夜叉
「結婚してください」
「え…………っと…………ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに、微笑みながら断った。
乾いた人生に当然訪れた潤い。
舞い降りた俺の救世主。
今まで覆っていた心の霧が、一斉に去っていく感覚。
これが、恋?
「…………夜叉さん、災難ね」
久遠ちゃんが慰めるように彼女の肩を叩いた。そして俺のことを生ごみでも見るような目でにらむ。隣には輪廻も並んでいる。どうやら、俺がこの場にいることに対して驚きを隠せないようだ。
「……どんな手を使ったかは知らないけど、おめでとう、摩訶」
「ありがとう久遠ちゃ」
「近寄らないで、屑」
その声は、ゾッとするほど冷たかった。また会えるわよね? なんてしおらしげに言っていた彼女は、もう過去の遺物でしかないのか? っていうか俺がこの場にいることは俺が一番知りたいんだけど。まぁ、とにかく、俺はこの教室で恋をした。
巨乳な美少女に恋を、した!
「えっと……摩訶さん……でいいですか? わ、私、夜叉っていいます! 今日からよろしくお願いします!」
「わかりました結婚してください」
「あ、あの…………」
夜叉ちゃんは言語が通じない類人猿を前にして困り果てる。俺とていつまでもこんなセクハラまがいのことを言っているわけにはいかない。いかんせん、彼女のおっぱいがデカすぎて脳内が乳乳乳みたいな感じになっている。あの、名前入れると何考えているか当てるやつ、意外と間違っていない。
「えっと……俺は摩訶です。いきなりだけど、俺はあんまり役に立たないんで、迷惑かけるかもしれない。だけど精一杯あなたの護衛を務めさせていただきます」
「ふふふ…………はい!」
俺が真面目かつ恭しく頭を下げると、夜叉ちゃんはほっとしたように胸を撫で下ろした。俺だって紳士だ。時と場所くらい選ぶ。この場でおかしな行動をとるということは、夜叉と名乗る少女への侮辱ととられる。難しいね、生きるのって。
「自己紹介は済んだか……? なら皆、元の席に着くように。今からホームルームを始める」
先生の号令と共に、俺たち四人は席に座る。ここに揃うは、神の座を約束された少女たちとその従者(俺を除く)たちだ。皆、卓越した神通力を操り、その知力をもって、仏陀へと昇格する資格を持つ者。
そして、釈迦へと導かれるものたち(俺を除く)。
「今日からお前たちは一日の数コマを共に過ごしてもらうことになる。課外授業が主になるが、その際に行動してもらうペアは先ほど通告したとおりだ。――――久遠、輪廻」
「「はい」」
「夜叉、と馬鹿」
「は、はい!」
「は、はい!……ってあれ?」
なんか、俺だけ名前を呼ばれなかったような……気のせいだよね!
「……バカは放っておくとして、諸君は生徒たちの代表としてこの場にいる。そのことを忘れてはいけないよ」
気を引き締める上での常套句を学園長が口にする。もちろん、俺を除いて。
だが、俺だって頑張らなくてはいけない理由がある。弱みを握られているからだ。観音のことがバレたら、彼女はただではすまない。
理不尽なのは分かっている。学園長には正直ムカついてる。
でも、俺にはこうするしか方法がない。
…………俺って、弱いなぁ……。
「摩訶さん? 摩訶さん!」
「へ?」
俺の特技であるぼーっとするを使っていたらいつの間にか学園長の説明は終わっていた。目の前には俺のペアである夜叉ちゃんが、スカートの裾を掴みながら必死に俺を呼んでいた。
真っ白な髪がまるで妖精のようで思わず見とれてしまう。加えて、久遠ちゃんに対抗するような大きな果実と、ぱっちりした二重が俺の脳天をブレイクダウン。
おまけに、この初々しい仕草。もう、完璧に恋をした。
「あ、あの、みなさん行ってしまいましたけど……わ、私たち、どうしましょうか!?」
「あ~……とりあえず、今後について話しますかね」
「そ、そうですね! いきなり行動するよりも、ちゃんと計画を練ってからの方が動きやすいですよね! 摩訶さん頭いいですね!」
いや、俺たちの未来について話合おうとしたんですけど……そんなにキラキラした目で見られたら何も言えなくなっちゃうよ…………。
ま、でもおふざけも大概にした方がいいな。俺が役立たずだと彼女に知られるのは時間の問題だが、役立たずは役立たずなりにやることをやらないと。
それにしても『俺が』天神様の護衛なんて…………つくづく、笑えない冗談だと思う。
皮肉の一つでも吐きたい気分だが、いかんせん、目の前の少女が可愛すぎてそれすらも許されない。可愛いは正義、可愛いは世界を救う。
――――冗談。本当はこれっぽっちも…………。
「摩訶さんはわざと目を細くしているのですか?」
「え? え?」
「あ、ご、ごめんなさい! いきなり失礼でしたよね…………なんだか、真剣な表情をなさる時は様子が違いますから……」
「あ~……昔、友達に言われたんですよ、目つきが悪いからいつも笑顔でいなさいって……そしたらいつの間にか変な顔になっちゃって……直らないんです」
「だ、大丈夫ですよ! 私、ブサイクだなんて思ってないですから! 個性的だと思います!」
…………なんだか、帰りたくなってきた。夜叉ちゃんは俺の事ブサイクだと思っているに違いない。今の発言で確証が取れた。
でも泣かない! 男の子だもの!
「でも……何か、覚悟の籠った瞳をしていらっしゃるのですね」
「覚悟、ですか」
「ええ……大切な者を守るために、覚悟を決めた者の目です」
「覚悟など、ありませんよ」
そう、俺は覚悟などしていない。そんな勇気はない。
ただ、観音と出会い、彼女を失いたくないと思った。
彼女の幸せが、身内よって奪われたという事実がそうさせるのかもしれない。
違うな……あの『神の皮を被った鬼』が何をしようが知ったことではない。
ただ、その被害者が偶然、俺の前に姿を現した……その少女に庇護欲をそそられた……?
観音でなかったら、どうだっただろうか。
俺は、助けたのか。
「いつだって、俺は弱虫です」
夜叉ちゃんは、黙って俺の吐露を聞いていた。彼女がおかしなことを言ったせいで当てられてしまったのか、俺までらしくないことを言葉にしてしまった。
俺は変態、俺は変態……俺はロリ……じゃなかった、変態!
「ところで夜叉ちゃん、これからの営みについてだけど」
主に、夜の!
「ふふ……私、あなたがペアで、よかったです」
「え? それはOKということですか?」
主に、淫らな行為の!
「もう……煩悩ばかりでは御仏失格ですよ」
頬を膨らませ、めっと子供を躾けるように指先を俺に向ける夜叉ちゃん。ごめんなさい、あなたを見ていると煩悩しか浮かびません。つまり、あなたの存在そのものが罪だと思うのです俺は。
「これだけは言っておかないといけませんが」
「なんですか?」
「俺は、御仏になるつもりはありません」
「そう……なのですか?」
夜叉ちゃんは驚いたように目を丸くした。口元は上品に手を当てている。育ちの良さというものはこういった何気ない仕草から醸し出されるのかもしれない。俺には縁のない話だが。
「ですが、あなたが仏陀になることを邪魔するつもりはありません。精一杯務めさせてもらう所存です。もっとも、俺のような役立たずなど、すぐに申請して変えてもらった方がいいかもしれませんね。今からでも学園長に」
「私も、仏陀になるつもりはありません」
「伺いを立てた方が……え?」
彼女は、今何と言った? 仏陀になるつもりはない、とそう聞こえた。幻聴ではないか。
俺は確認するように夜叉ちゃんをぽかんと見つめる。ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべながら、もう一度彼女は言った。
「聞こえませんでしたか? 私は仏陀になるつもりはありません」
「なぜ……ですか?」
「理由が必要なのですか? なら、敢えて言わせてもらいます。この世に仏陀は必要ない、と思うからです」
「そ、そんな……それは、冒涜ではありませんか」
「あら? そうなのですか? そうですね。私は御仏を、神を冒涜する背徳者かもしれません。ですが、摩訶さん、誰が私を裁くのでしょうか?」
俺は、動けない。彼女から目を離せない。あまりにもその姿が美しかったからだ。そして、何よりも醜い。
直感でわかる。この子は危ない。危険だ。俺は咄嗟に腰に掛けていた剣を抜く。素人同然の構えでガタガタと震えながら夜叉に牙を向ける。我ながら、滑稽でしかない。
「摩訶さん。おやめなさい。そして、願わくば私の話を聞いていただきたいの」
血の、香りがした。死の誘惑がそこにはあった。
夜叉……彼女は御仏などではない。むしろその反対側にいるべき存在。
それ、すなわち、死を運ぶもの…………。
「あ、あなたは、何者ですか……?」
「わたくしは、わたくしです。夜叉、と先ほど名乗ったではありませんか」
「話を……整理させてください。私は、天神科のあなたを護衛するためにこの場に呼ばれた、そうですよね?」
「その通りです。よろしくお願いしますね」
「でも、あなたは仏陀になりたくない、とおっしゃる」
「ええ、わたくしは神の敵ですから」
「なら、俺は、どうなるのでしょうか?」
相変わらず、彼女は笑顔だった。女神のように微笑んだ彼女は、悪魔のように告げる。
「あなたは――――神の敵です」
「ふっ……ふざけるなっ……俺は」
「あなたを一目見た時からわかりました。あなたは、御仏というシステムに縛られていない奇異な存在であることを」
「違う! 俺はただ、人を裁くことができない弱い奴だ。だから、人間として生きることを選んだ、それだけだ!」
「ですが、あなたはこうやって神の領域で生活している。それは矛盾しているし、とても卑怯なことではありませんか?」
俺は、その言葉に反論する術がなかった。人間として生活すると決めたはずなのに、俺は観音を守るために再び御仏としての道に足を踏み入れた。
守る、という言い訳を糧にして、ただ今の生活を失いたくなかっただけではないか。
人間として生きることに恐怖を感じていたのではないだろうか。
「断言します。あなたは決して人にはなれません。そして神にも、仏陀にもなれません」
「そんなことを……あなたに言われる筋合いはない……!」
「あります。ありますとも…………摩訶さん。あなたは私たちと同じです。ウイルスなのです。この世界を作る……御仏というシステムを破壊するために生み出されたウイルス……」
「あなたは…………神殺し、なのですか?」
息がつまりそうな緊迫した状態で、俺は精一杯言葉を紡いだ。
それは、決して許されない咎人の罪。
「わたくしは、神を裁く者…………いいえ、神を殺す者の一人にすぎません。摩訶さん、この世界はもう終わりなのです。既に月は満ち、時は福音を鳴らす鐘を鳴らしました。わたくしはこれから、あなたのお姉さまを殺すのです」
「……なぜ、そんなことをわざわざ俺に言うのですか?」
「あなたが彼女のたった一人の身内であることが一つ……そして」
俺は一歩も動くことができなかった。夜叉は神を殺す者だといった。
で、あるならば、彼女も神の一人でなくてはならない。
そして、それは本物だ。夜叉は、おぞましいほどの力を持った神。
神、とは何だろう? 俺はこの場に一番ふさわしくない疑問が不意に頭に浮かんだ。
「事実を知ったとしても、あなたには何もできはしないと、そう判断したからですわ」
虫けらでも見るように、彼女はやはり微笑んでいた。
彼女の、夜叉の話を聞いてから、俺は妙に体が重くなっている気がした。おそらく、突然切り出された姉の殺害計画に衝撃を受けたに違いない。
姉…………。
そうだ、と俺はボンヤリした頭で携帯を握りしめた。知らせなくてはならない。姉を狙っている者がいると。気をつけろと。
だが、脳ではわかっていても、体が動かない。
暗くなった教室へ、見張りの教師が訝しげに俺に声をかけたので、早々に学校を出る。辺りはいつの間にか夜の静けさに変わっていた。春の暖かさとは違い、夜はまだ肌を貫くような寒さが容赦なく首筋を刺激する。
「あなたがお姉さまに告げようが、誰かに告げようがわたくしにとって何の障害にもなりません。全ては起こるべくして起きたこと……いわば、運命です」
大嫌いな単語がここで登場してくるとは思わなかった。宗教というのはすぐに運命だの宿命だとの簡単に決めつける。
そんな言葉を聞けば、抗いたくなるのが俺という男だ。
「止めてみせる……!」
「無理ですわ。あなたは弱い。自他ともに認めているではありませんか。今、わたくしを前にして一歩も動けないのがその証拠ですわ。それに……あなたはお姉さまのことが嫌いなのではありませんか?」
「そんなことはない。俺が嫌いなのではなく、あの人が俺の事を嫌っているのです」
言わせんなよ! 多分、もう十年くらい会話をしていない。夜叉が哀れみの籠った目で俺を見てくるのが余計悲しかった。
原因はわかっている。優秀な家でありながら、一切の神通力を使えない劣等種。落ちこぼれの弟。変態。このあたりだと思う。一度だけ姉のパンツをくんかくんかしたことがばれたのかもしれない。だったら、二度と修復は不可能だ。
「俺は、あなたがかの有名な神殺しだとは思っていません」
「…………なんですって?」
「だから、あなたの護衛として監視させてもらいます」
「あなたに、何ができるというの?」
「わかりません。だけど、あなたが悪いことをしたら怒ることはできます」
「うふふふふ…………本当に面白い方。いいでしょう、表面上はわたくしとあなたはパートナー……そういうことね」
「できれば、ずっとパートナーでいたいですけど」
主に、夜の営みの。
「……随分頭が回るのね、摩訶さん。とても校内で有名は落ちこぼれとは思えないわ」
「それは、自ずとわかります。俺が役立たずだってことが。だけどこれは好都合だ。俺をパートナーにすることによって、あなたの足を引っ張ることができる。残念でしたね、夜叉さん」
「夜叉、で構いませんよ。そんなことはないわ。あなたがパートナーでなかったら、きっと今頃この世にはいないもの……」
絶えず感じる死の匂い。夜叉は殺しをしている。それも、何人も。
俺が、止めなくてはいけない。この子をこのままにしてはおけない。
俺が、愛を教えなくては……。
「夜叉、よろしく」
「こちらこそ、摩訶…………末永く生き延びてくださいませ」
ゾッとするような笑み。美人であることをこれほど呪ったことはない。美しさと恐ろしさはどこか共通したところがあるようだ。
どれが夜叉にとって本当の笑顔なのだろうか。
『摩訶』
教室での出来事を思い出し、回想していた俺に突然妖精が現れた。
妖精は、真っ暗闇の中、街灯の頼りない光を浴びながら俺へと一直線に近づいた。
『遅い』
「ご、ごめん……ってまさか今までずっと待ってたの!?」
『そう、摩訶、許すまじ』
世の中の変態紳士、今日だけは感謝します。この子と遭遇しなかったことに。
「だ、誰も待ってくれなんて言ってないんだからね!」
あまりの嬉しさに、俺はつっけんどんな態度をとってしまった。それが気に入らないらしく、観音は俺のお尻をスケッチブックで叩きまくる。どうやら俺のお尻が魅力的なようだ。モテる男はつらい。
「…………帰ろうか?」
僅かに首を縦に振ると、観音は俺の横に立ち、歩き出した。
手が擦れあい、いつの間にか俺は観音の手を握った。やはり小さな手だった。
「……ありがとう」
『お礼は品で』
「なかなかキツイお嬢さんだな……」
『冗談』
いつか、この子も笑顔にすることができるのだろうか。とりあえず、今日のところはおかずを一品増やしてあげることで機嫌をとろうと思った。
好感度アップは、毎日の積み重ね。これ、常識。
握りしめた携帯は制服のポケットへしまった。
まだ、確証はとれていない。
俺にはどうしても、夜叉が神殺しだとは思えなかったからだ。
それに、俺が進言したところで信じるような人ではない。
夜叉、君はいったい、誰なんだ?