中編
中学校の教室内で、僕はいつも一人だ。
小学校の頃から、人と向き合うと、僕は言葉が上手く出てこなかった。
一生懸命話そうとすればするほど、余計緊張して、しゃべり方が人より少し変になって、よく笑われた。
それでも中学に入ったばかりの頃は、友達を作ろうと、勇気を出して自分から話しかけてみたりもした。だけどやっぱり上手くいかなくて。
ある日、クラスの女子が、僕のことを「キモい」って言っていたのを偶然聞いた。
そうか。やっぱりそう思われていたんだ。
勉強はできない。スポーツもダメ。暗くて、友達もいない、何のとりえもない僕なんか、そう思われて当たり前だ。
人と付き合うのは疲れる。だから僕は無理して付き合うのをやめた。
午後になると雨が降ってきた。僕は鼠色の空の下で傘を開く。
女子生徒たちの笑い声を聞きながら校門を出ると、僕は水たまりを蹴って、あの白い建物へ向かって駆け出した。
「とうとう関東も梅雨入りですって」
じいちゃんのベッドの脇でぼんやりとしていたら、部屋に入ってきた看護師さんが言った。
「毎日うっとうしくて、嫌になるわよねぇ」
看護師さんの声を聞きながら、窓の外をながめる。目をこらすと、細い雨が降り続いているのが見える。
だけどその雨の冷たさも、じめじめした空気も、やっぱりこの中からはわからないんだ。
梅雨入りした今日も、じいちゃんはベッドの上で無表情のままだった。
「外、雨降ってるの?」
僕の持っている傘を見て、ユカが言う。一日中この建物の中にいるユカには、外の天気がよくわからない。
「うん。降ってた」
「そういえば梅雨入りしたって、テレビで言ってたもんね」
ユカがそう言って僕に笑いかける。僕はさりげなく、そんなユカから視線をはずす。
するとユカがふっと笑って、僕に言った。
「ねぇ、ずっと聞きたかったんだけど」
僕は前を向いたまま、耳だけユカに傾ける。
「ジュンくんって、彼女いるの?」
「えっ」
思わずユカに振り向いた。ユカは催促するような顔つきで、僕の答えを待っている。
「い、いないよ」
「えー、そうなの? でも好きな子はいるんでしょ?」
僕はユカの顔を見た。真っ白で透き通るような肌をした、ユカの顔を。
「好きな子は……いるけど」
「じゃあ告白しちゃえば? そんで付き合っちゃえばいいのに」
ユカは簡単に言うけど、そんな簡単にできるわけがない。
「ああ、いいなぁ、そういうの。めっちゃ憧れる」
そう言ったあと、ユカは僕から目をそらし、うっとりするような顔つきで、廊下の先を見つめた。
「特別なことなんてしなくていいの。放課後教室に残って二人きりでお話するとか、学校から一緒に帰るとか。そういうのだけでいいの」
僕は黙ってユカを見る。ユカが僕に視線を戻し、いたずらっぽく笑う。
「こんな雨の日は、傘を忘れたふりをするの。それで彼の傘に入れてもらって、紫陽花の咲いた小道を並んで帰るの」
僕はやっぱり何も言えずに、持っている傘の柄をぎゅっと握る。
「夏になったら太陽の下で、暑いねぇ、海行きたいねぇ、ってアイス食べながら話して、冬になったら雪の降る中を、冷たい手を握りあって歩くの。ね? いいでしょ?」
僕の前で笑うユカ。なんだかとても幸せそうに。だけど僕の胸は、なぜだかすごく痛くて、もうそれ以上ユカの言葉を聞きたくなかった。
「ユカ……」
「ん?」
「もう、時間だよ」
ユカが顔を上げて時計を見る。見慣れてしまったコンビニの時計は、もう六時を回っていた。
昼休みの教室は、いつも以上にざわついていた。どんよりとした天気が続いているせいで、生徒たちは狭い空間の中に閉じ込められたままだ。
女子のグループに男子がちょっかいを出して、キャーキャー騒いでいる。僕は自分の席に座ったまま、そんな声を聞いている。
笑い合って、ふざけ合って、どうでもいいことに文句を言っているみんなは、ユカのことを知らない。
あの白い建物の中に閉じ込められて、雨の冷たさも、太陽の眩しさも、風の爽やかさも感じることのできないユカのことを知らない。
そして僕も知らないんだ。
僕はユカと違って、何だってできるし、どこへだって行ける。ただ僕は、それをやらないだけ。
ユカのつらい気持ちなんて、こんな僕にわかるわけなんてないんだ。
その日もいつもと同じように、じいちゃんの部屋で一時間を過ごし、そのあと地下のあの場所へ行った。
だけど何分待っても、ユカはそこへ来なかった。
どうしてだろう。何かあったのかな。でも僕はユカの病室を知らない。
僕は何もできないまま、面会時間が終わるまで、ただ椅子に座ってユカを待っていた。
あれから一週間。僕はユカに会っていない。
ざわざわとした、コンビニ前の廊下の椅子で、僕はユカのことを思う。そしてもしかしたら、もう二度と、ユカに会えないんじゃないかなんて考える。
僕の頭に浮かぶのは、じいちゃんの隣の空っぽになったベッド。あそこにいたおじいさんは、いったいどこへ行ったんだろう。
胸の奥がざわざわする。喉が渇いて、指先が震える。
どうしよう。このままユカに会えなくなったら。
僕はまだ何もしていない。僕はユカに、まだ何も伝えていない。
「ジュンくん」
名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。
僕の目の前に、車いすに乗ったユカの姿があった。
「ごめんね。先週から熱出しちゃって……ベッドの中でずっと過ごしてたの」
一週間ぶりに見たユカは、マスクをしていて、顔色がいつもよりさらに白かった。
「無理しないで、いいよ」
僕が言うと、ユカは小さく微笑んだ。
「でももう大丈夫だから」
僕たちの前を行き交う人々。いつもの廊下。いつもの光景。雨の音も、風の匂いもしない場所。
「ユカ……あのさ」
「ん?」
いつもと同じように、ユカがちょっと首をかしげて僕の顔をのぞきこむ。
僕はそんなユカから視線をそらさず、小さく深呼吸してからつぶやいた。
「僕、ユカに……ずっと、嘘ついてた」
「え?」
「嘘だったんだ。全部」
ユカが黙って僕を見ている。胸の鼓動が速くなって、少し息苦しくなったけど、僕は続けて言った。
「僕は……ユカが想像しているような人間じゃない。勉強はできないし、サッカーなんてやってないし……人と上手く話せないから、友達だっていない」
僕はそんな自分が嫌いだった。きっとユカにも嫌われると思った。だから嘘をついたんだ。
僕はユカに、嫌われたくなかったから。
ユカの視線が突き刺さるように痛い。思わず目をそらそうとした時、ユカがふっと笑って僕に言った。
「わかってたよ。そんなの」
そして僕から視線をそらし、つぶやくように続ける。
「わかってたのにわざと知らないふりして、からかってたの。気づかなかった?」
「え……」
「だって悔しかったんだもん。学校に行くこと、友達としゃべること、好きな人を作ること……全部この人はできるのに、なんであたしにはそれができないんだろうって……」
少し微笑むように目を細め、そのあとユカは視線を落とす。
「羨ましくて妬ましくて……ずっと恨んでた。ジュンくんのこと」
ずっと恨んでた――僕のことを?
「あたしも、嘘つきなんだ」
ユカの声が遠く聞こえる。僕のすぐ隣にいるのに。ユカの声がすごく遠くに聞こえる。
ユカが僕に背中を向けるように、車いすを動かした。
「ユカ……待って……」
咄嗟に伸ばした僕の手が、ユカの細い手首に触れる。
「さわらないで!」
ユカが叫ぶように言って、僕の手を振り払った。
「もう……会いたくないの」
ユカの消えそうな声が、僕の耳に聞こえた。
その日から雨は降り続いた。何日も、何日も。
僕は雨の中に傘を開いて歩く。しっとりとした空気の中、青紫色の紫陽花が濡れている。
――彼の傘に入れてもらって、紫陽花の咲いた小道を並んで帰るの。
あの日、幸せそうな顔をして、そんなことを話したユカ。
幸せそう? ユカはあの時、本当に幸せそうな顔をしていたのだろうか?
傘を持った手を下ろし、空を仰ぐ。雨の粒を顔に感じながら、僕にできることを考える。
だけどどんなに考えたって、僕がユカにしてあげられることなんて、何も思い浮かばなかった。