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雨夜の月  作者: 水瀬さら
3/3

後編

「じゃあ、また来るよ」

 いつものように病室で一時間過ごしたあと、僕はじいちゃんにそうつぶやく。

 じいちゃんは今日もやっぱり目を閉じたままだ。

 無口でめったに笑うことのなかったじいちゃん。そんなじいちゃんのことは、あんまり好きじゃなかったはずなのに、毎日ここへやってくる僕。

 ただ、行くところがなかったから。何にも話さずにすむから。

 今までそう思っていたけれど、もしかして僕は、じいちゃんのことが好きなんじゃないかなんて、最近思う。

 じいちゃんは僕に似ている。じいちゃんなら僕の気持ちを、わかってくれるような気がする。

 だから、だから僕は――。

「また……会いに来るから」

 振り向いてかけた僕の声に、じいちゃんはやっぱり答えてくれなかった。


 地下のコンビニで、おにぎりとスポーツドリンクを買い、僕は長椅子に腰掛ける。

 ユカにはずっと会っていない。だけど僕はここでユカを待つ。

 僕には何もできないけれど、それでも僕はユカに会いたいから。

 看護師さんに車いすを押されて通り過ぎるおじいさん。松葉づえをついた若い男の人。コンビニの袋をぶらさげたパジャマ姿のおばさん。

 僕はぼんやりと、廊下を行き交う人たちを眺めながら、ぎゅっと手に持った袋を握りしめる。

 体中に力を入れていないと、なぜだか泣いてしまいそうだった。

「……ジュンくん」

 不意に僕の名前を呼ぶ声。ゆっくりとゆっくりと、その声の方を向く。

 僕の目に、車いすに座った、ユカの姿が見えた。


「この前は……ごめんね?」

 少し首をかしげて、ユカが僕の顔をのぞきこむ。

「あの日は具合が悪くて、イライラしてたの。ひどいこと言ったよね、あたし」

 そういうこともあるんだろうって、頭ではわかったけど、僕は黙ってうつむいていた。

「ジュンくん」

 ユカの声がすぐ近くで聞こえる。僕のすぐそばにユカがいる。

「あたしね……明日、転院することになったの」

 てんいん? その言葉を頭の中で繰り返し、顔を上げる。

「隣の県の、大学病院に行くの。だからもう……ジュンくんには、会えない」

「ほん……とに?」

 ユカがほんの少し口元をゆるませ、僕に向かってうなずく。

「ごめんね? ジュンくん」

「ごめんねって……なんでユカが、謝るの?」

「だって……」

 ユカは一瞬言葉をつまらせ、そのあと小さな声で言った。

「昨日も一昨日も、その前もずっと……ここであたしのこと、待っててくれたでしょ?」

 そうだよ。だって僕は、ユカに会いたかったから。

「知ってたのに、声かけなかった。ごめんね?」

 ユカが僕の前で微笑む。だけどそれは、本当の笑顔じゃない。僕はユカの、本当の笑顔が見たいんだ。


「病気が治ったら……どこかに行こう」

 ユカに向かって僕が言う。

「どこでもいい。ユカの行きたいところ。僕が……連れて行ってあげるから」

 できそうもない約束だって、中学生の僕にはわかっていた。

 だけどもしかしたらできるかもしれないって、そうも思っていた。

 ユカが黙ったまま僕を見ている。そしてつぶやくように言った。

「海に……行きたいの」

 消えそうなほどかすかなユカの声。きっとユカも思っている。叶うことのない約束かもしれないって。

「ジュンくんが……連れて行って、くれるの?」

「うん」

 ユカの前で強くうなずく。やがて静かに花が開くように、ユカが微笑む。

「楽しみに……してる」

 僕は目を閉じ、ユカの笑顔と言葉を胸にしまう。

 大切に、大切に……これから先、誰にも壊されることのないように。


「夕夏ちゃん」

 看護師さんの声が聞こえた。

「こんなところにいたの? お母さんがお部屋で待ってるわよ」

「はぁい」

 ユカが返事をしてから僕を見る。

「じゃあ、行くね」

「うん」

 ユカがいつものように背中を向けた。僕は椅子に腰かけたまま、その後ろ姿を見つめる。

 車いすを動かしかけたユカは、一瞬手を止め、ひとり言みたいにつぶやいた。

「……嘘だから」

 ユカの細い肩が、ほんの少し震えている。

「会いたくないなんて言ったの……嘘だから」

 その瞬間、僕は思った。

 僕が絶対、ユカを連れ出してあげよう。

 白い壁に囲まれた小さな窓しかないこの世界から、風が頬をなでる色あざやかな世界へ、僕がユカを、連れて行ってあげよう。

 いつか必ず……絶対に。


 病院を出ると、さらさらとした雨が降っていた。

 僕は立ち止り、夜の空気を胸に吸い込み、それをゆっくりと吐き出す。

 どこか張りつめていた気持ちがほぐれると、涙があふれそうになってしまい、それを振り払うように水たまりを飛び越える。

 しっとりと雨に濡れた紫陽花の花。薄闇の向こうに聞こえる救急車のサイレン。

 傘を差さずに空を見上げると、雨雲の隙間にぼんやりと、少し欠けた月が見えた。

 霧のような雨の中、僕はその月を見上げながら思う。

 うっすらでいい。雲に隠れたっていい。それでもそこに存在していてくれたら……僕は君のために、変わることができるから。


「じいちゃん。今日も来たよ」

 日差しの差し込む窓際のベッドで、今日もじいちゃんは目を閉じている。

「ほら見て。外、すごくいい天気だよ。梅雨明けしたんだってさ」

 半分閉まっていたカーテンを開き、僕はじいちゃんに話しかける。

 じいちゃんは僕の声が聞こえているのかいないのか、少し首を動かしただけで、やっぱり目を開けようとはしない。

「おじいちゃん、よかったわねぇ。今日も潤くんが来てくれたわよ」

 病室にやってきた看護師さんが、じいちゃんの耳元に大声で言う。

「おじいちゃん、ちゃんと聞こえているのよ。照れくさいから、眠ったふりをしてるんじゃない?」

 看護師さんがいたずらっぽくそう言って、僕に笑いかける。

 そうなのかな? じいちゃんに、僕の声は届いているのかな?

 またあとで来るわね、と言って出て行った看護師さんに頭を下げて、ベッドの脇の丸椅子に腰かける。

 音のない病室の中、僕はじいちゃんと同じ時を過ごす。


「じいちゃん……」

 目を閉じたままのじいちゃんに、僕はつぶやく。

「僕……好きな子がいるんだ」

 返事がないのはわかっていたけど、だからこそ、僕は話せたのかもしれない。

「今はまだ会えないけど……でもその子が頑張ってるの、わかるから」

 最後に見た、ユカの震える背中を思い出す。必死に涙をこらえていたような、その小さな背中を。

「だから僕も一緒に……頑張ってみよう、なんて思う」

 何もかも、まだ上手くできない。急にすべてを、変えることもできない。

 だけどいつか、窓の外の日差しを、ユカと一緒に浴びたいと思ってる。

 じいちゃんの口元がかすかに動いた。何を言っているのかわからないけど、僕の声を聞いてくれているような気がした。

「じゃあ、また来る」

 ベッドの上のじいちゃんにそう告げて、いつものように部屋を出る。

 誰にも言えなかったこの気持ちを、僕は今日じいちゃんにだけ、こっそり伝えることができたんだ。


 白い建物から外へ出ると、もうすっかり夏の日差しが降り注いでいた。

 肌にまとわりつく空気を払いのけるように、僕は高い空を仰ぐ。

 この空をずっとたどって行けば、青く広がる海があるはずだ。

 そして僕は想像する。

 波の音。潮の匂い。吹き抜ける風。それを僕の隣で感じている、ユカの姿。

 ユカが笑ってくれたらいいと思う。いつか僕の隣で、ユカが心から笑ってくれたらいいと思う。

 スクールバッグを肩にかけ直し、アスファルトの上に一歩を踏み出す。

 昨日の僕より少しだけ、僕は前に進んでいる。

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