Catch[7]="ウォータで";
倒れこんだルサ=ルカの背に、無数の傷が刻まれていた。
自ら作り上げた血だまりに伏せた姿に、もしかして本当に殺してしまったのでは、と背筋が寒くなったが、俺が近づくと、ルサ=ルカはわずかに顔を上げ、笑ってみせた。
「大丈夫。起き上がるのは、無理、だけど、このくらいじゃ、死なない……」
ほっと胸をなでおろす。殺す気でかからなければ無理な戦いだったが、殺したかったわけではない。生きていてくれてよかった。
見れば、傷は多いし深そうではあるが、徐々に塞がりだしているのが分かる。さすがのリジェネーション能力だ。
「すごいね、本気で戦うのって、楽しい……」
苦しそうな息の下から、それでも笑顔でルサ=ルカは言う。
「……でも、ごめんね。鍵、もう、開いてるから……」
だから自分に構わずに行け。目でそう語る。
俺は何も言わず、ルサ=ルカに頭を下げると、その場を後にした。
扉に手をかけると、難なく開いた。向こう側は、廊下というには少し広いが、部屋というほどでもないスペースだ。いくつか扉があるが、正面の大きな扉が水神の間だろう。
(ちょっとおとなげなかったかな)
立ち止まって、ちらりと思う。「別に怒ってないですよ」くらい言ってもよかったのかもしれない。
無理やり戦わされはしたが、俺はルサ=ルカには腹を立てていなかった。ただ、いくらリジェネーションが使えるとはいえ、親しい知人を傷つけていい気持ちはしない。何も言えなかったのは、その辺が微妙にもやもやしているからだ。怒っているわけではないが、何にも気にしていないわけではない。
だが、ルサ=ルカと俺を戦わせようと画策した奴らは他にいる。
腹を立てるとしたら、まずそちらに対してだろう。
ひとりは水神だ。
考えてみれば当たり前のことだが、水神の神殿、それもこんな奥の奥でこれだけ暴れて、水神が気づかないはずがない。むしろ、水神公認だと考えたほうが自然だろう。軍の高官であるルサ=ルカが、神殿の中枢に近い部屋に一人でいたのも、水神の後ろ盾あってのことだと思えば納得がいく。
だが、水神がすべてを仕組んだとは思えない。ルサ=ルカと戦う前、いや、そもそも神殿にやってくる前から、あまりにも出来すぎた偶然が続いている。目的は分からないが、何かが意図されているのは確かだ。
それができるとしたら、あいつしかいない。
問いただして、すべてを明らかにしてやる。そう思いながら、俺は水神がいるのであろう部屋の扉に手をかけた。
//--------
扉を開けると、目の前は一面の水だった。それが中央からカーテンのようにするすると分かれて、部屋へと道が開く。
その奥から、聞きなれた声がした。
「あ、カツミ! えっ、どうやって来たの? ……っていうか、どうしたの? そんな顔して」
弾んだ声で言うサヤの、片方の手には焼き菓子。クロスのかかったテーブルには、お菓子が盛られた籠が載っている。陶器のティーポットに、ティーカップが四つ。
……どう見ても、楽しいティータイムの最中だ。
とてもじゃないが、サヤが水神の巫女になって神殿に一生閉じ込められる、なんて深刻な話をしていたようには見えない。
(まあ、そうじゃないかと思ってはいたけどさ……)
神殿におびき出されたのがルサ=ルカの仕組んだことだとしたら、そもそもの「サヤが水の巫女に」というのが嘘であってもおかしくない。薄々察してはいたが、気は抜ける。
「あなたがなかなか帰ってこないから、心配して来てくれたのですよ」
サヤそっくりの声が言う。サヤの隣の椅子に腰掛けている少女、白い肌に長い黒髪、顔立ちもサヤに瓜二つだが、表情とまとっている雰囲気が違う。
この表情を俺は知っている。水神だ。単独でも人型を取れるのか。それとも、神殿の中だからだろうか。
「カツミさんはサヤのことを、本当に大事に思ってくれているのですね」
何を白々しいことを、と怒鳴ろうとしたら、横からしみじみと呟かれて、気を削がれた。水神の隣に、四十代半ばくらいだろうか、やや年配の女性が座っている。白髪混じりの長い黒髪を束ね、痩せた体に白いチュニックをまとっている。
誰だ? と思ったが、すぐに思い出した。ゲーム中のイベントで見たことがある。現在の水の巫女だ。
「そんなことないですよ! いつも心配させられてばっかりで! 本当に、危ないことしてばっかりで! 人の気も知らないで!」
ムキになったようにサヤが言い立てる。
「確かに、危ないことをしてばかり、ではあるようですね。今もそんなにくたびれた格好をして、いったい何をしていたのやら」
水神が笑い、俺はむっとした。確かに、ここに来るまでの戦闘のせいで、お世辞にも小綺麗な格好とは言えないが、別に好きで首を突っ込んだわけではない。
「誰のせ……」
「お菓子がなくなったのです!」
今度こそ怒鳴ろうとしたら、素っ頓狂な声にかき消された。テーブルの上で、菓子くずを頬につけたディーが声を張り上げたのだ。いまのやりとりの間に食べてしまったのか、テーブルの上の籠が空になっている。
(ていうかお前、ここにいたのかよ……)
俺は脱力した。そういえばディーのことはすっかり忘れていたので、いないことにも気づいていなかったのだが、いったいいつの間にどうやってここまで来たのか。
「おいしかったのです。もっと食べたいのです。ますたーも食べるといいのです!」
おいちょっと図々しくないか、と思ったが、水神の巫女は笑って言った。
「奥にまだまだありますよ。せっかくですから、カツミさんにも召し上がっていただきましょう。お茶もおかわりを淹れましょうね」
「あ、じゃあ私が取ってきます!」
「ディーもお手伝いするのです!」
勢いよくサヤが立ち上がり、ディーもテーブルから飛び上がった。俺が入ってきたのと反対側の壁の前に立つと、水の膜がさっと両脇に開き、扉が現れる。
(なるほど、こうなっていたのか)
まるで水の自動ドアだ。いや、ドアは別にあるから、水のカーテンか。
扉を開けて出て行きざまに、ディーが一瞬、俺の方を見てにやりと嗤ったような気がした。
(え?)
気のせいだろうか。あいつが、俺以外の人間がいるときに現れたことはない。水に反射する光と影を見間違えたのかもしれない。うん、きっとそうだ。
自分に言い聞かせる俺の上に、静かな声が降ってきた。
「聞きたい事があるのでしょう?」
そうだ。俺は水神を見返した。
「なぜ、ルサ=ルカ将軍と俺を戦わせたのですか?」
「あの子が望んだからです」
水神はこともなげに答えた。
「望んだから、であんなことされたらたまりませんよ!!」
俺はかっとしたが、水神は動じる様子もなく俺を見返した。
「なら、あなたはウォータの総大将になる覚悟があるというのですか?」
「え?」
(なんでそうなるんだ!?)
俺の動揺は顔に出ていたのだろう。水神は呆れたように息をついた。
「ルサ=ルカも言っていたでしょう。
オーガ軍を撃退したことで、当面の脅威がなくなった神殿と軍の対立が激化しているのです。特に軍は、いままで前面に立って危難を退けていたにもかかわらず、神殿がすべての功績をさらっていきかねないので、非常に不満を感じている。
ですから、軍としてはなんとしてでも救国の英雄カツミを担ぎ出し、形だけでもウォータの総大将に据える必要があった」
確かにさっきそんな話は聞いたが、総大将とまでは聞いてないぞ。そこまででも十分大それた話だったが、総大将ときたか。
「もし、軍ではなく、神殿があなたを取り込んだ場合でも、結局は神殿の人間として軍に送り込み、ウォータの総大将とするでしょうね」
水神は重ねてそう言った。なんだかえらく話が大きくなっているな。
「ルサ=ルカは、軍の人間として、なんとしてでもあなたを軍の側につけねばならなかった。けれど、一人の戦士として、あなたはウォータ軍におさまってしまわないほうが良いだろうとも思っていた。
ですから、まずは言葉を尽くして頼み、それが無理なら剣を以って留めようとし、それでも叶わなかった、という体裁を作ったのですよ」
そう言ってから、水神は少し笑った。
「まあ、あなたと戦ってみたかった、というのも大きな理由のようですけれど」
というか、本音はそこが目的だったんじゃないのか。戦って負けたという体裁のためだけなら、あそこまで派手なことをしなくても良かっただろう。というか、適当に戦って適当に負けたふりをすればよかった話じゃないか。
それで思い出して、俺は聞いてみた。
「ルサ=ルカ将軍に、何か力を貸しましたか?」
水神はわずかに眉をあげ、俺に向かって問い返した。
「どうしてそう思うのですか?」
「最後の攻撃が当たる瞬間に、水の防御膜が見えました。
あの局面で、ルサ=ルカ将軍が意図して防御を発動させられたとは思えない。ぎりぎりのところで、水神様がルサ=ルカを守ったのだろうと思いました。
それに、いくら《契約》をしたとはいえ、ジューダスダガーが強力すぎます。ジューダスダガーは十三聖者なのに、十二騎士のアルミュスと比べても圧倒的な強さだった。
超高温で発熱する水の剣、なんて反則技も、水神様が力を貸していたのだとしたら頷けます」
水神はふっと微笑んだ。
「そうですね、私が力を貸しました。
あなたの瞬間移動の技を調べたいと言われたので、謁見の間に水の力を満たし、あの子には、異なる力が働けば分かるように呪を施しました。部屋に満たした水の力と、あの子を結ぶための呪です。
最後の攻撃からあの子を守ったのは、私の力です。本当は見守るべきだったのでしょうけれど、つい手出しをしてしまいました。ぎりぎりに介入したので、あれほどの傷を負わせることになってしまいましたが」
そう言ってから、水神は真顔で俺を見た。
「ただ、水の剣については、私がしたことではありません。あの子に施した呪と、部屋に満たした水の力を使って、あの子がひとりでやってのけたことです」
俺はあっけにとられた。確かに、「この部屋には水の力が満たしてあって」とは言っていたが、それであの水の剣を作り上げたのか。
(ルサ=ルカは、強い……)
じわじわと思いが込み上げてくる。オーガとのクォーターだという肉体的条件や、磨き抜かれた技術だけではない。目の前にあるものを勝つための手段に使おうとする姿勢、生き方そのものが強いのだ。
「それはともかく。あなたがウォータに留まろうとするならば、ただの一冒険者では済まないのですよ。神殿につくか、軍につくかはともかく、総大将に据えられることは間違いないでしょう」
惚けている俺に、水神はちょっと苛立ったような口調で言った。
「ならば出て行こうとしたところで、救国の英雄カツミをおいそれと国外に出してくれるはずもない。黙って出ていったところで、すぐに追われて連れ戻されたことでしょう。
ですが、ルサ=ルカの頼みを剣を以って退けたことで、あなたはウォータを出ていく権利を得たのです。一対一の勝負であればルサ=ルカはウォータ軍一の強者、それを剣で負かしたのですから、もう追って行ける者はいないでしょう」
俺は呆然としたまま話を聞いていた。知らない間に、俺は迂闊にウォータを出て行くわけにもいかない人間になっていたのか。成り行きで戦ってきただけなので、現実味がまったく湧かない。
とはいえ、ルサ=ルカと戦って勝ったおかげで、ウォータを出ていくことは可能になったらしい。別に出ていく気もなかったのだが。
「なるほど、今日の一連のこのドタバタは、このままウォータの総大将に祭り上げられそうな俺のためにルサ=ルカ将軍が仕組んだもので、そこにちょっとルサ=ルカ将軍が、俺と本気で戦ってみたいという私情を交えてみただけ……って言いたいんですね?」
俺が問うと、水神はぴくりと眉を動かした。
「言いたいも何も、そういうことでしょう」
「でも、それだけじゃないでしょう?」
まっすぐに水神を見すえて、俺は聞いた。
水神の目が揺らぐ。何か言おうとしたのか、口を開きかけたところで、
「えへへー、いっぱい持ってきちゃいましたー」
場違いに明るい声とともに水のカーテンがさあっと開き、サヤが部屋に入ってきた。両手に抱えた籠に、お菓子がこんもり盛られ、菓子くずを頰につけたディーがちゃっかり乗っかっている。
「でも叔母様、あの砂糖菓子が見つからなくて。カツミに食べさせたかったの……っ、やっ、お、おいしいからもうちょっと食べたかったかなーって」
「あらあら。そうね、あれはちょっと分かりにくいところにあったから、取ってきましょう」
水の巫女が立ち上がった。そういえば、さっきのやりとりの間中、この人はずっとここにいたのだった。あまりに存在感がないので忘れていた。
「あ、私も一緒に行きます!」
「ディーはお留守番です! ここでお菓子を食べているのです!」
ディーは菓子籠にとりついて離れる様子がない。両手に焼き菓子を抱えてかじりつくディーに、サヤが苦笑交じりの笑顔を向ける。
「ディーちゃんたら、これじゃあっという間にお菓子がなくなっちゃいそうね。もう少しいただいてくるわね」
「甘い飲み物もありますよ。サヤちゃんが手伝ってくれるなら、それも持ってきましょう」
微笑み交わしながら、実に和やかな雰囲気でサヤと水の巫女が、水のカーテンの向こうに消えていく。
そうか、水の巫女とサヤは叔母と姪なんだよな。身内といえばマイケルしかいない中で何年も過ごしてきたサヤには、いきなりできた叔母の存在が嬉しいんだろう。
ちょっと微笑ましい気持ちになっていた俺に水をかけるように、背後から冷たい声がした。
「少しは考えるようになったようじゃな」
ぎょっとして振り返る。焼き菓子を抱きかかえ、顔には相変わらず菓子くずがついたままだが、蔑むような目の色と口調は間違いなく、フェンのものだった。
「フェン!?」
「このお菓子はおいしいのです! 叔母様はお菓子を作るのが上手なのです!」
妖精は可愛らしい口調で叫んでみせると、にやりと笑った。
「いまのもフェンだったのかよ!?!?」
俺が叫ぶと、フェンはふんと鼻を鳴らした。
「わしとあやつはほとんど同じものじゃからな」
いやそんな。フェンとディーってむしろ対極にある存在じゃないのか。というか、ディーがフェンみたいに悪どかったら嫌なんだが、と思ったが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
「“適度に”命がけの戦いを用意してやったのだぞ? 感謝するがよい」
「やっぱりおまえの陰謀だったのかよ……」
俺は深々と溜息をついた。
「わしが直接手を下したわけではないぞ? 分かっておるようだがな」
焼き菓子をかじりながらフェンが言う。
「たまたま、神殿や軍の人が訪ねてきた時に俺がいなくて、たまたま俺が戻ってきた次の日にサヤが水の巫女を継ぐって話になった、で、たまたまサヤはずっとここで水神様や水の巫女さんと過ごしてたから、サヤと全然話せてなかった俺は事情が飲み込めてなくて、マイケルの早とちりにつられてほいほいここまで来ちゃった、ってだけなんだろ?」
嫌味ったらしく言ってみたが、このくらいでフェンが堪えるはずもない。
「そういうことだな」
だが、その”たまたま”のために、俺は軍とも神殿とも直接の接触を持つことはなく、軍も神殿も俺がどういうスタンスでいるのかを図りかねたまま、サヤが水の巫女を継ぐかもしれないという状態になった。一発逆転を狙った軍に望みを託されたルサ=ルカは水神に助力を求め、水神はそれに応えた。そしてお膳立てされた戦いの場に俺が飛び込んできた、というわけだ。
巻き込まれたのは俺だけじゃない。軍も神殿も、水神もそうだろう。フェン自身は何もしていないのに、誰もがフェンの意図したとおりに動いたのだ。
「感謝、するべきなんだろうな」
さらに深い溜息をつきながら言うと、フェンは嫌らしい笑みを浮かべて頷いた。
「だけど、今度からはこういうだまし討ちみたいな真似はやめてくれ。俺は俺なりに、強くなる覚悟をした。言ってくれればちゃんと戦う」
「ほう……」
フェンは焼き菓子から顔を上げ、俺の顔をまじまじと見つめたが、すぐにいつもの嫌らしい笑みを浮かべて焼き菓子を抱えなおした。
「言うようになったな。まあ考えておいてやる」
そう言って菓子にかじりつく。
少しは俺のことを認めてくれたのだろうか。
(だとしたら、ちょっと嬉しいな)
そう思って、俺は自分に驚いた。腹の立つことばかり言うし、騙し討ちみたいにしてとんでもないスパルタ教育を施されたりするが、俺はどうやら、フェンに認められたいと思っているらしい。認められたいというか、「ちょっとは成長したと思ってくれたっていいだろ!?」というのに近いか。
だが、そんな感慨は、続いてのフェンの一言で吹き飛んだ。
「グランデでは、存分におまえの覚悟を見せてもらうとしよう」
「え、グランデ!? なんで!?」
思わず驚きの声をあげると、フェンははっきりと蔑む目で俺を見た。
「おぬし、先ほどの話をもう忘れたのか。このままウォータに留まるなら、軍の総大将に祭り上げられると言われただろうが。その覚悟と器量がおまえにあるのか」
「えっ……あっ……、いや、もちろん覚えてたよ、そ、そういうことじゃなくてさ、他の土地だってあるじゃないか、なんでグランデに決まってるのかなって」
苦し紛れの言い訳に、フェンは空々しい口調で応える。
「なぜと言われても、ヒトの街なら、水の都でなければ土の都じゃろう? ヒトのおるところが良かろうとグランデにしたのじゃが、そこまで言うのなら、おぬし一人で空の都に殴り込むか?」
「……ぐ、グランデがいいです。グランデにさせてください」
……フェン相手に取り繕えると思った俺が馬鹿だった。
「私からも頼みます。グランデでは、オーガ以外の種族が手を結ばんとしています。その中に、ウォータの人間として加わっていただきたいのです」
それまで微笑みながら一度も口を開かなかった水神の巫女が言い、俺は驚いてそちらを振り返った。
「先日、リゥ将軍がマーマンの国に攻め入り、マーマンたちは抗戦むなしく全滅しました。このままでは鳥人もヒトも、遠からず同じ道を辿ります」
「リゥ将軍の部隊が、マーマンたちを滅ぼした!?」
驚いて聞き返したが、巫女は首を振った。
「リゥ将軍が、単独で、だそうです。ただの一人でマーマン達を殲滅したのです。もはやマーマンの国は存在しません」
俺は絶句した。確かにフェンは、「リゥなら一人で敵を全滅させられるんじゃないか」という俺の問いを肯定した。だが、本当にやってのけたのか。しかも、敵の軍勢を、ではなく、ボルテという国を滅ぼしたのだ。
俺はちらりとフェンに目をやったが、フェンは涼しい顔で新たな焼き菓子に手をつけている。驚いた様子など毛筋ほども感じられない。
(これも予測のうちなのか……)
自分自身のように知り尽くしているリゥ将軍のことだ、ますますもって驚くには値しないのかもしれない。
「でも、なんで俺なんですか? っていうか、俺が勝手にそんなことしちゃっていいんですか?」
動揺はひとまず押さえ込んで問うと、答えは別の方向から返ってきた。
「あの国はウォータを下に見ておるからな、普通に話を持っていっても取り合わんだろう。だが、状況が状況じゃ、それなりの功績のある人間なら交渉の余地はある。今のウォータなら、おまえか、ルサ=ルカぐらいか?」
「じゃあルサ=ルカ将軍が行くべきだろ……」
言いかけて俺は口ごもった。今しがた俺が与えたひどい傷。いくらルサ=ルカがリジェネーション能力を持っているからといって、あの傷が今日明日でどうにかなるものだろうか。
「いくらルサ=ルカでも、そうすぐに動けるような傷ではありません」
水神はきっと俺を睨んだ。いや、あの、申し訳ないとは思っていますが。
「それに、ルサ=ルカはカツミと戦うにあたって、ジューダスダガーと《契約》を結びました。引き換えにしたものは自らの成長です。代償を支払った今、あの子は十代の半ばぐらいまで退行しています。自然治癒力のおかげで徐々に年齢も回復するでしょうが、今のままではさすがに人前には出られません。静養もかねて、一月は屋敷にこもることになります」
一月では、ルサ=ルカの回復を待つわけにはいかないだろう。手を打つのが遅れては、異種族同盟にウォータだけ取り残されてしまう。俺でいいのかはなはだ疑問だが、行かないというわけにもいかないだろう。
俺はフェンを睨んだ。
「なんだかまたはめられた気がするんだけど」
「そうかの?」
フェンが嗤う。
「……もういいよ。覚悟を決めたって言っただろ」
知らない間に仕組まれて、思うように動かされていたというのは癪だが、フェンも別に嫌がらせでやっているわけではないようだし、というか、やたら憎たらしいし腹が立つようなことばかり言うが、良い先生なのだと思う。……ちょっと、素直には認めたくないが。
俺の心中を知ってか知らずか、フェンは小さい顎を俺に向けて言った。
「殊勝なことだの。ではおまえのために言っておいてやるが、この国に長く止まれば、それだけ厄介ごとが増えるからな?」
「ありがたいご忠告で」
しかし、グランデか。東の大陸の南の端に位置するウォータに対し、グランデは北の大陸の西の端。ほぼ対角線の位置だ。
「船は使えないから陸路だろ。徒歩しかないし、ってことは食料とか調達しないといけないから、今夜はさすがに無理だな……明日の朝一で買い物して出発しかないか……」
ぶつぶつ呟いていたら、
「また一人で行こうと思っているでしょうこのなめくじ野郎」
そんな声がして、俺は跳び上がった。水のカーテンが開いて、扉の向こうにサヤが立っている。
「えっ、いや、そんなことは」
「そんなことないんですね? じゃあ私も一緒に行くんですね?」
サヤが据わった目で俺を睨む。
危険なことは分かりきった旅に連れていくなんて……と言いかけたが、やめた。サヤは大馬鹿者の俺でも見捨てずにいてやるといい、俺はそれにお願いしますと言ったのだ。
(いや、でも、水神が止めるんじゃないのか?)
ちらりと窺い見たが、俺の視線に気づいても水神は平然としている。
「サヤが本当に望むなら、止めたりはしませんよ」
そうか? と思って、気がついた。水のカーテンに隔てられた扉の向こうで、普通にしていれば俺たちの会話が聞こえるはずがない。水神が、サヤに聞かせるように仕組んだのだ。
(このやろう……)
腹は立つが、確かめておかないといけないことは他にもある。
「サヤは水の巫女になるんじゃないのか? 俺と一緒に来ていいのか?」
言いながら、そうだ俺はこれを聞くために来たんだった、と思う。マイケルとの珍道中からヴォルドとの茶番を経て、ルサ=ルカとの対決、そしてフェンと水神との対決と、何のために来たのかもはや忘れかけていたが。
俺の感慨をよそに、サヤはあっけらかんと答えた。
「え、水の巫女は伯母さまのお仕事でしょう?」
(やっぱり……)
俺は内心で思い切り脱力した。そうだろうと思ってはいたが、やはり今日の俺は、ただ他人の思惑に振り回されただけだったらしい。
「分かったよ。一緒に行こう」
観念して言うと、大きな目で俺を睨みつけていたサヤが、ぱあっと輝くような笑顔になった。
「では行きましょう今すぐ行きましょう」
「ちょっ……今すぐはいくらなんでも無理だろ」
このまま出て行きそうな様子に、ちょっと落ち着かせようとしたが、サヤはきっと俺を睨んだ。
「すぐ行かないとカツミが気を変えて、私を置いて行ってしまうかもしれないのです」
「信用ないな俺……いや、でも準備とかあるだろ、いくらなんでも身ひとつでグランデまで行けないだろ」
さすがに勢いを削がれた様子に、ほっとしたのも束の間、
「旅の支度でしたらしてありますよ」
水神が言うと同時に、さっきサヤが出て行ったのと反対側の水のカーテンが開いた。続いて、手も触れないのに、扉がゆっくりと向こう側に開く。
――クワッ!――
扉の向こうにいた金色の獣が、得意げにいなないた。
「スカンタ!」
サヤが駆け寄ると、グリフォンは頭を下げ、嬉しそうに嘴をサヤにこすりつけた。
「サヤとカツミの荷物は、その子に持たせてあります。スカンタとその妖精がいれば、だいたいのものは持てるでしょう」
俺は水神を睨んだ。
「手回しがよすぎやしませんか」
「良くて困ることはないでしょう?」
水神は涼しい顔で答える。このくらいの嫌味が堪えるような相手ではないか。
「カツミ、これを」
俺が諦めたと分かったのか、水神が俺を呼んだ。手に何か持っている。
「何です?」
手渡されたのは、手のひらに載るくらいの平たい白い石だった。先の尖った巻貝が埋まっている。
「秘宝、水波能売命石です。これを持って念じれば水が湧き出し。泥水や海水に入れれば清水になります。もっとも、それほど強い力を持つものではありませんが」
なるほど、これがあれば水には不自由しないわけだ。旅のお守りにこれほど心強いものはない。
「ありがとうございます。大事にします」
頭を下げると、水神はつんとして言った。
「礼ならルサ=ルカにお言いなさい。私はあの子に与えようとしたのですけれど、あの子が、カツミはこれからグランデに向かうから、カツミに渡してくださいと言ったのです」
「……それ、俺がルサ=ルカと戦う前の話ですよね?」
「前ですよ。それが何か?」
俺はがっくりと肩を落とした。ルサ=ルカも初めから俺をグランデに行かせるつもりだったのか。今日の俺はやはり、他人の思惑にいいように振り回されただけだったらしい。
「輝石ですからたいしたものではありませんが、水波能売命石はウォータの神殿の持つ秘宝として知られています。それがあれば、ウォータ神殿の使者の証にはなるでしょう」
つんとしたまま水神が続けた。そうか、身分証明書があるわけでもないし、なにか身元を証明するものがないと、ウォータの代表だと言っても相手にしてもらえないだろう。
ウォータでは変に名前が売れてしまったが、グランデで通用するとも限らない。大事に懐にしまいこむ。
「なめくじさんはいつまでそこでぐずぐずしているつもりなのですか」
――クワックワッ!――
いつの間にかスカンタに騎乗したサヤが、焦れたように俺を呼んだ。同意するようにスカンタが啼く。
「はいはい、今すぐ!」
仕方ない。サヤを怒らせると後が怖い。
スカンタによじ登った。サヤの後ろに腰を落ち着けてから、この間まではなかった鞍と手綱が装着されていることに気がついたが、もう何も言わないことにする。
「サヤ。気をつけて行くのですよ。あなたの無事を心から祈っています」
サヤの手を取り、水神が言う。傍に立つ巫女も心配げな顔だ。
続いて俺を振り向き、
「ああ、あなたも気をつけて。くれぐれも迂闊なことをしないように」
「…………ありがとうございます」
あからさまにおまけだが、一応礼は言っておいた。
「夜が明けると人目が気になりますから、早くお行きなさい」
水神がさっと手を振ると、ふいに周りが暗闇になった。顔に風が当たり、遠くに虫の声がする。
視線を下げると、足元には白く螺旋状に渦巻く建物が見えた。神殿の屋上、巻き貝の頂点に当たる部分にワープしたらしい。手すりで囲われた空間は、水神と巫女とスカンタに乗った俺たちで精一杯の広さだ。
――クワッ!――
狭いな、と思うのとほぼ同時に、一声啼いて、スカンタはふわりと舞い上がった。少し離れた空中で静止する。賢いな、こいつ。
「水神様、お兄様に、黙って出かけてごめんなさいって言ってくださいね!」
身を乗り出してサヤが言う。
そういえばマイケルは大丈夫だろうか。サヤの兄が神殿の中でひどい目に遭うのを水神が見逃したりはしないだろうが、今夜のマイケルは俺以上に貧乏くじを引いたと言えるだろう。心の中で深々と頭を下げる。
「大丈夫、私がよく言っておきますからね。マイケルの部隊もじきグランデに向かうそうですから、あちらで会えますよ」
そう言うと、水神はスカンタの前足に軽く触れた。夜の中に、きらきらと水の飛沫が舞う。
「さあ、お行きなさい。水の力は、いつもあなたたちと共にありますよ」
――クワアッ!――
水神の言葉に応えるように啼くと、スカンタはふわりと羽を動かし、夜空へと舞い上がった。
//--------
神殿に忍び込んだのは夕暮れだったが、今やとっぷりと夜は更けて、晴れ渡った空に煌々と月が輝いていた。
神殿の影が、海に落ちている。そこから細く道が伸びて、まばらに灯りの見える、三日月の形をしたウォータの町。
町の上をゆったりと一回りすると、スカンタは鷲の首を伸ばして、大きく羽ばたいた。ぐん、と体に重力。みるみるうちに地上が遠ざかる。
この世界に来てから今日までを過ごした国を後に、俺たちは夜の中へと飛び立った。遥か彼方、土の国グランデを目指して。