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「ノ」

作者: 実質2時間

唐突だが、私は知ノから「漢字博士」なる異名を頂いている。確かに、漢字に関してはノ並み以上に興味と関心を抱き、暇さえあれば漢字について何か考えるような男ではあるが、それでも博士ということはあるまい。私は本職の漢字博士というノ物にあったことはないが、おそらくは私ごときでは到底太刀打ちできないような領域に達しているのだろう。

 しかしながら、知ノと私の間に、私と漢字博士ほどの漢字に関する知識の差があるのも確かである。それを考慮すると、知ノから私を見ると、まるで漢字博士のように思えるのも仕方がないことではないだろうか。

 さて、そういうわけで私は漢字博士ではない。

 理由は前述したものの他にも存在している。例えば、私にはどうしてもある漢字について解せないものがあるのだ。

 話はつい先ほど、私が居間でくつろぎながらテレビを見ていた時だ。ちなみに私が何故平日の午後という時間帯にテレビを呑気に見ることができているかというと、私は定職についていないからである。こういうとまるで親の脛をかじっているように思えるのだが、実際はそうではない。アルバイトという職にはついているのであり、さらに追記すれば私は大学生である。

 さて、話が逸れた。

 私がテレビを見ていた時のことである。その中で、ある漢字について触れていた。

「人」という字についてである。画面内で、ある男が、人という字についての成り立ちについて説明していた。漢字、しかも成り立ちには特に造詣が深い私にとっては説明されるまでもない。人という漢字の形は、立っている人の形を横から見た姿を書いたものである。つまりは象形文字だ。

 そんなことを思っていたのだが、画面からは想像しえなかった言葉が出ていた。

 曰く、人という字は、人と人とが支え合っている形である、と。

 私の思考が一瞬どころか数秒止まった。そして再度動きだした時、最初に思ったことは、この画面の男は一体何を言っているのかということ。次に思ったことは私が間違っているのではないかという疑念である。もし後者であったとしたらとても恥ずかしい。あくまでも知り合いにしか通じないものではあるが、私自身もそれなりに気にいっていた漢字博士という異名を捨てなければなるまい。

 確かめるのは非常に恐怖のいる行動であったのだが、確かめなければ先へは進めない。これがジレンマというものだろうか。

 早速漢字辞典を取り出そうとするが、見当たらない。棚においてあったはずなのだが、全くもってないのである。これだけでも漢字博士としては恥ずべきことなのだが、今は気にしている場合ではないだろう。

 辞書がないとはいっても、それで私の気が済む訳ではない。手札を一枚切ることにする。

 私の知ノの中には、私のほかにも漢字に詳しいものがいる。その者を訪ねようというのだ。丁度、彼に貸していた本があったので、それの返却も兼ねるということだ。ちなみに、何の本を貸していたか覚えていない。

 そういうわけで、私は現在街を歩いている。歩いている現在も、私は考えていた。勿論、例の漢字についてである。そもそも、人という字がどうして人と人によって作られるというのか。仮にそれが正しかったとして、構成要素である人も、さらに人と人によって構成されているために、「人」の一文字は無限の人によって形作られていることになるではないか。しかし、それでは当たり前のことだが矛盾が生じてしまう。

 歩いていると、体を動かしているからか、更に思考が加速していく。ノはそもそも一ノである。一つの体を表しているはずの「人」が、二ノで構成されている。これも矛盾だろう。多重人格という特殊な場合を除けば、ノは基本的に一つの体に一つの意識でしか構成されない、一つのものだ。私は、この疑問が解決されるまで、便宜的に「人」を「ノ」と表すことにした。これが先ほどまでノを使っていた理由なのだが、これならば、ノ間は一ノであることを表せているだろう。

 さて、そうやって思考を続けているうちに、目的の知ノの家に到着した、普通の二階建てアパート。その一室に彼の家はある。あっという間の到着だ。疑問を持ちながらも、私は先ほどまでの思考の逡巡に楽しみを見出していたのだろう。つくづく漢字は奥が深い、と感心しながら部屋のドアをノックした。

 応答はすぐにあった。男の声がしたあと、すぐにドアが開いた。相手としては家を訪ねるのは私しかいないと思っていたのだろう、その手には貸していた一冊の本があった。ちなみに題名は「大漢字山」である。青色の背表紙をもったかなり分厚い本。

 どこからどう見ても、これは漢字辞典である。そういえば、彼のレポートに必要だから貸していたのだな、ということを思い出す。一気に二つの問題が解消されたことに喜び、同時に辞典があるのならば友ノに聞くまでもないと思ったが、せっかくなので尋ねてみることにする。

 議題は無論、「人」という字について。その成り立ちについて聞いてみる。彼はその場で即答した。

 人の形を横から見た象形文字であろう、と。

 やはり私は間違っていなかった。間違っているのは画面のほうであったのだ。帰ったら葉書でも送ろうかと思いつつ、念のためもう一つ聞いてみる。人と人とが支え合っているという説は聞いたことがあるか、ということを。

 それを聞いた知ノは笑って、それは成り立ちではなく、言葉の意味である、と言った。

 なるほどそれでは私もあの男が言っていたことを理解していなかった、つまり間違っていたということになる。ならば一勝一敗だろう。

 そうだとしても、まだ疑念は残っている。漢字の構成要素に矛盾があるということである。それについて更に尋ねてみる。

 知ノはもう一度笑った。この問題と直接関係はないが、この男が笑うとどことなく恐怖を覚えるのは、きっと笑い方がニヤリとしたものであり、なおかつ彼が一八〇センチメートルをゆうにこす長身で、強面であることが由来しているのだろう。

 話題がそれた。知ノは笑って、私の質問に答える。それは今からでも街を歩けば分かるだろう、と。

 彼にはとても似つかわしくない気障な台詞であり、不快であったのだが、そこは無視して部屋の扉を閉めた。

 彼の答えにそのまま従うのもあまり気が乗らないが、折角私の疑問を一つ解消してくれた恩ノであるから、いわば恩返しとして答えに従ってみることにする。

 だが、街を歩いていても、それらしき答えは見つからない。あれは彼が格好つけたいだけだったのだろうか。半ば諦めながらも、私は歩き続けていた。何故かと言われれば、そこに深い理由はなく、単に暇だから、の一言で済んでしまうが。

 歩き続けてから一時間が経過しただろうか。だんだんと日が暮れてきたが、いまだに知ノの示した答えの意味が分からない。だんだんと疲れてきて、足の痛みは翌日の筋肉痛を予言しているかのようだった。ここがどこだかよく分からない。これ以上歩くのも無駄だろう。周りを見てみると、ここから道なりにいったすぐ先に駅があった。その駅は私がアルバイト先に向かう時に通過する駅である。つまりは、そこから帰宅することが容易だということだ。

 ホームで待っていると電車はすぐに来た。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯なのだが、私が自宅に戻るほうはそこまで混んでいない。実はターミナル駅に近いのは私の最寄り駅のほうなのだ。

 電車はすぐに来た。乗ると、空いている席は無かったが、それでも十分にスペースがある程度だった。

 何もやることが無かったので、ここでもノの動きを見てみることにした。最初に見たのは右の方向。私がいるのは車両後部のほうで、景色は私からみて右に動いているのだから、車両中央部を見ていることになる。そこでは、ある者は本を読み、ある者は携帯電話で何かを見ていたりしていて、会話はなかった。これでは「人」という字が、ノとノで作られている意味も分かるまい。

 つぎに左を見た。そこは優先席だが、学生も座っていた。特にそのことについて非難する気は起きないのだが、電車が次の駅で停まり、一ノの老婆が乗り込んできた。老婆は優先席へと向かう。そこで私が驚いたのは、それを見るやいなや、学生は席を立ったのである。そして今まで座っていた席を譲り、老婆は礼を言いながらその席に座った。

 私は何か、自分の中に電流が走ったかのような感覚があった。

 今見た景色。あるノが、別のノを支えているという景色。そう、まるでこれは「人」という字をそのまま表しているではないか。

 更に驚いたことがある。それは学生が立ち上がった時である。次の駅が近づいているため、そのまま下車しようとしたのだが、その瞬間、学生が倒れた。私が助けようかどうか迷っている間に、先ほどの老婆だけでなく、別の場所で座っていたサラリーマンが何人も動いてその学生を助けた。

 すぐに動けない私に喝を入れなければならない、という気持ちもあるのだが、それ以上に私は驚いた。

 「人」の構成要素についてである。さきほど、あの学生は老婆を助けた。この学生と老婆は、いわば「人」を構成する二人の人物である。さらにその構成要素たる学生を、ほかの人が助ける。

 私は先ほど、「人」の一文字は無限の人によって形作られていることになるではないか、と矛盾を指摘していたのだが、それはある意味で正解していたのだ。

 おそらくは、今学生を助けた複数のサラリーマンが同様に倒れたりとしても、彼らを助ける人物はこの電車内にいくらでもいる。つまりは、あくまでも電車という限られた空間とはいえ、「人」を構成しているのは多数の人である。これが電車という一つの制限を超えたとしよう。

 例えば路上。そこで倒れた人がいたら、必ず近くにいた目撃者がそれを助ける。このようなことが日本中で起きていると仮定すれば、「人」の構成要素は限りなく無限に近づくのだ。

 私は疑問を解決した喜びを抱えながら最寄り駅で降りた。歩きながら、今日あった出来事を思い出してみる。

 そして一つの記憶にぶつかった時、私は衝撃を覚えた。それは、本の貸し借り。私は知人が困っていたから漢字辞典を貸した。そして知人は私が疑問を感じていたことに対して解答してくれた。これを支え合いと言わずして、何と言おうか。

 知らず知らずに自分自身が答えを導きだしていたことに私は笑う。人というのは、支え合っているものなのだ。確かに、画面の男が言っていたことは成り立ちには関係がない。だがしかし、その男は人に関する一つの真実を述べていたのも事実である。

 なるほど、では私の怒りは何だったのだろうか。もしかしたら、心の奥底のどこかで、そんなこと言われなくても分かっていると思ったからかもしれない。

 ちなみに帰宅した翌日、私は案の定筋肉痛になった。結局歩いたのは意味がない。知人にはそれ相応に責任を取ってもらわなければなるまい。

 さてどうしようか。そんなことを考えながら、私は今日も人の美しさを見るのだろう。


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