19.先に手をだしたらシメぇだぜ?
(この小賢しい豚、どうも単独じゃねェ匂いがする。……後ろにいる腰抜け共ごと、ちょっとばかし多めに『薪』をくべてやるのも悪くねェな)
『薪……?』
(いいから身体を貸せ。商人相手の『本物の交渉』ってやつを、教えてやる)
『うぅ……』
次の瞬間、エルマの意識がフッと背面に押しやられた。
震えていた少女の身体から、ぴたりと不自然に『ブレ』が消え失せる。
「……どうなさいましたかな、お嬢様? 涙でサインの場所が見えませんか?」
トンパが下劣な笑い声を上げた、その時だった。
「――あら、手が滑りましてよ?」
地を這うような、絶対零度の声。
可憐な14歳の少女の喉から発せられたとは到底思えない、血生臭い響き。
直後、ドンッ!と鈍い音が響いた。
エルマが握りしめていた署名用の鋭い金属ペンが、テーブルの上に投げ出されていたトンパの分厚い手の甲を、羊皮紙ごと深々と貫いていたのだ。
「……は? ギャアアアアアアアアアッ!?」
「あらあら、よく鳴く豚ですこと」
エルマは、突き立てたペンの柄をグリ、と無慈悲に抉る。
「ア、ズ、ガ、ル、ド」
『ひぃぃぃぃっ!?』
「おい、貴様何をしているッ!」
一文字発音して肉を抉るたび、脳内でエルマが悲鳴を上げる。たまらず後ろの護衛の一人がエルマを取り押さえようと飛び出してきたが、彼女はそれをひらりと避けると、大男の顔面に向かって容赦なく足の裏をめり込ませた。
「ゴァッ!?」
鼻っ柱を叩き割られ、巨体がソファーの向こうへと吹き飛ぶ。
「こんな辺境までわざわざ出向いて、ご苦労ですわ。まぁ、貴方達ってば、ここが男爵家であることをお忘れになってませんこと? 平民様たち?」
エルマはゆっくりと顔を上げた。
恐怖で涙ぐんでいたはずのその瞳は――今や、獲物を値踏みする肉食獣のように、爛々と底知れぬ漆黒の殺気を宿してトンパを見下ろしていた。
「なっ……き、貴様、何を……っ! ギャアアアアアアッ!」
さらに、ペンの柄にエルマの靴底が乗せられ、全体重がかけられる。
「貴族の備品を汚してますわね? お仕置きが必要のようですわ」
『あわわわわ! あわわわ、どうするのこれどうするのこれ!』
図星を突かれたのか、それとも得体の知れない殺気に本能が警鐘を鳴らしたのか。激痛にのたうつトンパが、顔面を蒼白にしてもう一人の用心棒に叫んだ。
「とっ、とり、おさっ、えろ!」
残った屈強な大男が腰の剣を抜き放ち、狂奔してエルマへと躍りかかろうとした、まさにその時。
(ほォら、向こうから手を出してきたぜ。小娘、よく見とけ)
『なにをいってるの!? なに!? バルバロッサさん!? え? 何言ってるの!?』
トンパたちには聞こえない脳内での嗤い声と共に。
パニックに陥るエルマを他所に、その華奢な肉体は音もなく『死の舞踏』へと踏み込んだ。
「ハーハッハッハッ! 来いよ! 躾してやるよ平民ども!」
『やめて、やめて、やめて、頭脳戦じゃないの!?』
さすがに男爵令嬢を斬り殺すわけにはいかないと踏んだのか、剣の腹を向けて打ちかかってくる護衛。
だが、その甘すぎる思考ごと粉砕するように、鋭く尖らせた拳(中高一本拳)が男の顔面に深々とめり込んだ。
さらに流れるような動きで、先ほどソファーの奥へ吹き飛ばされ、フラフラと起き上がってきた最初の護衛の鳩尾に、容赦なく拳を叩き込む。
「ぐぎゃあ!?」
「ごっ、あぁぁぁぁぁ……ッ!」
悶絶して崩れ落ちる巨漢たち。
バルバロッサは、トンパの手に刺さったペンの柄をグリグリと靴底で踏みにじりながら、倒れた護衛二人の頭を掴み、高級なテーブルへと何度も何度も乱暴に打ち付けた。
「フハ! フハハハハハハ!!」
『ヒィィィィッ! やめ、やめてぇぇぇ!』
そして――ひとしきり暴れ回った後。
おもむろにバルバロッサは、傍らに置いていた木箱を蹴り開けた。中に入っていたのは、赤黒く染まった『血みどろのドレス』。
『あ、それ……』
エルマは見覚えがあった。バルデ子爵の関所を襲撃した際、あの役人や野盗の返り血をたっぷりと浴びた時のアレである。
バルバロッサはテーブルの花瓶を手に取ると、その水をドレスへとぶちまけた。乾いていた血が水分を吸い、まるで今しがた噴き出したばかりの『生々しい鮮血』のように濡れそぼる。
(さて、仕上げだ)
バルバロッサは自らの服の襟元を無惨に引き裂くと、その濡れた血みどろのドレスを頭からすっぽりと被った。
「エルマ様!? ただごとではない音が……ひっ!?」
扉が勢いよく開き、メイドのマーサと、ベルン領の戦士たちが駆け込んできたのと、同時だった。
「……っ、あ、あぁ……たすけ、て……」
(ばっちりだぜ? 小娘)
さきほどまで狂ったように嗤っていた『最凶の悪党』は跡形もなく消え去り。
そこには、血まみれの服を着て、床に倒れた大男たちと商人に囲まれながら、恐怖に震えて泣きじゃくる『可憐で可哀想な被害者』がへたり込んでいたのである。
「お、お嬢!? 何してやがる貴様ら!?」
怒号を上げて飛び込んできたのは、ガルムから留守中の護衛を頼まれていた戦士のアレクだった。
彼の目に映ったのは、血まみれで震えるエルマと、抜身の剣を握ったまま倒れている大男たち。そして、何やら喚きながらエルマを睨みつけている脂ぎった商人。
頭に血の上った歴戦の戦士であるアレクが、この状況から彼なりの『正解』を導き出すのに一秒もかからなかった。
「ち、ちがう! このイカレた女が急に暴れ出して――ぐべぁっ!」
言い訳を叫ぼうとしたトンパの顔面を、アレクの容赦ない鋼のブーツが蹴り飛ばす。
「ふざけるな外道が! 丸腰のお嬢に武装して脅し込みやがって! 野郎ども、こいつらをふん縛れ!」
「はっ!」
なだれ込んできた屈強な戦士たちによって、トンパと護衛たちは瞬く間に床に押さえつけられ、乱暴に縄をかけられていく。
「エルマ様! ああ、なんということ……っ!」
マーサが悲鳴のような声を上げ、へたり込むエルマを強く抱きしめた。
血まみれの令嬢と、それを抱きしめて涙を流すメイド。その痛ましい光景に、ベルン領の戦士たちの目に明確な『殺意』が灯る。
「こ、こわくて……わ、わ、たし、ペンさし、さしちゃった……っ」
エルマはガタガタと歯の根を鳴らしながら、トンパの手に突き刺さったままの金属ペンを指差した。
(自分の中のバルバロッサの凶行が)怖くて泣いているだけなのだが、周囲の目には『命の危機に瀕し、無我夢中で抵抗した反動で震えている』ようにしか見えない。
「……自分の身を守って勇敢だったな、お嬢。よく生きててくれた」
アレクは痛ましそうに顔を歪め、エルマの頭を優しく撫でた。
大の大人三人、しかも剣を持った相手に対し、ペン一本で必死に抵抗したのだ。どれほどの恐怖だったことか。
「エルマ様、ものすごい血です……っ! 今すぐお医者を!」
「か、かすり傷です……」
自分の血ではないため、本当に無傷なのだが、マーサの目にはエルマが気丈に振る舞っているようにしか映らない。
マーサは振り返り、床に押さえつけられているトンパたちを、燃えるような憎悪の目で睨みつけた。
「……よくも、よくも大切なお嬢様をここまで痛めつけてくれましたね! 旦那様が戻られ次第、ただで済むとは思わないでください!」
「だから違うと言っているだろうが! その女が急にバケモノみたいに――ひぎぃっ!」
戦士の一人が、トンパの傷口をわざと強く踏みつけ、悲鳴を上げさせた。
もはや、この哀れな悪徳商人の言葉など、誰の耳にも届かない。
(おいおい傑作だなァ! おい豚、テメェから先に手を出してきたんだ。これでテメェの倉庫の在庫は、全部『慰謝料』として俺たちが合法的に接収してやるよ。ここからが交渉ってやつだぜ?)
『バルバロッサさんの言う「先に手を出す」の基準を理解しようとした私が馬鹿でした……』
泣きじゃくる少女の脳内で悪鬼が、すべてを思い通りに盤面をひっくり返し、腹を抱えて嗤っていた。




