1.結末
──昏い常闇が支配する深更。
天に散らばる星々の煌めきも意に介さず、獣さえも寄り付かないほど不気味に静まり返った山中に、ぽつりと、古びた聖堂が佇んでいた。昼間であれば、清楚な空間が礼拝者たちを迎え入れ、神聖な時が流れていたのだろう。
だが、死臭が鼻をつく内装の荒れようは、それとはあまりにもかけ離れていた。無惨にも砕け散った、目の眩むほど巨大なステンドグラス。様々に彩色された破片は、どす黒い血と同化した硬質の石畳に散開し、新たな文様を作り出していた。
割れた合間からは、闇色のキャンバスに寂しく浮かぶ美しい満月がうかがえる。ちっぽけでありながら、それは唯一無二の存在として世界を照らし続け、その柔らかな月光は、荒れ果て暗い雰囲気に圧倒された聖堂の中でも例外ではなかった。
ステンドグラスを背するかたちで一際目立つものがある。台座の上で優雅に佇む、女性の像だ。見事な意匠の翼を生やした鉛色の身体は、月光に照らされながら鈍く輝いている。その美しく、魅せられる姿は、まさに天使や女神と呼称するのが相応しい。
と、ほんの数刻前までは誰もがそう思ったことだろう。しかし、今となっては像の全体に無数の亀裂が走り、砂埃をかぶっている。以前の美しさの片鱗も分からない程。
像と向かい合う形で、整然と並べられていた木製の長椅子に至ってはバラバラに粉砕され、木片がそこらじゅうに散乱している有様であった。
そして、赤黒く生々しい返り血に染められた四方の壁には、剣撃の軌跡が深い痕跡として幾重にもなって刻まれており、ここが紛れもない死地だと知らしめている。
不気味なまでに静まり返っている、この瞬間も──。
刹那。停滞し、沈黙を呈していた世界が一変する。
──響き合う剣戟。剣閃と剣閃が交差し、火花を散らす。いたるところで生滅を繰り返し、苛烈さに拍車がかかる。飛散する火花で、瞬間的に浮き彫りになった刃の輝きを辿っていくと、ふたつの人影が蠢いている。的確に狙った喉笛への刺突は受け流され、心臓を穿つ一撃は弾かれ、脳天に振り下ろされた一閃は空を切るのみ。
弾き弾かれ、拮抗し相殺する。相手を“殺す”ことだけに芯を据えた剣技の応酬は、さながら死の舞踊だ。そして、その勢いが衰えぬ中。ふたつの人影は突如、石畳に溜まった砂を舞い上げながら距離をとった。
月光が差し込むステンドグラスの方へと後退してきたのは──黒に包まれた一人の少年だ。濃密な色彩の黒髪に、中性的でありながら精悍な雰囲気が交じる顔立ち。底なしの深い琥珀色の瞳は、脆弱とは無縁の屈強な光を放っている。しかし、そんな容貌とは裏腹に少年の身なりは綺麗さを欠いたものであり、羽織っている漆黒の外套は所々綻び、これまでに舞い上がった砂埃のためか、ひどく色あせていた。
一見黒ずくめである少年だが、一つだけ、その風貌と異なっている部分がある。それは、少年の両の手に握られた、剣身がかなり長めの双剣だ。切っ先あたりの流線型のしなりはその鋭利さを際立たせている。
刃は夕闇を想起させる眩しい緋色に彩られ、背後のステンドグラスの割れ目から差し込む月光を吸い込むように、より鮮烈な輝きを放っていた。
「──……ふう、これは、かなりキツいな。いい加減体力の限界だ」
と、今まで閉口していた少年が不意に吐息を漏らす。脱力したようにそのまま片膝を落としたその表情は、辛苦に歪んでいた。ぐらりと、石畳に倒れ込みそうになるものの何とか気力だけで踏みとどまる。
「まったく、負けるわけにはいかないっていうのに、どうしてくれるんだか……なあ?」
少年がそんな言葉を前方の暗闇に投げかけると、そこから溶け出すかのようにして、一つのシルエットが浮かび上がってくる。
「フフッ、私の可愛くて愛しいアルス。あなたに私が殺せるかしら?」
そんな言葉と同じくして現れたのは、年端もいかない一人の少女だった。 艶やかな夜色の長髪を腰まで流し、闇のような──そんな形容が似合う、深い色合いのドレスをまとっているその姿はなんとも可憐であり、柔らかな雰囲気を醸し出している鳶色の瞳は、ひたすらに目の前の少年へと注がれている。
まだあどけなさが残る顔つきに反し、言葉遣いや仕草はどこか大人びていて、かなりアンバランスな印象を受ける少女。その彼女の右手には、ここの神官たちが護身用に所持していた細身の剣が握られている。しかし、その刃はボロボロに欠け、使い物にならないことは容易に想像できた。
「……当たり前だろう。俺はお前を殺す。絶対にだ」
“アルス”。そう呼ばれた少年は、渇いた笑いを漏らしながらも、自らを奮い立たせるように語気を強め少女へと殺意をぶつける。
「あらあら、そんな虫の息なのに本当に大丈夫かしら? 今朝からここで闘い続けているのに。でも、立ってくれるわよね? 私、あなたのそういうあきらめの悪いところ、とっても好きよ」
可愛らしく破顔する少女。そんな無邪気さに、アルスは力なく笑い返す。
(やはり、聖霊とただの人間では肉体的な性能なんて雲泥の差か……。けど、そんなこと言われたらもう立ち上がるしか選択肢はないだろう、まったく)
小さく舌を打つと、歯を食いしばりすでに満足に動かない足腰に力をこめる。身体がガタガタと振戦する。が、それを無理矢理にでも抑え込むように、アルスはゆっくり立ち上がった。
「う、……ぐ……っ」
途端、全身に大きな酩酊感が襲う。
(あー、くそ。そろそろ効果切れか。まあいい……)
無駄な思考を捨てようと、アルスはかぶりを振った。いつもなら軽々持ち上がる得物も、今に限ってはひどく重いだけのなまくらに見えてくる。
「……さて、と。ここら辺で休憩は終わりだ。とっととかかってこい、聖霊レシリア。先手は譲ってやる」
じわりと、両手から鮮血が滲み出るのもいとわずにアルスは双剣を構える。そして鋭利なその切っ先を前方の少女──レシリアに向けあからさまに挑発する。
「ふふ、アルスったら。嬉しいわ、また立ち上がってくれて」
あくまで心底嬉しそうに、あどけなさを孕んだ華やかな笑顔を浮かべるレシリア。
だが、
「じゃあ──そろそろ死んでくれるかしら」
「ッッ!」
先までの愛らしい口調から変貌した冷徹なその声音に、アルスの背筋が凍りつく。それが、聖霊であるレシリアに残されていたわずかな人間性が放棄される引き金となった。それと同時に、抑え込まれていたレシリアの聖霊としての力の源泉──“霊力”が衝撃をともなって解放される。圧迫するように、アルスの全身を打ち叩き空気を震わせる。
「く……」
身が粟立つのをひしひしと感じながら、アルスは唇をぎゅっと強く噛み締めた。
(今回も、覚悟しないとな……)
人間をはるかに凌駕する、巨大な存在感。聖霊としての格の表れだ。そして尋常ではない殺気を孕んだそのオーラはレシリアの身を包み、歪で重々しい雰囲気を漂わせていた。
「さあ人間、ワタシの糧になりなさい」
そう言って、レシリアは持っていた剣をぞんざいに後方へ放り投げる。
そして、
「──来なさい。天穿槍」
放った剣が石畳に突き刺さると同時に、レシリアは“それ”を呼び出した。呼応し、まるで新雪のようなレシリアの掌に現れる黒い粒子。それは徐々に脈動する束となり、彼女の手へと収束する。ねじれ、螺旋を描き、勢いを増す黒い粒子の束。収束するほど質量を増し、密度を増して形を成していく。
「これで、心臓を貫いてあげるわ。何回も何回も何回も。それこそ数え切れないくらいに。今から楽しみだわ。一刺しするごとに、新鮮な肉と温かい血があなたの身体から溢れ出てくるんですもの。ああ、昂りすぎて早速果ててしまいそう」
頬を上気させ、狂ったように残虐で残酷で、そしてどこか妖艶な笑みをレシリアは浮かべた。同じくして彼女の手に現れる、ドレスと同じ闇色で彩られ、どこか禍々しさを呈す一本の長槍。しかし、自身の身体とは全くと言っていいほど釣り合いが取れていない。
(“霊装”か。そう来るだろうと思ってはいたが、相変わらず危なっかしい思考をしてるな。……さて)
小さく深呼吸をひとつ、アルスは圧倒的な力量の差に萎縮していた自身の心を平坦にする。
“聖霊”──存在そのものが根本的に“人”とは異なり、およそ人間が到達出来うる領域をはるかに凌駕した聖なる異形。森羅万象、あらゆる現象の具現化とも言っていい高位な存在に、自身は剣を向けている。こんな馬鹿げたことがあるかと心の中で自嘲する中、アルスは滅ぼすべき対象を刮目する。この剣に誓って、たとえ絶対に勝てないと分かっていても絶対に負けるわけには行かないと、胸中でその矛盾した決意を飲み下す。
それで、八割がた準備は終えていた。あとは、この身体を戦闘に特化させ、自身の意思に寸分でも遅れないものになるよう全身に促し、臨戦態勢を整えれば良いだけだった。
「──さあ、私の可愛くて愛しいアルス。……殺しあいましょう?」
それが合図であると、アルスは直感した。鮮烈で過激な剣戟は唐突に幕を上げる。
「おおおおおッッ!!」
石畳を踏みしめ、アルスは双剣を逆手に跳躍、突撃する。先刻より鋭い金属音が、堂内に響き渡る。いくつもの剣閃がひらめき、激しい火花が折り重なるように散っていく。
「……ぅ、く……っ」
だが、全身を突如襲う激痛に、アルスは思わず呻き声を漏らした。レシリアの一突き、それが直線的で単調な攻撃であるにもかかわらず、尋常でないほど“重い”のだ。伝わった衝撃は骨を軋ませ、両腕が悲鳴をあげるほど。
(あんな華奢な身体の、どこからこんな力が出るんだ……っ)
疲弊しきった今の状態で、予想を超えたその激甚な突きをかろうじて捌いていく。
と──。
(ッ!!)
アルスの顔面目掛けて繰り出された一閃の刺突。重心を横に反らし、咄嗟に回避。ゴウッ、と耳元で長槍が唸る。遅かったと、すぐさま悟った。頬に刻まれた赤い裂傷がいい証拠だ。しかし、アルスは怯まず追撃が来る前に動いた。自身の身体を捩じり、その遠心力に刃を乗せる。独楽のような回転斬り。薙いで生まれた赤い軌跡が、鋭い斬撃と化し風を生む。
「あら、アルスったら、少し往生際が悪いわよ?」
一方、レシリアは泰然自若とした表情を崩さない。一呼吸分の余裕もあるように、ふわりと、ワンステップで斬撃を躱す。そのまま石畳をつま先で軽く蹴り、宙へと浮上した。
「フフッ、あなたはここまで来れるかしら?」
「……ふう、やはりとんでもないな。今の一撃、見切っていたと思ってたんだが」
絶え絶えの息遣いで、アルスはしみじみと呟いた。聖霊の力の奥深さは計り知れないと、改めて感じる。
「こちらも惜しかったわ。楽に死なせてあげようかと思ったのだけれど。さすが私のアルスね。たかが二十年も生きていない人間にしては大した技量よ。やっぱり私を殺すとはっきり口にしただけはあるわね」
「当たり前だ。お前を殺して、返してもらわなきゃならないんだ。だから、さっさと降りて来い」
「……フフ、そんなに慌てなくても、って──……ああ、ごめんなさいアルス。そろそろ時間みたいだわ」
「? 何だ、どういうことだ?」
「そろそろ壊れ始めるみたいなの。それにしても、今回は早いのね……」
ぶつぶつと、虚空を見つめながら一人呟くレシリア。その言葉に、アルスも顔をしかめていると。
「……ごめんなさい、アルス。お楽しみの時間は終わりよ」
突如レシリアが心底申し訳なさそうにそう告げた。そして一拍置き、レシリアが、その愛らしい顔を無表情に変えて。
「今からあなたを、消してあげるわ」
(……ッ、な、何だ!)
瞬間、アルスは戦慄を覚えた。枯渇したはずの汗が全身から吹き出し、凄まじい程の悪寒が走る。危険であると反射的に察知し、すぐさま下がって距離を取る。すると間髪入れずに、まるで地ならしのように堂内全体の石畳が細かく振動したかと思うと。
「荊よ、捕縛なさい」
レシリアのその桜色の唇から紡がれる、現象を具現化する言葉。それは確かな力を伴って、世界を侵蝕する。瞬間、爆発音にも似た衝撃が響き渡る。アルスがいた地点の石畳を突き破り、砂塵が舞う。
「これはまた、結構な数だな……」
アルスが辟易する中、現れたのは。
「フフ、可愛いでしょう? これ、“毒荊”なんていうのよ?」
禍々しい色彩の太い蔓と、それに付随する鋭利な棘──まさに荊だった。うねうねと意思をもって蠢く無数の荊。狙いは言わずもがな、疲弊しきり弱ったアルスだ。
「さあアルス、捕まりなさい」
「……ちっ」
襲い来る無数の荊。頭上、側面、後方と多方面からそれこそ縦横無尽に攻撃を仕掛けてくる。苛立たそうに舌を打ったアルスは、まず荊一つひとつの気配を把握し、致命傷を避けることに全力を注ぐ。
(おびただしい数だな。極力、無駄な体力は使いたくないが……)
幸い、荊の動きは勢いこそあれどそんなに複雑ではない。アルスは何とか回避しながら双剣にて反撃。直前まで引きつけなるべくいっぺんに破壊する。斬っては返し、二の太刀で斬り刻む。
しかし、
(やはり斬った断面から再生するか。さすがはレシリア、ぬかりないな。仕方ない、直接術者を叩くしか方法はないか)
粘液をまき散らしながら再生する荊の群れ。鼬ごっこはまさに体力の浪費しかない。アルスは回避することに専念し、機をうかがう。
(──……今だ)
一瞬の隙。絶え間ない猛撃の間に見えた、極々小さな光明をその手で手繰り寄せ利用する。アルスは真上に高く跳躍。躊躇なく襲ってくる荊にタイミングを合わせ、前方に宙返りを切りながら、そのまま渾身の踵落としで地面に荊を叩きつけた。
「あら、アルスったらまだ足掻くのね」
広範囲に渡って舞う砂塵。不鮮明になる視界。だが同時に、荊の動きも鈍る。それは十分すぎる好機だ。その隙に、着地したアルスは荊の合間を縫ってレシリアに肉薄する。
(気配は、動いていないな。……よし、見えた!)
捉えたレシリアの影と気配。勢い付けたまま斬りかかる──が。
「でもね、アルス。それは無駄な足掻きというのよ?」
「くッ、おいおい……障壁とは、また嫌な手を使ってくれるな……!」
レシリアの蠱惑的な嗤いがやけに耳に響く中、悪態をつくも、その刃が届くことはなかった。目視はかなわない。だが確実に、レシリアの周囲には絶対不可侵の領域が展開され、アルスの手繰る双刃を押しとどめていた。神秘を扱うレシリア──もとい聖霊にとって、只の人間の武技など児戯にすぎない。故に、もとからレシリアは余裕しか持ち合わせていない。
「ほらほら、後方も注意なさい?」
「ッッ!」
蛇のように、静かに着実に這いよっていた無数の荊。瞬間的に反応が遅れ、アルスは脚を絡め取られてしまう。そのまま乱雑に振り回され、空中に放り投げられる。
「しまったッ、体勢が……ッッ!」
足場の皆無な空中で体勢を取り戻すのは至難だった。格好の獲物とばかりに伸びてくる荊の群れに、為す術などなく──。
「フフ、つーかまーえた」
逃げられはしない。そう思った瞬間、今度はアルス自身が、硬い石畳に叩きつけられる番だった。
「か、はッ……」
肺から空気が漏れ、全身が軋む。一度背中が付いてしまうと、もう駄目だった。起き上がる気力もなく、ガタガタの精神を虚勢で無理やり保っていただけに、崩壊は驚くくらい呆気ない。
「さて、少しの間だけど、空中散歩できた気分はいかがかしら?」
「……決まってるだろ、最悪だ──ぅッ!」
レシリアは笑みを絶やさない。その優しい問いに、アルスは反抗的に口を開くも、四肢に幾重にも巻き付き蝕んでくる荊が、その気さえも削いでいく。徐々に拘束の力を強めていく中、両腕を痺れを伴う激痛がほとばしり、遂には自らの得物さえも手放してしまった。
「クソッ……レシリア、時間って何のことだ。説明しろ……ッ」
悔しさと情けなさのあまり、アルスは激しく歯噛みする。とんだ失態だと、一瞬の油断を呪う。拘束された身体でもがくがその度、荊の棘が全身を抉り激痛を誘発する。
「く……そ……」
“毒荊”。その名にふさわしい猛毒が、アルスの裡を侵蝕していく。強烈な痺れを伴って意識が遠のき視界が霞む。もはや、結末は見えているだろう。レシリアは滑稽とでも言いたげに、上品に口元に手を添えて笑っている。容姿と相反した一つひとつの所作は、相も変わらず彼女が少女だと忘れさせるほど、ある意味魅力的だ。
「……さて、そろそろ、お別れの時間ね」
疑問には答えず、レシリアは相変わらず重力を感じさせない軽やかな身のこなしで、アルスの上へ馬乗った。
「レシ、リア……」
「そんな愛おしい声を出さないで。殺せなくなってしまうわ」
最後の最後で、どうにか繋ぎ止めた意識の中でその聖霊の名前を呼ぶが、大した意味はなさない。レシリアはぞくぞくと一瞬身を震わせて、天穿槍の穂先をアルスの心臓へとあてがう。両者の瞳が交錯し、ステンドグラスから差し込む月明が、二人を暗がりから救い出すように照らし出す。
「心から愛してるわ。私の可愛くて愛しいアルス」
わずかに上気した頬で、レシリアはそっと、アルスに口付けた。
「……じゃあ、さようなら。この“次”も、私以外に──」
その別れの言葉を聞き終える頃には、アルスの命は、とうにその灯火を消していた。
──約束を遠くに、誓いを胸に闘った只の人間の生涯は、こうして何度目かの結末を迎えた。




