古の
「私は兄を殺しました」
課外授業というのは、平たく言えば、裁判所の見学だ。罪を裁かれるべき者が仏陀により淡々と宣告される場面をひたすら見物するというごく単純で、精神の擦り切れる勉強。
「お前は、なぜ兄を殺した?」
「お金がなかったからです。兄は病気でした。私が生活費を一人で稼がなくてはなりませんでした……それに耐えられなかったからです」
男は安らかな顔をしていた。
まるで、幸せに包まれているような幸福そうな顔だ。目の前に差し迫った死というものをどう捉えているのだろう。
そして、俺は次の瞬間に仏陀が何を言い、彼がどんな顔をするかを知っている。
「お前は天罰だ」
「な、なぜ…………」
「尊属殺しは、重い。お前は病床の兄を無抵抗のまま殺害した、極めて卑劣な罪人だ。よって、お前のような者を産み落とした村すべてに罪がある、と判断する」
「ま、待ってください、村の人は関係ありません! 私が、全て私が悪いんです!」
「黙れ。魂の消滅を免れただけでもありがたく思うのだな」
たった数分で終わる法廷。ままごとのようだ。近頃、仏陀の判決が極端すぎるのではないかという議論がニュースで流れた。しかし、極少数の意見など瞬く間に叩き潰され、今ではより多くの罪人を裁くことこそが御仏のあるべき姿であると解釈されている。
俺はというと、昨日の夜叉とのやり取りが気になって、夜も眠れなかった。むしろ二回抜いた。最近たまってたからな。
隣の彼女は、その光景を淡々と見下ろしていた。彼女は仏陀にならないと言った。なら、このやり取りをどう思っているのだろうか…………。
俺は御仏が嫌いなのかもしれない。
俺が、この光景を狂っていると思ってしまうのは、反社会的な性格だからなのか。
それとも、システムに組み込まれることを拒み、ウイルスとなってしまったからなのか。
およそ、皆が思っているような考えには至らないだろうと思った。
「あいかわらず、おかしな光景ですわね。ね? 摩訶さん」
「え…………ああ、うん」
「私のお母様も私のお母様もきっと頭がおかしかったに違いありません」
……彼女の母親は、仏陀だったのだろうか。いや、そんなことよりも俺には言わなくてはいけないことがあった。
「俺はどう思われてもいいが……母さんを侮辱することは許さない」
「……へぇ。やはり、あなたの、そのヘラヘラした狐のような顔は仮面なのですね」
「何が言いたいかわからないけど、仮面なんかじゃない。俺は、生まれながらにしてイケメンだ。ヘラヘラも狐も違う!」
「クスクス……気持ち悪い」
笑ったかと思えば瞬間的に凄まじい殺気を放つ夜叉。ちなみに気持ち悪いと言われて感じる変態ではない。さすがに傷つく。
俺たちが微妙な距離感を測りあぐねている間に同行していた二人が近寄ってきた。俺たちとは違い、やる気に満ちた表情でお互いに意見を交換している。
残念ながら羨ましいとは思えなかった。俺だったらあんな風にすることはできないことがわかっているからだ。輪廻でよかった……。
「真面目に聞いていたの、摩訶」
「……まるで俺が真面目じゃないと言いたげじゃないか、久遠ちゃん」
「自覚はあるのね。夜叉ちゃんに迷惑かけちゃだめよ」
「あら、大丈夫ですよ? 摩訶さんはとても面白い方ですし、何だか私たち息が合いますの、ね? 摩訶さん?」
「ああ、体の相性もぴったり!」
夜叉ちゃんは笑いながら後ろから俺のお尻をひねり上げてきた。悲鳴を上げたくなるほどの激痛に耐えながら俺は爽やかな笑顔で久遠ちゃんを迎える。不思議そうに俺たちを交互に見つめる彼女はどこか納得いかないのか、首を傾げている。
確かに、昨日今日でここまで仲良くなる(しているふり)なんておかしな話だ。俺は彼女を極力刺激しないように黙って後に付いて行っているだけだが、夜叉本人はどう思っているのだろうか。
「摩訶は久遠さんが好きなのですか?」
「ちょ、ちょっと……夜叉ちゃん?」
「お、おい、夜叉、て、照れるだろ、ななななななに言い出すんだよ」
俺と久遠ちゃんが戸惑っているのを楽しそうに眺めている。いきなりそんなことを言い出すから、そんな気もない久遠ちゃんまで慌ててしまっている。彼女の尊厳を守るため、俺は久遠ちゃんの前に立ち堂々と心のうちをさらけ出した。
「好きっていうか…………ムラムラするだけだよ」
二人の殺気が俺の周りを充満している。後悔はない。ただ、ちょっと悲しいだけだもん。
「最ッ低!! どうしてあなたいつもそうなの!? 下品なことばっかり言って!」
「ち、違うんだよ……ほんとに、ほんとに久遠ちゃんのことが好きなんだ。それは事実だって」
「どうでもいいのよそんなことは! とにかく、私と摩訶は今、敵同士だってことわかってる?」
俺がぽかんとアホみたいに口を開いているのを見て深く久遠ちゃんはため息をついた。
どうやらまた、彼女の中で俺の評価が下がってしまったらしい。いいかげん、挽回しないと無視されちゃうかもしれない。そうなったらこの世に生きている意味なんてもうないかな…………。
いやいや、そんなことよりも、久遠ちゃんに敵同士であると宣言されたことに納得がいかない。俺たちは同じ御仏としての修業に参加しているだけではないか。そこにどんなわだかまりがあるというのだろう?
「あんた……やっぱり訳もわからずついてきたのね……」
「輪廻……助けてくれ。俺のライフポイントはもうゼロよ」
「じゃあ死ね」
「とどめを刺そうと俺の喉元に刀の切っ先を向けるな!」
あいわらず容赦のない輪廻が久遠ちゃんの隣で俺を睨み続けている。
その強い眼差しに軽く感じてしまったが、それを悟られまいと平静を装う俺、マジ紳士的。
「摩訶、わたくし、疲れてしまったわ。どこかで休みましょう? ね?」
「イエス、ユア、ロード!!」
おっぱい! おっぱい!
ああ、失礼。あまりにも夜叉ちゃんのおっぱ……胸が大きすぎて頭がおかしくなってしまった。
夜叉ちゃんは俺に寄り添うように腕を掴んできた。先ほどまで、あれほど元気に喋っていたのに、本当に疲れているのだろうか? 当然、そんなことを聞けるはずがなく、護衛対象がそう言ったなら彼女を休める場所に連れて行くのが俺の役目。
「じゃあ、休憩室に行こうか」
「ええ、お願い。……わたくしの神様」
「あはは…………またまた夜叉は冗談がおもしろいなー」
俺たちのくだらないやりとりにさぞかしご立腹なのだろう。二人は露骨に嫌悪感を顔に滲ませている。どうやらこの場に俺は必要ないようだ。っていうか、この研修に俺の存在って無意味だった。ああ、帰りたい!
「それじゃ……私はちょっと休んでくるわ。久遠さん、輪廻さん、また午後に」
ゆったりとした、貴族のような振る舞いで夜叉は二人にお辞儀をした。久遠ちゃんはそれに習うようにおっぱいを下に向け……じゃなくて頭を軽く下げ、輪廻も慌ててそれに習うようにやや斜めに頭を下げた。
久遠ちゃんの家は御仏の中では上流階級に位置する。血族から常に仏陀を排出しており、各地方の神として君臨しているのだ。仕草や立ち振る舞いなどはどことなく貴族的な雰囲気を醸し出しているところがある。
そんな久遠ちゃんに見劣りしない夜叉は、やはりどこぞのお嬢様なのだろうか……。
「夜叉さん、あまり摩訶に近づかない方がいいわよ。オカズにされるから」
「ししししししししねーし! 輪廻君!? 変なこというのやめてくれるかな!?」
俺は若干前かがみになりながら、慌てて夜叉の腕を振りほどいた。
まったく、とんでもないことを言いおって……俺がオカズにするのは久遠ちゃんのおっぱいのみだ。他のおっぱいには興味がない。
ちなみにおっぱいソムリエになるつもりはない。あんなことを自称しているやつはきっと童貞だ。童貞乙(笑)みたいに思われるのは納得できない……童貞だけど。
「あら、私は別に構いませんわよ? むしろ、摩訶の童貞を奪ってあげたいくらいだもの」
「ど、童貞じゃねーし! な、何言っているのかしら夜叉ちゃんは全くもう!」
あまりにも衝撃的で刺激的すぎる発言に、俺は動揺を隠せず後ずさってしまった。少し頬を赤く染めた夜叉は蠱惑的に俺を見つめる。熱っぽい視線に危うくやられてしまいそうだ……色んな意味で。
「――――あなたたち、いいかげんにしなさい。輪廻、行くわよ」
「摩訶さんの童貞、もらってもいいんですか?」
……夜叉ちゃんはちょっと空気を読んでもらいたい。今のは明らかに久遠ちゃんが怒っている時の声だ。久遠ちゃんは静かに怒る。本気の時ほど静かに怒る。そしてなかなか許してくれない! 主に俺だけ!
「好きにすれば? 夜叉さんって、そういう男がお好みなの?」
「はいっ! わたくし、バカで間抜けで才能のない無能な殿方が大好きなんです! そのくせ、美人を見るとすぐに盛って、ありもしない妄想を繰り広げる……本当に笑ってしまうわ」
「あはは……ほんと、自分、無能っす…………」
侮蔑と嘲笑の籠った笑い声は、明らかに俺へ向けられたものだった。それくらい鈍い俺でもわかる。
―――――仕方がないことだ。それは事実なのだから。
夜叉にそんなことを言われる筋合いがないことはわかっている。
それと同時に、言われても仕方がないほど俺は実力がない。
その努力する放棄しているのだから、当然だ。笑われることには、慣れている。
「あははははは…………さ、さぁ夜叉、行こうか?」
「まぁ…………あんなにコケにされてまだ平気なの? 面白いわぁ! まるで道化ね! ねぇ、どこまですればあなたは壊れるのかしら、ねぇ? 教えて?」
「そ、そんなこと言われても……わからないよ」
嫌な気持ちはある。夜叉がとても嫌なことを俺に言っているのもわかる。
俺は傷ついている。夜叉に悪口を言ってほしくない。傷つけないでほしい。
だけど、俺は笑うしかない。
ただ、笑うしか…………。
「黙れ」
乾いた音が鳴り響いた。パーンという何かが破裂したような音にも似ている。
輪廻が驚愕を隠せないとでもいうように口に手を当てている。
視線の方へゆっくりと目を向ける。
対峙しているのは、女二人。そんな低能な行為が似つかわしくない彼女たち二人が、至近距離で睨みあっているのだ。
「謝って」
「…………へぇ、久遠さんって案外激情家なのね?」
「私も驚いている。夜叉ちゃんが、そんな性格だったなんて。友達の作れないかわいそうな根暗女だと思っていたから」
「…………死にたいのかしら、あなた?」
死の匂いがした。圧倒的な死の匂い。俺はこの匂いが大嫌いだ(匂い?)
できれば嗅ぎたくない(何を?)だから止めなくてはならない。
なぜだろう。体が勝手に動く。あれほど恐怖に感じていた夜叉がまるで怖くない。
夜叉は多分、平気で人を殺す。体に纏っていた血の匂い(匂い?)は本物だと思う。
久遠ちゃんを助ける。絶対に傷つけさせはしない。
「あの世で後悔しなさいな。偽りの神を崇める、愚か者」
「何を言って…………」
呪詛を唱えようとする夜叉と気づいていない久遠ちゃんの間へと入り込み、彼女を突き飛ばす。あれは神通力などという生易しいものではない。もっと……この世に存在する超常的な何かだ。
いずれにせよ、油断している久遠ちゃんでは絶対に躱すことなどできないだろう。
久遠ちゃんの驚いた顔を見たと同時に俺は強い衝撃を体に浴びる。何が起こっているのかはわからない。ただ、俺は恐怖に染まる。
こんなところで死ぬわけにはいかないという絶望感。
まだ生き続ける必要があるのかという徒労感。
――――観音を守らなければという使命感。
いや、観音だけではない。
俺は、俺は?
俺はいったい…………?
「お前は…………何者だ?」
最初は唯の出会い。
「人間が我らを必要としないのなら、もはや我らの存在意義はない」
ああ…………懐かし声が聞こえる。
「哺乳類は、特に人という生命体は高い知性を持っています。我々も……」
確かに、俺は生きていた。これからも生き続けなくてはならない。
なぜ?
「マカ…………生きろ、マカ…………」
それは呪いだ。
「愛している…………だれよりも」
生き続けるという、永遠の、呪い。