前編
まだ五月の終わりだというのに、日差しは爽やかさを通り越し、真夏のように強かった。
無意識のうちに日かげを求めながら、アスファルトの上を足早に歩き、僕はいつもの通り白い建物の中へ入る。
面会受付のあるロビーは、ひんやりと冷えていて、額ににじんだ汗が一気に引いていくのがわかった。
五階までエレベーターで上がり、一番奥の二人部屋へ向かう。
窓際のベッドで仰向けになっている僕の祖父は、今日も目を閉じていた。
「じいちゃん。来たよ」
誰にでもなくそうつぶやく。じいちゃんは目を開けようとしない。
僕の声は、目の前にいるじいちゃんに届かない。
中学校の授業が終わると、僕はまっすぐここへ来る。
半年くらい前、じいちゃんがこの病院に入院してからずっと。
じいちゃんは寝ているのか起きているのか、いつもうとうととしていて、僕が来ても何もしゃべらない。だから僕も何もしゃべらない。
ベッドの脇の丸椅子に腰かけ、なんとなく窓の外を眺める。
窓越しに見える空は青く、雲は白い絵の具で描いたように真っ白だ。
だけど、肌にまとわりつく蒸し暑さも、風の生ぬるさも、ここからは感じられない。
窓は今日も閉じられたままだ。
じいちゃんがかすかに動いて、うめくような声を出した。
その声を、廊下を歩く看護師さんの明るい声がかき消す。
隣のベッドにいたおじいさんは、一週間前にいなくなった。
どこへ行ったのか僕は知らない。
僕はただ毎日ここへ来て、何も話さずに一時間、じいちゃんのそばにいるだけだ。
けれど僕にとってそれは、学校にいるより、家に帰るより、どこか落ち着く時間だった。
「そろそろ帰るよ」
五時になった。僕はいつものように椅子から立ち上がる。
「また来るから」
目を閉じたままのじいちゃんは、今日も何も答えなかった。
スクールバッグを肩にかけ、病室を出る。
顔見知りの看護師さんが、僕に声をかけてくる。
「ああ、潤くん。帰るの?」
「はい」
「また来てあげてね。おじいちゃん、喜んでるから」
そうかな? 僕にはそうは見えない。
病院の看護師さんや先生たちは、僕のことを、おじいちゃん思いの良い孫だと思っているみたいだけど、それは違う。
僕の両親は共働きで、僕は小さい頃から、近所に住んでいた祖父母の家に預けられることが多かった。でもじいちゃんと、特別仲がよかったわけではない。
話し好きで、面倒見の良いばあちゃんとは対照的に、じいちゃんは無口で笑った顔を見たことがなかった。
だから僕はじいちゃんのことが苦手だった。はっきり言って少し怖かった。
それなのに、そのじいちゃんが入院してから、僕は毎日ここへ来る。
別にじいちゃんのためじゃない。
この部屋にいれば、何も話さずにすむから。ただそれだけなんだ。
エレベーターに乗って地下へ行く。
地下にあるコンビニには、お見舞いの人や、入院患者さんたちがたくさん来ていた。
僕はそこでおにぎりとスポーツドリンクを買って、廊下にある長椅子に座る。
目の前を、何人もの人たちが行き交うこの場所は、静かな病棟とは、まるで雰囲気が違って見えた。
コンビニにある時計に目をやる。五時十五分。いつもより少し遅い。
うつむいて、おにぎりの入った袋をぎゅっと握りしめると、僕の耳に聞き慣れた声が聞こえた。
「ジュンくん!」
顔を上げると、車いすに乗った女の子が、僕に向かって笑いかけてくれた。
ユカだ。今日も僕はここで、ユカに会えた。
「ごめんねぇ? 午前中の検査で疲れちゃったから、午後はうとうとしちゃって」
ユカはそう言って僕に笑いかける。
「……大丈夫、なの?」
「うん。平気平気。ぐっすり眠ったから、今晩もう、眠れないかも」
長椅子の横に車いすを止め、ユカは僕の顔をのぞきこむ。
「ねぇ、どうだった?」
「え、なにが?」
「テストの結果。今日返ってくるって言ってたでしょ?」
「ああ」
そういえば昨日、そんな話をしたんだっけ。
「まあまあ、かな」
「すごーい!」
ユカが僕の隣で大げさに手を叩く。僕はバッグの底でぐしゃぐしゃになっている、平均点以下の答案用紙を思い浮かべる。
「ジュンくん、お勉強もできるんだ。サッカーも上手いし」
「上手いとは言ってないよ」
「そうだっけ? あ、もうすぐワールドカップだね。テレビ見なくちゃ。ジュンくんは好きなサッカー選手とかいるの?」
ユカの明るい声を片耳で聞きながら、僕の胸がキリキリと痛む。
ユカの知っている僕は、勉強ができて、サッカーが上手くて、友達もたくさんいる、そんな中学生なんだ。
ユカと初めて話をしたのは、まだ肌寒い、桜の花が咲く前のこと。
じいちゃんの病室を出た後、僕は毎日ここへ来て、おにぎりを食べながら時間をつぶしていた。
なんとなく、薄暗いあの家には帰りたくなかったから。
「いつも食べてるね。それ」
そんな僕に突然声をかけてきたのが、車いすに乗ったユカだった。
「好きなの? 鮭おにぎり」
ユカがそう言って、無邪気な顔で笑う。
僕は意味がわからなかった。見ず知らずの人間に、どうして声なんかかけられるのか。僕だったらそんなこと、絶対できない。
ただでさえ、人と話すのは苦手なのに。
僕はユカの前で黙っていた。正直、早くどこかに行ってくれないかな、と思っていた。
「あ、ごめんね? じろじろ見られたら食べにくいよね?」
ユカが僕の前から移動して、椅子の横に並ぶ。
「ここにいるから。どうぞ食べて?」
食べてって言われても、食べられるわけなんてない。僕は食べかけのおにぎりを袋の中へ突っ込んで、隣にいるユカを見た。
「ん?」
大きな目を見開き、少し首をかしげて、僕のことを見るユカ。
肌は異常なほど白くて、細い腕には点滴の痕のようなあざがいくつかついていて、頭にニットの帽子をかぶっていた。
何の病気なんだろう。すぐにそんな疑問が浮かんだけれど、そんなことは聞けない。わかるのは彼女が、僕のクラスにいる女の子たちとは違うってことだけだ。
「食べていいよ? あたしなんか気にしないで」
「もう、いらない」
「そうなの?」
屈託のない表情で、ユカはずっと前から知り合いだったように、僕に話しかけてくる。
「中学生?」
ユカが僕の制服を見て言う。
「うん」
「何年生?」
「四月になったら二年」
「あたしと同じだ。ずっと学校行ってないから、二年生になれませんって言われちゃうかもしれないけど」
そう言って笑うユカの顔を、僕は少しドキドキしながら見つめていた。
「あ、もう六時」
コンビニの時計をユカが見上げる。
「ご飯の時間だ」
「今日の献立は何?」
「何だろう。どうでもいいや。あんまり食べたくないし」
僕の隣で笑うユカが、何の病気なのか、まだ僕は知らない。
ユカの病室がどこなのかも知らないし、いつから入院しているのか、いつまで入院しているのかも、何も知らない。
そして僕たちは、お互いのフルネームさえ、伝え合っていないんだ。
「じゃあね、ジュンくん」
「うん」
「また明日」
ユカが小さく手を振って、僕に背中を向けて去って行く。僕は車いすに乗ったその背中を、見えなくなるまで見送る。
――また明日。
ユカが言ったその一言だけを支えに、僕はまた明日も学校へ行く。