24.戦渦の灯
(きたぜ。戦場の匂いだ)
『なんか……みんな、怖い』
ベルン領に、奇妙な静寂が落ちていた。
ガストン商会が置いていった物資で潤い、活気に満ちていた領内に、目に見えない真綿のような緊張感が漂い始めたのは、エルマがアレクに『防衛指示』を出した数日後のことである。
「――旦那! やっぱりおかしいぜ!」
領主の館、執務室。
血相を変えて飛び込んできたアレクの報告に、書類に目を通していたガルムは静かに顔を上げた。
「アレク。わかっている。これは、血の流れる前兆の臭いだ」
「ああ! 東の街道を見てきた! バルデ領へと続く国境沿いに、いつの間にか頑丈な柵が組まれてやがる。バルデの兵どもが立ち塞がって、商人どもの馬車を片っ端から追い返してやがった!」
「ふむ……」
ガルムの太い眉がピクリと動く。
「それだけじゃねえ。念のため南のカインズ領へ向かわせた斥候も、道半ばでカインズの私兵に追い返された。そもそもカインズの当主はいねえはずだ。ってことは、裏で誰かが指示を出してやがる……。早馬も戻ってこねえ。完全に、道が塞がれちまってるぜ」
「……」
その報告を聞いた瞬間、歴戦の傭兵であるガルムの脳内で、全てのピースがカチリと嫌な音を立てて噛み合った。
東のバルデ領、南のカインズ領。王都へと続く主要な二つの街道の完全封鎖。
それは軍事において、最も古典的で、最も恐ろしい『死の宣告』だった。
「包囲網……か」
「旦那?」
「王都が動いたんだ。カインズ伯爵の死と、ガストン商会の件……全てをベルン家の『反逆』としてでっち上げ、正規軍を動かしたに違いない。周辺の領主たちは、公爵に脅されて街道を封鎖したのだろう」
ギリッ、とガルムは奥歯を噛み締めた。
もしあの時、大量の物資を手に入れていなければ。ベルン領は一ヶ月も経たずに兵糧攻めに遭い、内側から飢えて自滅していただろう。
「……結果的に、トンパを追い返し、あの物資を残させたことが我々を救う形になったな。あの備蓄があれば、数ヶ月は籠城できる。兵の武装も整っている」
「ああ! お嬢の運の強さには恐れ入るぜ。それに、お嬢が出した『東の警備を減らして内壁を固める』って指示も、今思えばドンピシャだったってことだな! バルデ領側(東)から敵の大軍が来るなら、あえて引き込んで屋敷の周りで叩くしかねえ!」
「……そうだな。東と南から正規軍に挟撃されれば、まともにぶつかって勝てる道理はない。全兵力を内側に集中させて迎え撃つ。過酷な籠城戦になるぞ」
ガルムは愛娘が本能的に敷いたであろう陣形を『現状における理にかなった最善手』と客観的に評価しつつも、その顔は深い苦渋に歪んでいた。
相手は公爵が差し向けた王国の正規軍だ。練度も装備も圧倒的な軍勢に対し、数で劣るこちらが防衛線を維持し続ける過酷さは、火を見るより明らかだった。
「アレク。全軍に警戒態勢を敷け。敵は東と南から来る。街道の監視は最小限の斥候に残し、残る全兵力を居住区と館の内壁に配置しろ! それと車輪の整備はしっかりしとくんだ」
「おう! 街ごと動かして、あの忌々しい迷路で正規軍どもをすり潰してやるよ! ……ちなみに旦那、北のアズガルド山脈側はどうする?」
「北は捨て置け。あんな険しい山脈を、越えてこられるわけがない。来るとしたら帝国軍だが、多くの山脈関所の目をかいくぐってくるわけもない。見張りを数人置いておけば十分だ。我々が全神経を注ぐべきは、王都に繋がる東と南だ!」
ガルムはバンッと机を叩いて立ち上がり、かつて傭兵団を率いた男の、獰猛な闘志をその目に宿した。
「ここにきて王もクソもあるか……! ここまでコケにされて黙って首を差し出すほど、俺は聞き分けの良い貴族じゃない。俺は、民とエルマを絶対に殺させはしない!」
「へっ、それでこそ俺たちの頭だぜ!」
ガルムの魂の咆哮に、アレクが獣のような笑みで応える。
北の霊峰アズガルドは天然の要害。そこから敵が来るなど、軍事の常識ではあり得ない。ガルムの判断は、有能な指揮官として至極真っ当なものであった。
「まずは敵軍――王国正規軍をそう呼ぶ日が来るとはな――を、少数ずつ誘い出し、この街(迷路)で殲滅する。功を焦って挑発に引っかかる将の軍から落としていく。アレク、煽動は頼めるか?」
「おうよ。任せな! 久しぶりの大仕事だな!」
「そうだな。急ぎ戦力を防衛線に集めろ。そして、非戦闘員は『屋敷の地下』へ避難させておくのだ。備蓄も第一倉庫から地下貯蔵にある程度移しておくんだ」
屋敷の巨大な地下貯蔵庫には、先日ガストン商会から巻き上げたばかりの大量の麦と水が備蓄されている。強固な石造りの地下であれば、地上の戦火も届かない。
「女子供や負傷兵がでたら、すべて地下に隠せ。我々が地上の防衛線で、全ての敵を食い止める」
「了解だ。すぐにとりかかるぜ!」
アレクが力強く頷き、足早に執務室を出ていく。
こうしてベルン領は、東と南の「公爵軍」を迎え撃つための完璧な防衛陣形と、領民の安全な避難を完了させた。
◆
東の国境沿い。バルデ領へと続く街道を塞ぐように築かれた巨大な柵の向こうには、黄金の獅子を掲げた公爵軍の部隊が陣取っていた。
ピリピリとした緊張感が漂う最前線に、数騎の馬が土煙を上げて悠然と姿を現す。
先頭で手綱を握るのは、身の丈ほどもある無骨な大剣を肩に担いだアレクだ。彼に付き従う数人の男たちも、血に飢えた狂犬のような凄みを漂わせている。
「無能の犬ども! 我は『黒曜の牙』、戦士長アレク! 死にたいものはでてこい!」
腹の底から響く野太い怒号が、敵陣に叩きつけられる。
歴戦の傭兵特有の、濃密な殺気を孕んだ露骨な挑発。寄せ集めの兵たちがその気迫に気圧されて息を呑む中、真っ先に動いたのは、血の気だけは多い正騎士の若者だった。
「野蛮な犬どもが……ッ! 王の軍を前にして吠えるな!」
功を焦った若い騎士が、味方の制止を振り切って単騎で柵の隙間を抜け、アレクへと突撃してくる。傷一つない真新しい銀甲冑を鳴らし、名誉と手柄に目が眩んだ一直線の突撃。
だが、自ら死地に飛び込んでくるその姿を眺めながら、アレクは酷薄な笑みを深めた。
「勇敢ではなく馬鹿っていうんだぜ? 小僧。それに、一人じゃダメなんだ」
すれ違いざまの一閃。
馬の勢いを殺すことなく振るわれた重厚な大剣が風を切り裂き、いとも容易く、若い兵士の首を甲冑の襟元ごと刎ね飛ばした。
「――っ」
悲鳴を上げる間すらなかった。兜に包まれた首が宙を舞い、胴体が馬からドサリと転げ落ちる。切断面から噴き出した鮮血が、乾いた土をどす黒く染め上げた。
一切の容赦もない、あまりにも一方的で残酷な惨劇。
「弱い! 弱いぞ! 腑抜けたち!」
アレクは大剣に付いた血を無造作に振り払うと、恐怖と怒りにどよめく敵軍に向かって、さらに声を張り上げた。




