20.愛が止まらない
屋敷の地下にある、冷たい石造りの牢獄。
普段は空っぽのそこへ、厳重に縛り上げられたトンパが一人、放り込まれていた。
「お嬢。表に待機させていた馬車の連中と、あの護衛二人は別の牢にひっ捕らえた。荷馬車の中身は……驚いたぜ。大量の武具と麦だ」
「ご苦労様でした、アレク」
鉄格子の外で報告を受けるエルマは、先ほどの血みどろのドレスから着替え、静かな声音で応じた。
「……アレク。少しだけ、彼と二人でお話しさせてください」
「ですがお嬢、こいつは――」
「大丈夫です。縄もかかっていますし、彼も『自分がどういう立場に置かれているか』、ようやく理解したでしょうから」
エルマがニコリと冷たく微笑むと、アレクはなぜか背筋に悪寒を感じ、それ以上反論できずに一礼して地下室から去っていった。
重い扉が閉まり、カチャリと鍵がかけられる。
静まり返った地下室。
床に転がされたトンパは、目の前に立つ華奢な少女を見上げ、ガチガチと歯の根を鳴らした。貫かれた手の甲は包帯で雑に巻かれているが、まだ血が滲んでいる。
「さて、ゴミ。交渉の続きといくか」
その口から発せられたのは、女性ながら紛れもなく地獄の底から響くような『大悪党』の低音だった。
「ひぃぃっ……! き、貴様、一体何者だ!? ガルムの娘の皮を被った悪魔か!?」
「おいおい、男爵令嬢様が仲よくしようってんだ。なぁ? そんなに怖がるなよ」
嗤いながら近づくエルマ。
「それにな、質問するのは俺だ。勘違いするなよ。シンプルだ。あぁシンプルだ。すこしばっかりテメェに聞きたいことがある――テメェの後ろで糸を引いてる『旦那』は誰だ?」
バルバロッサは冷徹に言い放ちながら、トンパの顔面を靴底で踏み躙った。
「ぐぎぃっ!」
「こんな辺境の男爵家に、王都の大商会がわざわざふっかけに来る。しかも、親父が屋敷を離れた直後のタイミングを完璧に狙ってな。……単独の犯行じゃねェことくらい、チンピラでも分かるぜ。誰の差し金だ。吐け」
「い、言えるわけが……っ! 言えば、わしは殺されるっ!」
「なぁ? いいだろ? 誰だよ? 言ってみようぜ?」
「ぐあああああ!」
トンパは脂汗を流しながら首を横に振る。
相手は国境の物流を支配しようとする大貴族だ。秘密を漏らせば、商会ごと物理的に消し飛ばされる。
(ククッ……当然だ。こんな下っ端が、黒幕の名前を吐けるわけがねェ)
バルバロッサは脳内で嗤った。
最初から、この豚が喋らない(喋れない)ことなど百も承知なのだ。ただ、相手が「絶対に言えない」と分かっているからこそ、容赦なく理不尽な暴力を叩き込める。
靴底の体重が、トンパの鼻っ柱をメキメキと軋ませる。
「言えば殺される? 言わなくてもここで殺されるぞ。どっちを選ぶ?」
「あぎぃぃっ! や、やめ……っ!」
(フハハッ! いい声で鳴くじゃねェか! もっと泣け、もっと絶望しろ!)
『バルバロッサさん! もうやめてあげてください! これ以上は……っ!』
容赦なく骨を砕こうとするバルバロッサの残虐性に、たまらず内側からエルマがストップをかけた。
(……チッ。殺さねェと示しがつかねェだろうが)
『ダメです! これ以上やったら、私たちが本物の悪党になっちゃいます!』
(俺は本物の悪党だよ)
脳内でくだらない言い合いをしながら、バルバロッサは「興醒めだ」とばかりにトンパの顔面から足をどけた。
「……助かったな。少ししゃべらせてやる」
圧迫感から解放され、ゼェゼェと荒い息を吐くトンパ。
だが、バルバロッサが「手を出さなくなった」と見た瞬間、この悪徳商人の持ち前の傲慢さが再び頭をもたげた。自分を殺せないのなら、相手はただの小娘の領主代行だ。
「……ふ、ふふっ。ふはははっ!」
トンパは血反吐を吐きながら、濁った目でエルマを睨み上げた。
「後悔するぞ……! ぐはッ!?」
「……」
「貴様ら、ごっ!? ただで、ぐええ!?」
「……」
「済むと思うなよ……。わ、わしを、ガストン商会を怒らせたな。ぐお!? しゃべらせて……!」
「俺がイラつくたびにこの足が振り下ろされる。今作ったルールだ」
暴力を振るわれながらも、負け惜しみを喚く豚。
だが、その安っぽい脅し文句こそが、バルバロッサが最も待ち望んでいた『言葉』だった。
(ククッ。言ったな? これで心置きなく、戦争ができるってモンだ)
最凶の大悪党は、口角を限界まで吊り上げ、三日月のような極上の笑みを浮かべる。
そして、床に這いつくばる豚を見下ろし、絶対的な強者の威圧を込めて告げた。
「――来いよ、豚」
「……なっ」
「後ろで震えてるヤツに伝えな。ベルンはつえぇぞ?」
トンパの血走った目が、限界まで見開かれる。
目の前の華奢な少女から放たれる、物理的な重圧すら伴う殺気。相手は正気ではない。ただの小娘の皮を被った、底知れぬ怪物だ。商人の浅ましい計算など一切通用しない本物の『悪』だと、本能がそう告げていた。
「さて、メッセージを届けてもらうお駄賃をもらおうか」
「お、お駄賃だと……?」
「ああ。俺のよそ行きのドレスを汚した洗濯代。それから、俺への不敬罪に対する罰金、そして可憐な少女に暴力を振るわせた精神的苦痛への慰謝料だ。あぁ、心苦しいぜ。俺はこんなに純朴なのによォ……ちょうどいいことに、表にたっぷり物資を積んだ馬車が停まってるらしいな?」
バルバロッサの言葉に、トンパの顔から完全に血の気が引いた。あれは商会が周辺の村々を締め上げるために用意した、重要な拠点構築用の物資だ。
「ま、待て! あれは商会の――」
「『私、トンパの不始末の詫びとして、持参した武具と麦をすべてベルン家に無償で譲渡します』。よし、今すぐここに一筆書け」
「ふざけるな! そんなことをすれば、わしは本当に黒幕(上)から消され――」
ゴシャッ!!
トンパの言葉は、バルバロッサの容赦ない踵落としによって物理的に途絶えた。
「あれ? おしゃべりは終わりか? よく聞こえなかった。もう一度言え。そら、とりあえず今すぐここに一筆書け」
床に転がっていた羽ペンと羊皮紙を顔の前に放り投げられる。
「ひっ……! あ、あぁぁ……っ!」
トンパは折れた鼻から血を流し、ガクガクと震える手でペンを握るしかなかった。涙と鼻水、そして己の血に塗れた、世界で最も無様で理不尽な譲渡証明書が、あっという間に完成する。
「結構。商談成立だ」
血のついた羊皮紙を奪い取ると、バルバロッサは冷酷に言い放った。
「馬車は置いていけ。荷物を運ぶ馬もだ。テメェらは自分の足で、地べたを這いつくばって王都まで帰りな。……もし次に俺の領地でその豚ヅラを見せたら、今度は本当にミンチにして家畜の餌にするぞ」
数十分後。
身ぐるみ剥がされ、ボロボロになったトンパと護衛たちが、夜の闇の中へ泣き喚きながら逃げていくのを窓から見下ろしながら、エルマの脳内は絶望と胃痛のパニックに包まれていた。
『あああああ! なんてことするんですかバルバロッサさん! 大商会と完全に戦争になっちゃうじゃないですか! あんな血文字の脅迫状みたいな譲渡書、向こうが法的に認めるわけないです!』
(法? 法ってなァなんだ?)
『法は法ですよ! ルールです!』
(おかしいなァ? 俺にはこの国がルールにのっとってるようには見えねェんだよな)
『と、とにかく! あんな丸裸にして叩き出さなくても……! これじゃ私たちが完全に略奪者です!』
(バカめ。ここで相手の武器と食糧をごっそり奪っておけば、こちらの防衛力は跳ね上がる。逆に相手は、兵を挙げるにも物資の再調達から始めなきゃならねェ。時間稼ぎには十分だ)
バルバロッサは、エルマの顔を使ってニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。
(俺がやらなけりゃァ、今頃お前の体は貴族の豚の慰み者だぜ?)
『……っ!』
エルマは言葉を失った。
ただの残虐な暴力と恐喝だと思っていたそれは、曲がりなりにもエルマを守るためであった。
(さあ、忙しくなるぜ。巻き上げた武具で、領民どもを武装させろ。盛大な血みどろの宴の準備だ)
『……胃が……胃が痛いです……』
可憐な少女は、重すぎる未来にただ一人、ふらふらと腹を抱えてうずくまるのだった。




