスは首を振った。現状を恨むのではなく、先々のことを考えなくてはと。
(まあ、ここから逃げる術はいくらでもあるだろう。とりあえず情報収集も兼ねるか。潜入任務だと思えば、まだ気が楽だ)
「アル──」
と、前を歩く少女が急に足を止めた。見上げてくる表情は相変わらずの無感情のように見えるが、纏う空気で、不機嫌さがありありと伝わってくる。
「アル、さっきから聞いていない。アルのためにわたしは説明している」
「……少し考え事をしていただけだ」
「考え事?」
「お前には関係ない」
突き放すように言うと、アルスは少女を追い越し一人で歩いていってしまう。
「……ムカつく」
眉をひそめた少女は、先を行くアルスへ小走りで駆けていく。昨日と同様に、履いている長靴で脚を蹴り上げる──が、それを見切っていたアルスに軽々とかわされる。
「同じ手に二度は引っ掛からないんでな」
「……わたしの奴隷のくせに生意気」
苛立ちを募らせた少女は、何度もアルスに蹴りを繰り出していく。その度にかわされ、少女の小さな身体では息が荒くなるのも早かった。
「なんか不機嫌だな? いい加減しつこい」
「……うるさい。アルには、関係ない」
先のアルスと同じ言葉を返した少女。あまり刺激すまいと、アルスは口を噤んだ。
「もうすぐ始業だから、教室に案内する」
「……やっぱり俺も行くのか」
「当たり前」
振り返り、少女はアルスの制服の裾をつまむ。
「今は逃げない。もっと計画を練ってからだな」
「……そう」
気に入らなかったのか、少女はつまらなそうに呟く。するとちょうど、始業を知らせる鐘が鳴り響いた。
「遅刻。走る」
単語で簡潔に伝え、少女はアルスの裾を掴んだまま走り出す。
「ちなみに言うと、アルとわたしは同じ教室。担当教師は学院長」
「……は? 学院長?」
引っ張られながら、アルスは血の気が引いていくのをありありと感じていた。
*
「さ、入って」
エレンの声が聞こえ、アルスは暗い気持ちで扉をくぐる。もちろん傍らには、口悪くも美しい銀髪の少女を連れて。──講堂のような教室。アルスが教壇に上がる。
「……え」
と、いきなり呆けてしまうほど、それが口に出た。それもそのはずで、広々とした教室の中には、生徒は見る限り“一人”しかいないのだ。男子生徒のようで、こちらにひらひらと手を振っている。
「ホーク、久し振り」
「おう、姫っちもな。元気してたか?」
「うん、ホークこそ」
「そりゃあもちろん」
こんな具合に、銀髪の少女とホークと呼ばれた男が気さくに挨拶しているが、アルスは早速付いていけていなかった。
(……意味がわからん。生徒が一人だけだと? いや、こいつも入れれば二人かもしれんがそれにしたってな……)
もっと教室が埋め尽くされ、ごちゃごちゃしているのを想像していたアルス。ある意味拍子抜けだ。古代の劇場のような造りの教室をぐるりと見回して、アルスは視線をエレンに向けた。
「おい、これは一体どういうことだ? まさか聖国随一の学府が生徒不足で経営難とかいうオチじゃないよな?」
そんなことは当然ないだろうと踏みつつ、エレンへ投げかける。
「さすがにそれはないわよ。まあ、これについては後で説明するわ。とりあえず、自己紹介しちゃいなさい」
笑いながらエレンは言う。学院長が自ら教鞭をふるっていることも合わせて、何か裏があるのは明白だが。
(……さっさと済ませるか。大人数の好奇の目にさらされるよりはましだろう)
若干安堵した心持ちで、アルスは教壇の前に一歩踏み出した。
「名前は──」
「アルス・ログナート。そしてわたしの奴隷」
と、アルスに代わっていきなり本名を暴露したのは、脇にとどまっていた銀髪の少女。
(こいつ、昨日に続いて余計なことを……)
横目で睨みつけつつ、アルスは内心ヒヤリとしていた。別に顔や名前が世に割れているといったヘマは起こしていないし、男子生徒の反応も特に変わりはないのだが、裏の人間としては敏感になる部分ではある
「へえ。お前、アルスっていうのか。オレはホーク・アバレスト。同じ男同士だ、仲良くやっていこうぜ」
どこかおちゃらけた様子で返してくるホークという男子生徒。頭には朱色のシンプルなヘッドバンドを付け、少し伸び気味の髪は濃いブラウン。若干切れ長の瞳は翡翠色で、その視線はアルスに興味津々といったようすだ。背丈は高く、アルスより頭ひとつ分抜けている。制服に関して、その着崩している姿から、あまり真面目な生徒ではないようだ、とアルスは分析した。
「さて、アルス君。他には何かある?」
「……そうだな。とりあえず、この生意気な餓鬼に付きまとわれて迷惑してるんだが、なんとかならないか?」
「ああ、そりゃあ無理だな。姫っちは滅茶苦茶に我が儘だからな。実力も半端ないし。この前なんかムカついた貴族のボンボンを練武場ごと吹っ飛ばしてたくらいだ。逆らわない方が身の為だぞ? “歩く爆心地”とよく言ったもんだわ」
からからと呑気に笑っているホーク。
(……おいおい、逃げられるんだよな、俺は)
逆にアルスは、とんでもなく面倒な奴に捕まってしまったのだと後悔の念を積もらせ、不安しかない先行きに大きく肩を落とした。
「あれは迷惑がっている後輩の女子生徒に軟派じみたことをしてたから。貴族としての立ち居振る舞いじゃないし、わきまえてもいない莫迦だったから少しお灸を据えただけ。私は悪くない」
少女が小奇麗な眉を八の字に曲げて反論する。
「でも相手は貴族だぜえ? さすがに怪我させちまったのはまずかっただろう。顔青あざだらけだったしな。思わず爆笑しちまった」
「……腕の一本でも折っておけばよかった」
「ハハ、でも姫っち、あの後学院長にこっぴどく怒られて拳骨されて涙目になってたよな」
「ホーク、次喋ったら丸焼きにする」
「…………」
「──さて、おしゃべりは終わったかしら?」
咳払いしつつ、エレンが機を見て場を仕切り直す。
「じゃあ、アルス君。席は好きなところに座って頂戴。人もいなくて広い分、席は有り余ってるから」
「……ああ」
アルスはざっと見渡して、当然ながら目立つことを避けるため、一番後ろの席を目指そうとするが。
「ん」
「…………」
くいっと何かに引っ張られる感覚に、思わず足を止めた。
「……なんか用か?」
案の定と言うべきか、終始隣にいた銀髪の少女が制服の裾を掴み、こちらを見上げている。
「アルはわたしの隣。離れたら駄目」
「お、おいっ」
そのまま引きずられ、アルスは無理矢理に少女の隣席に座らされてしまう。しかも中央の列の最前であり、真後ろにはホークもいる。最悪の陣取りだった。
「ふふ、なかなか良いじゃない。それじゃあ、新しい仲間を迎えての今日の“特別講義”は、いつも通り地下練武場で行うからすぐに集まるようにね」
エレンは満足そうに頷き連絡を済ませると、教室から出て行った。
「ようし、なら早速行っかあ。あ、そうだ。これからよろしくな、アルス」
と、立ち上がったホークがこちらに手を差し出してくる。
「あ、ああ。まあ、よろしく……」
逡巡しながらも、アルスはそれに応じる。
(これからのことを考えれば、下手に拒否しない方が後腐れはないか)
打算的な行動だった。しかし、同年代の人間と握手を交わすなど何年ぶりか──伝わる人間らしい温かみに、アルスはある種の新鮮さと戸惑いを感じていた。
「せっかくだ。練武場まで案内するぜ」
「すまない、聞きたいんだが、これから何の講義なんだ?」
情報収集も兼ね、ホークに問う。
「んー、まあ、一言で説明すると次の“特別講義”はいわば──“半殺し合い”ってやつだな」
仮にも大陸で最高の教育環境を内包した学院。そこの生徒から出た不吊り合いにも程がある言葉。
「……半、殺し合い?」
やはりこんな所に来るのではなかったと、アルスは自身の愚かさを呪った──。




