秋の夜長
時刻は深夜の二時を少し回った頃だ。
今日は中秋の名月で、月はほぼ真上に昇って明るく輝いていた。
俺は高速道路の脇にある道の駅で、自分のバイクを前にして温かいペットボトルのお茶で冷えた体を温めていた。
この道の駅は、ライダーにはちょっと有名な場所だ。
最近では聖地と呼ぶ声もあるくらいで、休日ともなれば県を跨いだ地域からもたくさんのライダー達が集まってくる。
とはいえ、それは休日の昼間の話だ。こんな平日の深夜に走ってくるような物好きは、なかなかいないだろう。
ふと気がつくと、俺のバイクを興味深そうに見ている女の子がいた。
身長は百六十センチくらい、白っぽいニットのハイネックに、ベージュのジャケットと赤いタータンチェックのミニスカート。黒いタイツに黒いブーツ。肩の辺りで斜めに切り揃えられた黒髪が目を惹く。なかなか美人の女の子だ。
歳は十八歳くらいだろうか。高校生の女の子が少し背伸びしてお洒落してきました、といった雰囲気がある。
何かに怒っているのか、表情がずいぶん硬い気がする。
正直、あんまりバイクには興味がなさそうなタイプだと思うんだけど。
彼女はまるで品定めをするように、俺のバイクのシートやパネルの辺りを覗き込んだり、バイクの回りを回ってみたりしていた。
まさか盗もうっていうんじゃないとは思うけど、いったい何をしてるんだ?
ちょうどお茶が無くなったので、ヘルメットを片手にバイクに近づくと、まだバイクから離れようとしない彼女に声を掛けてみた。
「俺のバイクなんだけど、何か気になることでも?」
これじゃまるでバイクのセールスマンだ。もう少し気の利いた言い回しは無かったのか?
彼女は一瞬驚いた顔をして、それから今度は俺を品定めするように見返すと、眉間にシワを寄せながら「このバイク、おじさんのなんだ?」などと曰った。
社会人になって五年。そろそろ三十の大台に手が届きそうな歳だけど、だからっていきなり「おじさん」と言われるには早いと思っていた。だから俺も地味にショックを受けていた。
ただ、その後に続く彼女の言葉はそんなショックもいっぺんに忘れさせるものだった。
「後ろに乗せてって欲しいんだけど」
一瞬、彼女が何を言ってるのかを理解できなかった。
思考が止まる、というのはこういう事を言うんだなと。頭のどこかでもう一人の自分が冷静に見つめていた。
「お願い、急いでるの」
その言葉に思考を取り戻して彼女を見ると、俺を睨むように見つめる目の真剣さが、どうやら本物だという事だけはわかった。
「理由は後で聞くけど、犯罪の片棒は担がないぞ」
「そういうのは無いから大丈夫」
俺のバイクは左右に荷物用のケースが付けてあって、その片方には女性用のヘルメットとグローブが入れてある。
それを取り出すと彼女に被り方を説明する。
「ストラップを両手で持って。そう、上から一気に。お、上手いな。きつくないか?」
そう聞くと、シールドの向こうからくぐもった声で「大丈夫」と聞こえた。
それから自分と彼女のヘルメットに付けてあるレシーバーのスイッチをオンにして、ちゃんとお互いに声が聞こえることを確認した。
「便利だね」という彼女の素直な感想に気分を良くしながら俺はバイクにまたがり、彼女の手を取ってパッセンジャーシートに引っ張り上げた。
「結構、高いね」
それがある人と全く同じ言葉だったので、懐かしさと可笑しさがこみ上げてきて、つい含み笑いをしてしまう。
「何よ、バイクなんて初めてなんだからしょうがないじゃない」
「ごめんごめん、悪かった。前に同じことを言った人がいたんだよ。それを思い出したんだ」
そう言って後ろのクラブバーと、俺の腰のベルトをしっかり握るように伝えてエンジンをスタートさせる。
エンジンの鼓動がシートの下から響いてきて、気持ちを一気に高揚させてくれる。
「わぁ」
彼女の息を飲むような感嘆の声を合図に、俺はバイクをゆっくりとスタートさせた。
道の駅を出るとすぐに高速道路に入る。俺はいつもの癖でO市の方へ進路を取ると、あまり飛ばし過ぎないように走行車線を走った。
「それで、どこへ行けばいい?」
ヘルメットのレシーバーを介して行き先を尋ねる。
「N市」
「え?」
「だから、家はN市なの!」
N市といえば全く逆方向だ。
「ごめんごめん、つい癖でO市の方へ入ってた。次のインターでユーターンするよ」
何気なくそう答えた所で、右側の走行車線から一台の赤いスポーツカーが突然車体を寄せてきた。
「何だこいつ、危ねぇな」
ガラス越しに睨みつけると、相手も尋常じゃない顔で睨み返してくる。
「逃げて!」
レシーバーが彼女の叫び声を拾いきれずに音割れを起こす。
その切羽詰まった声のトーンに弾かれるように、俺はバイクを一気に加速させる。
彼女が慌てて両手で俺の腰を抱きかかえたのを感じると、さらにアクセルを捻ってスピードを上げた・・・ように見せかけた。
つられて赤いスポーツカーが慌ててスピードを上げる。
俺は次の瞬間、少し左側に車体を傾けると、ぎりぎりのラインで目の前に迫っていたインターチェンジの出口に滑り込んだ。
もちろん追い越し車線を並走していた赤いスポーツカーは対応しきれずに、そのまま高速を走っていってしまう。
「大丈夫か?」
インターチェンジを降りてすぐに路肩にバイクを止めると、彼女からは「うん」という小さな返事が聞こえた。
「まぁ、あっちがユーターンして戻ってくるにしても次のインターチェンジまで行くだろうから、それまでかなり時間は稼げるだろう」
そう言うと、彼女は腰に回していた手をやっと離した。
「怖かったか?」
「ううん大丈夫。でも、ちょっと寒い」
そういえば彼女にはヘルメットとグローブしか渡していなかった。
彼女をバイクから降ろすと、サイドケースから上下セットの合羽を一組取り出して彼女に手渡す。
「これを服の上から着れば風はかなり防げるから。あとはなるべく俺の後ろに隠れるようにしてくれ」
合羽を着込んだ彼女を乗せて、今度はN市へ向かう車線側のインターチェンジから高速道路に入っていった。
しばらく走ると大きなジャンクションがあり、そこから先は別の有料区間になる。
普段ならそのまま有料区間を走って行くところだが、俺は一計を案じて一般道の方へと降りて行った。
もしさっきの赤いスポーツカーが追いついてきた時に、このまま有料道路を走っていけば追いつかれてしまう可能性がある。
相手も人間だから、さっきと同じ手には引っ掛かってくれないだろう。そうなればタンデムでカーチェイスは危険すぎる。
だけど一般道に降りてしまえばルートは予測しづらいだろうから、発見される可能性も低くなるはずだ。
この辺りは昔よく走っていたから、どういうルートで走ればいいかもよく知っている。
赤いスポーツカーのナンバープレートにはO市と書いてあったから、この辺の地理には疎いと信じよう。
そこからさらに二十分ほど走っていくと、ライダーがよく集まるコンビニがあった。
たぶん最初は高速料金をケチりたい連中がした道を走ってきて、なんとなく休憩するのに使っていた店だったんだろう。
駐車場が狭くて車用の駐車スペースがあまり無いのも、ライダーが集まりやすい理由だったのかもしれない。
「ちょっとここで休憩しよう」
そう言ってコンビニの駐車場にバイクを止める。
店で温かいペットボトルのお茶を二本買い、一本をバイクの側に座り込んでいる彼女に渡す。
「バイクって何がいいのか、さっぱりわからない。寒いし、うるさいし」
グローブを外し、どうにかこうにかヘルメットを外すと、お茶を一口飲んで彼女はそう口を尖らせた。
「まぁ運転してみないと、面白さはわからないかもな」
それからまた二口ほどお茶を飲むと、今度は慎重な口ぶりで尋ねてきた。
「どうして女物のヘルメットとか持ってるの?」
「そりゃ俺の彼女の分だよ」
答えると彼女は驚いた顔で「彼女いるの」などと曰う。
温かいお茶に落ち着いたのか、最初に声を掛けてきた時のきつい雰囲気はなくなっていた。
「聞いてもいいか?さっきの車、あれに乗ってきたのか?」
俺がそう聞くと、彼女の顔が再び曇ってしまった。
「今日、O市でオフ会があったの。けっこう人数きてたんだけど。そこでちょっと話が合ってね、車で送ってくれるって事になったから乗せてもらったの。そしたらだんだん話がエッチな内容ばっかりになってきて、これはヤバイなって思って。トイレ休憩を理由に車を止めてもらって逃げたんだよ」
彼女は少し自嘲気味に笑ってそう答えた。
「そうか。まぁそれはちょっと軽率だったな」
俺がそう言うと、彼女は「反省してる」と言って苦笑した。
「それにしても、なんでバイクを?」
道の駅には他にも車やバイクが何台か止まっていた。乗りやすさで言えば車だろうと思ったんだが。
「車だったら閉じ込められて逃げれないかなって思って。バイクだったら最悪飛び降りればいいかなって」
さらっと怖いことを言う。いくら何でも走ってるバイクから飛び降りれば怪我ではすまない。
「そうだよね。でもそれくらい切羽詰まってたのかも」
深夜に人里離れた道の駅で、女の子が一人で何とかしようと思うとそれくらいの覚悟が必要という事なのだろうか。
「それに、おじさんのバイクがすごく綺麗で大きかったから、なんか助けてくれそうな雰囲気だったんだよね」
実際、他のバイクだったらタンデム用にヘルメットを載せていないだろうから、俺のバイクに声を掛けたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「バイクはともかく、俺も危ないやつかもしれないぞ」
俺がそう言うと、彼女は「そうかもね」と笑う。
「でも、おじさんはそういう人じゃないって思うな。あんな綺麗なバイクに乗ってて彼女もいるんだし」
「なんだか男としてどうかと思う評価だが。ま、今回は素直に喜んでおくとするよ」
そうして二人でひとしきり笑いあった。
「そういえば今更だけど、逃げてきた車に忘れ物とかないか。写真とか、住所を教えたりとかしてないか」
最近はネットがらみで色々と怖いニュースも多い。後から何をされるか分かったものじゃない。
彼女はスマホを取り出して何かアプリを立ち上げた。
「行き先もN駅しか言ってないし、写真は拒否ってたから。隠れて撮られてたらわかんないけど。んー、なんかアイツのアカウント削除されてるみたい。ヤバイと思って逃げたのかな?」
アカウントを消して逃げるような奴なら大丈夫だろう。逆にあること無いこと言いふらされたりされる奴の方が面倒だ。
「そうだね。ふふ、おじさん優しいね」
「おじさんは酷いんじゃないか。まぁ君よりは年上なのは確実だけど」
今度は俺が口を尖らせる番だった。
「彼女がいるのに、夜中にバイクで走りまわってるの?」
お茶もすっかり飲み干して再びバイクに跨ると、レシーバー越しに彼女が尋ねてきた。
「バイクや車が好きな連中は、時々こうやって夜中に一人で走りに行きたくなるもんなんだよ」
彼女はそれを聞くと「変なの」と言って笑う。
それからさらに小一時間ほど走るとN市に入った。
「行き先はN駅でいいのか? この時間だと、まだ電車は走ってないと思うけど」
そう聞くと少し間を置いて彼女はN駅から少し離れたS駅に言って欲しいと告げる。
流石に駅の場所がわからなかったので、一度路肩に寄せてスマホでルートを調べて移動する。
S駅からは彼女の指示に従って走り、大きなマンションのエントランスにバイクを滑り込ませた。
「知らないおじさんに家がバレちゃったな」
俺がそう言うと、彼女は笑いながら「お兄さんなら大丈夫」と返してくる。
「それよりごめんね、こんな所まで送ってもらって」
気がつくと空が白み始めている。
「大丈夫。バイク乗りは走ってさえいれば幸せなバカだから」
そう言うと彼女は「面白いね」と笑い、エントランスで「帰り道、気を付けてね」と言って手を振って見送ってくれた。
そんな小さな事件があってから、もうすぐ一年だ。
秋の訪れを知らせる冷たい風を受けながら、俺は久しぶりの夜のツーリングに出かけていた。
この一年で俺の生活はガラリと変わった。そのお陰で夜のツーリングはなかなか出掛けることができなくなっている。バイクを手放すのは嫌だけど、乗らないのに置いてても勿体無いし。
柄にもなく少し感傷的な気分に浸りながら高速道路脇の道の駅に入る。金曜の夜だからか、他の平日に比べればバイクも多い。
俺は二輪車の駐車スペースに空いてるところを見つけると、そこにバイクを停めて自動販売機でペットボトルの温かいお茶を買って戻ると、自分のバイクが見える位置まで戻った所で異変に気がついた。
背中辺りまである黒髪を後ろで束ねた女性が、まるで品定めをするようにパネルの辺りを覗き込んだりバイクの回りを回ってみたり。バイク用のジャケットとオーバーパンツを履いているので、どうやら彼女もライダーらしい。
「俺のバイクなんだけど、何か気になることでも?」
振り向いた女性は一瞬驚いた顔を見せた後、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に一年前の少女の顔が重なる。
「やっぱりお茶なんだね」
その懐かしい声に、消えかかっていた思い出が鮮やかに蘇ってくるような気がした。
「久しぶりだな。髪伸ばしたんだ」
「うん。それにね、私もバイクの免許取ったんだよ」
それから「ちょっと待ってて」と言って走って行くと、少し離れた所に止まっていた赤いネイキッドのバイクに跨り、危なげなく走って戻ってきた。
ドヤ顔というのはこれだ、とも言わんばかりの得意げな顔で「どう?」と聞く彼女の態度に、一年のブランクも一気に吹き飛んで思わず笑ってしまう。
「すごいなこれ、買ったのか?」
それは俺と同じメーカーの、サイズでいえばミドルクラスのネイキッドだった。ミドルクラスと言っても大型二輪の免許が要る排気量だ。
「免許取りたてのお嬢さんが買うバイクとしては、ちょっとゴツすぎないか?」
俺がそう聞くと、彼女は口を尖らせながら。
「ホントはお兄さんと同じのを買おうと思ったんだけど足が届かなくて。お店の人に話を聞いたら、これが乗りやすくてオススメって言われたの。まぁかっこいいなって思ったし、乗ってみたらすごく乗り易いかったから気に入ってる」
「それは失礼しました。ところで、あの後は大丈夫だったか?」
俺はこの一年ずっと頭の片隅にその事が引っかかっていた。
「大丈夫だったよ。結局私もアカウント消しちゃったし、今はねK市在住」
「K市に引っ越したのか」
「一人暮らしを始めたの。こう見えても、花も恥じらう大学一回生なんだよ」
花も恥じらうって、自分で言うかね。そう言って顔を見合わせて笑う。
一年前の出来事は彼女の中に小さな傷を残したものの、彼女はそれをちゃんと克服しているようだ。
「そうだ、そういえば自己紹介がまだだったな。俺は堺 翔太。O市でしがないサラリーマンをしてる」
俺はそう言って右手を差し出す。
「私は橘 小百合。K大学医学部の一回生」
そう言って握り返す手は、女性らしい小さく優しい手だった。この小さな手でバイクを転がしているとは恐れ入る。
「K大ってマジか!?すごいな」
「へへー、まぁね。バイクに乗りたいって言ったら、お父さんがK大に入れたら許可してやるって」
「うわ。お父さんのその条件は、大失敗だったんじゃないのか?」
彼女は「まあね」と笑いながら、嬉しそうにポンポンと自分のバイクのシートを叩く。
「それで大学に通いながら免許を取って、この子が先月納車されたの」
それから二人でバイクの前の縁石に座り、大学の事やバイクの事、オススメのツーリングスポットなんかの話に花を咲かせた。
東の空がだんだん白み始めた頃、なんとなく話題が途切れた後に彼女がポツリとつぶやいた。
「お兄さんさ、私と付きあわない?」
少し驚いて彼女の方を見ると、彼女も自分で言ったことに驚いていたような顔で、耳まで真っ赤にしている。
「いや、私ってけっこう将来有望で、お得な物件だと思うんだよね。バイクも一緒に走りにいけるし。だからその、損はしないっていうか」
「気持ちは嬉しいんだけど、俺は先月結婚したんだよ」
彼女の顔が凍いたようになり、今度は一気に顔色を失っていく。
「そっか。おめでとう、ございます」
彼女は俯くと、地面にぽたぽたと涙の雫が落ちてきた。
俺はそのまま黙って待つことにした。というよりも、正直こんな状況は初めてだったから、どうしていいのか分からなかった。
「やっぱり自分でも思った以上に期待してたのかな。そういう事もあるって気づかない訳ないのに」
しばらくして彼女は顔を上げると、少し目が充血していた。
「初めての告白で、振られちゃったなぁ」
バツが悪そうに笑う。
「俺も初めて告白されたよ。しかもその女性を自分が振る立場になるなんて思いもしなかった」
そうしてお互いに笑いあうと、何故か彼女は一気にテンションが上がり始め、結婚式のことやハネムーンのこと、新婚生活のことを根掘り葉掘り聞いてくるのだった。
気がつくと、いつの東の空がかなり明るくなっていた。
結局徹夜になってしまった。今日は午後から買い物に行く約束だったんだけど、それまで寝かせてくれるかな。
「ところで、俺はいつになったら開放されるんだ?」
「うーん、どうしようかなぁ」
意地悪く言った表情は、さっきまでとは違って大人の女性だった。
どうやら今度は俺が逃げなきゃいけない立場になったらしい。