後編
「じゃあ、また来るよ」
いつものように病室で一時間過ごしたあと、僕はじいちゃんにそうつぶやく。
じいちゃんは今日もやっぱり目を閉じたままだ。
無口でめったに笑うことのなかったじいちゃん。そんなじいちゃんのことは、あんまり好きじゃなかったはずなのに、毎日ここへやってくる僕。
ただ、行くところがなかったから。何にも話さずにすむから。
今までそう思っていたけれど、もしかして僕は、じいちゃんのことが好きなんじゃないかなんて、最近思う。
じいちゃんは僕に似ている。じいちゃんなら僕の気持ちを、わかってくれるような気がする。
だから、だから僕は――。
「また……会いに来るから」
振り向いてかけた僕の声に、じいちゃんはやっぱり答えてくれなかった。
地下のコンビニで、おにぎりとスポーツドリンクを買い、僕は長椅子に腰掛ける。
ユカにはずっと会っていない。だけど僕はここでユカを待つ。
僕には何もできないけれど、それでも僕はユカに会いたいから。
看護師さんに車いすを押されて通り過ぎるおじいさん。松葉づえをついた若い男の人。コンビニの袋をぶらさげたパジャマ姿のおばさん。
僕はぼんやりと、廊下を行き交う人たちを眺めながら、ぎゅっと手に持った袋を握りしめる。
体中に力を入れていないと、なぜだか泣いてしまいそうだった。
「……ジュンくん」
不意に僕の名前を呼ぶ声。ゆっくりとゆっくりと、その声の方を向く。
僕の目に、車いすに座った、ユカの姿が見えた。
「この前は……ごめんね?」
少し首をかしげて、ユカが僕の顔をのぞきこむ。
「あの日は具合が悪くて、イライラしてたの。ひどいこと言ったよね、あたし」
そういうこともあるんだろうって、頭ではわかったけど、僕は黙ってうつむいていた。
「ジュンくん」
ユカの声がすぐ近くで聞こえる。僕のすぐそばにユカがいる。
「あたしね……明日、転院することになったの」
てんいん? その言葉を頭の中で繰り返し、顔を上げる。
「隣の県の、大学病院に行くの。だからもう……ジュンくんには、会えない」
「ほん……とに?」
ユカがほんの少し口元をゆるませ、僕に向かってうなずく。
「ごめんね? ジュンくん」
「ごめんねって……なんでユカが、謝るの?」
「だって……」
ユカは一瞬言葉をつまらせ、そのあと小さな声で言った。
「昨日も一昨日も、その前もずっと……ここであたしのこと、待っててくれたでしょ?」
そうだよ。だって僕は、ユカに会いたかったから。
「知ってたのに、声かけなかった。ごめんね?」
ユカが僕の前で微笑む。だけどそれは、本当の笑顔じゃない。僕はユカの、本当の笑顔が見たいんだ。
「病気が治ったら……どこかに行こう」
ユカに向かって僕が言う。
「どこでもいい。ユカの行きたいところ。僕が……連れて行ってあげるから」
できそうもない約束だって、中学生の僕にはわかっていた。
だけどもしかしたらできるかもしれないって、そうも思っていた。
ユカが黙ったまま僕を見ている。そしてつぶやくように言った。
「海に……行きたいの」
消えそうなほどかすかなユカの声。きっとユカも思っている。叶うことのない約束かもしれないって。
「ジュンくんが……連れて行って、くれるの?」
「うん」
ユカの前で強くうなずく。やがて静かに花が開くように、ユカが微笑む。
「楽しみに……してる」
僕は目を閉じ、ユカの笑顔と言葉を胸にしまう。
大切に、大切に……これから先、誰にも壊されることのないように。
「夕夏ちゃん」
看護師さんの声が聞こえた。
「こんなところにいたの? お母さんがお部屋で待ってるわよ」
「はぁい」
ユカが返事をしてから僕を見る。
「じゃあ、行くね」
「うん」
ユカがいつものように背中を向けた。僕は椅子に腰かけたまま、その後ろ姿を見つめる。
車いすを動かしかけたユカは、一瞬手を止め、ひとり言みたいにつぶやいた。
「……嘘だから」
ユカの細い肩が、ほんの少し震えている。
「会いたくないなんて言ったの……嘘だから」
その瞬間、僕は思った。
僕が絶対、ユカを連れ出してあげよう。
白い壁に囲まれた小さな窓しかないこの世界から、風が頬をなでる色あざやかな世界へ、僕がユカを、連れて行ってあげよう。
いつか必ず……絶対に。
病院を出ると、さらさらとした雨が降っていた。
僕は立ち止り、夜の空気を胸に吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。
どこか張りつめていた気持ちがほぐれると、涙があふれそうになってしまい、それを振り払うように水たまりを飛び越える。
しっとりと雨に濡れた紫陽花の花。薄闇の向こうに聞こえる救急車のサイレン。
傘を差さずに空を見上げると、雨雲の隙間にぼんやりと、少し欠けた月が見えた。
霧のような雨の中、僕はその月を見上げながら思う。
うっすらでいい。雲に隠れたっていい。それでもそこに存在していてくれたら……僕は君のために、変わることができるから。
「じいちゃん。今日も来たよ」
日差しの差し込む窓際のベッドで、今日もじいちゃんは目を閉じている。
「ほら見て。外、すごくいい天気だよ。梅雨明けしたんだってさ」
半分閉まっていたカーテンを開き、僕はじいちゃんに話しかける。
じいちゃんは僕の声が聞こえているのかいないのか、少し首を動かしただけで、やっぱり目を開けようとはしない。
「おじいちゃん、よかったわねぇ。今日も潤くんが来てくれたわよ」
病室にやってきた看護師さんが、じいちゃんの耳元に大声で言う。
「おじいちゃん、ちゃんと聞こえているのよ。照れくさいから、眠ったふりをしてるんじゃない?」
看護師さんがいたずらっぽくそう言って、僕に笑いかける。
そうなのかな? じいちゃんに、僕の声は届いているのかな?
またあとで来るわね、と言って出て行った看護師さんに頭を下げて、ベッドの脇の丸椅子に腰かける。
音のない病室の中、僕はじいちゃんと同じ時を過ごす。
「じいちゃん……」
目を閉じたままのじいちゃんに、僕はつぶやく。
「僕……好きな子がいるんだ」
返事がないのはわかっていたけど、だからこそ、僕は話せたのかもしれない。
「今はまだ会えないけど……でもその子が頑張ってるの、わかるから」
最後に見た、ユカの震える背中を思い出す。必死に涙をこらえていたような、その小さな背中を。
「だから僕も一緒に……頑張ってみよう、なんて思う」
何もかも、まだ上手くできない。急にすべてを、変えることもできない。
だけどいつか、窓の外の日差しを、ユカと一緒に浴びたいと思ってる。
じいちゃんの口元がかすかに動いた。何を言っているのかわからないけど、僕の声を聞いてくれているような気がした。
「じゃあ、また来る」
ベッドの上のじいちゃんにそう告げて、いつものように部屋を出る。
誰にも言えなかったこの気持ちを、僕は今日じいちゃんにだけ、こっそり伝えることができたんだ。
白い建物から外へ出ると、もうすっかり夏の日差しが降り注いでいた。
肌にまとわりつく空気を払いのけるように、僕は高い空を仰ぐ。
この空をずっとたどって行けば、青く広がる海があるはずだ。
そして僕は想像する。
波の音。潮の匂い。吹き抜ける風。それを僕の隣で感じている、ユカの姿。
ユカが笑ってくれたらいいと思う。いつか僕の隣で、ユカが心から笑ってくれたらいいと思う。
スクールバッグを肩にかけ直し、アスファルトの上に一歩を踏み出す。
昨日の僕より少しだけ、僕は前に進んでいる。