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雨夜の月  作者: 水瀬さら
1/3

前編

 まだ五月の終わりだというのに、日差しは爽やかさを通り越し、真夏のように強かった。

 無意識のうちに日かげを求めながら、アスファルトの上を足早に歩き、僕はいつもの通り白い建物の中へ入る。

 面会受付のあるロビーは、ひんやりと冷えていて、額ににじんだ汗が一気に引いていくのがわかった。


 五階までエレベーターで上がり、一番奥の二人部屋へ向かう。

 窓際のベッドで仰向けになっている僕の祖父は、今日も目を閉じていた。

「じいちゃん。来たよ」

 誰にでもなくそうつぶやく。じいちゃんは目を開けようとしない。

 僕の声は、目の前にいるじいちゃんに届かない。


 中学校の授業が終わると、僕はまっすぐここへ来る。

 半年くらい前、じいちゃんがこの病院に入院してからずっと。

 じいちゃんは寝ているのか起きているのか、いつもうとうととしていて、僕が来ても何もしゃべらない。だから僕も何もしゃべらない。


 ベッドの脇の丸椅子に腰かけ、なんとなく窓の外を眺める。

 窓越しに見える空は青く、雲は白い絵の具で描いたように真っ白だ。

 だけど、肌にまとわりつく蒸し暑さも、風の生ぬるさも、ここからは感じられない。

 窓は今日も閉じられたままだ。


 じいちゃんがかすかに動いて、うめくような声を出した。

 その声を、廊下を歩く看護師さんの明るい声がかき消す。

 隣のベッドにいたおじいさんは、一週間前にいなくなった。

 どこへ行ったのか僕は知らない。

 僕はただ毎日ここへ来て、何も話さずに一時間、じいちゃんのそばにいるだけだ。

 けれど僕にとってそれは、学校にいるより、家に帰るより、どこか落ち着く時間だった。


「そろそろ帰るよ」

 五時になった。僕はいつものように椅子から立ち上がる。

「また来るから」

 目を閉じたままのじいちゃんは、今日も何も答えなかった。


 スクールバッグを肩にかけ、病室を出る。

 顔見知りの看護師さんが、僕に声をかけてくる。

「ああ、潤くん。帰るの?」

「はい」

「また来てあげてね。おじいちゃん、喜んでるから」

 そうかな? 僕にはそうは見えない。


 病院の看護師さんや先生たちは、僕のことを、おじいちゃん思いの良い孫だと思っているみたいだけど、それは違う。

 僕の両親は共働きで、僕は小さい頃から、近所に住んでいた祖父母の家に預けられることが多かった。でもじいちゃんと、特別仲がよかったわけではない。

 話し好きで、面倒見の良いばあちゃんとは対照的に、じいちゃんは無口で笑った顔を見たことがなかった。

 だから僕はじいちゃんのことが苦手だった。はっきり言って少し怖かった。

 それなのに、そのじいちゃんが入院してから、僕は毎日ここへ来る。

 別にじいちゃんのためじゃない。

 この部屋にいれば、何も話さずにすむから。ただそれだけなんだ。


 エレベーターに乗って地下へ行く。

 地下にあるコンビニには、お見舞いの人や、入院患者さんたちがたくさん来ていた。

 僕はそこでおにぎりとスポーツドリンクを買って、廊下にある長椅子に座る。

 目の前を、何人もの人たちが行き交うこの場所は、静かな病棟とは、まるで雰囲気が違って見えた。


 コンビニにある時計に目をやる。五時十五分。いつもより少し遅い。

 うつむいて、おにぎりの入った袋をぎゅっと握りしめると、僕の耳に聞き慣れた声が聞こえた。

「ジュンくん!」

 顔を上げると、車いすに乗った女の子が、僕に向かって笑いかけてくれた。

 ユカだ。今日も僕はここで、ユカに会えた。


「ごめんねぇ? 午前中の検査で疲れちゃったから、午後はうとうとしちゃって」

 ユカはそう言って僕に笑いかける。

「……大丈夫、なの?」

「うん。平気平気。ぐっすり眠ったから、今晩もう、眠れないかも」

 長椅子の横に車いすを止め、ユカは僕の顔をのぞきこむ。

「ねぇ、どうだった?」

「え、なにが?」

「テストの結果。今日返ってくるって言ってたでしょ?」

「ああ」

 そういえば昨日、そんな話をしたんだっけ。

「まあまあ、かな」

「すごーい!」

 ユカが僕の隣で大げさに手を叩く。僕はバッグの底でぐしゃぐしゃになっている、平均点以下の答案用紙を思い浮かべる。

「ジュンくん、お勉強もできるんだ。サッカーも上手いし」

「上手いとは言ってないよ」

「そうだっけ? あ、もうすぐワールドカップだね。テレビ見なくちゃ。ジュンくんは好きなサッカー選手とかいるの?」

 ユカの明るい声を片耳で聞きながら、僕の胸がキリキリと痛む。

 ユカの知っている僕は、勉強ができて、サッカーが上手くて、友達もたくさんいる、そんな中学生なんだ。


 ユカと初めて話をしたのは、まだ肌寒い、桜の花が咲く前のこと。

 じいちゃんの病室を出た後、僕は毎日ここへ来て、おにぎりを食べながら時間をつぶしていた。

 なんとなく、薄暗いあの家には帰りたくなかったから。

「いつも食べてるね。それ」

 そんな僕に突然声をかけてきたのが、車いすに乗ったユカだった。

「好きなの? 鮭おにぎり」

 ユカがそう言って、無邪気な顔で笑う。

 僕は意味がわからなかった。見ず知らずの人間に、どうして声なんかかけられるのか。僕だったらそんなこと、絶対できない。

 ただでさえ、人と話すのは苦手なのに。


 僕はユカの前で黙っていた。正直、早くどこかに行ってくれないかな、と思っていた。

「あ、ごめんね? じろじろ見られたら食べにくいよね?」

 ユカが僕の前から移動して、椅子の横に並ぶ。

「ここにいるから。どうぞ食べて?」

 食べてって言われても、食べられるわけなんてない。僕は食べかけのおにぎりを袋の中へ突っ込んで、隣にいるユカを見た。

「ん?」

 大きな目を見開き、少し首をかしげて、僕のことを見るユカ。

 肌は異常なほど白くて、細い腕には点滴の痕のようなあざがいくつかついていて、頭にニットの帽子をかぶっていた。

 何の病気なんだろう。すぐにそんな疑問が浮かんだけれど、そんなことは聞けない。わかるのは彼女が、僕のクラスにいる女の子たちとは違うってことだけだ。

「食べていいよ? あたしなんか気にしないで」

「もう、いらない」

「そうなの?」

 屈託のない表情で、ユカはずっと前から知り合いだったように、僕に話しかけてくる。

「中学生?」

 ユカが僕の制服を見て言う。

「うん」

「何年生?」

「四月になったら二年」

「あたしと同じだ。ずっと学校行ってないから、二年生になれませんって言われちゃうかもしれないけど」

 そう言って笑うユカの顔を、僕は少しドキドキしながら見つめていた。


「あ、もう六時」

 コンビニの時計をユカが見上げる。

「ご飯の時間だ」

「今日の献立は何?」

「何だろう。どうでもいいや。あんまり食べたくないし」

 僕の隣で笑うユカが、何の病気なのか、まだ僕は知らない。

 ユカの病室がどこなのかも知らないし、いつから入院しているのか、いつまで入院しているのかも、何も知らない。

 そして僕たちは、お互いのフルネームさえ、伝え合っていないんだ。

「じゃあね、ジュンくん」

「うん」

「また明日」

 ユカが小さく手を振って、僕に背中を向けて去って行く。僕は車いすに乗ったその背中を、見えなくなるまで見送る。

 ――また明日。

 ユカが言ったその一言だけを支えに、僕はまた明日も学校へ行く。

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