第二章:書けたが、欠けたまま
彼は一度、
未来が決まったような錯覚を抱いたことがあった。
約束と呼ぶには曖昧で、
偶然と片づけるには長すぎる時間。
ただ、「このまま進めば、そうなるだろう」という
前提が、生活の奥に静かに置かれていた。
将来を見据えていた。
少なくとも、その言葉を
疑わずに使える程度には。
感情を制御し、
踏み込みすぎず、
壊さずに続けることを選ぶ。
その結果、
彼は書けなくなった。
問題はなかった。
日常は安定していて、
心も荒れてはいなかった。
だからこそ、
物語が生まれなかった。
彼の文章は、
いつも負の感情から始まっていた。
選ばれなかった記憶。
期待してしまった後悔。
名前を持たない関係。
心より先に、身体だけが進んでしまう夜。
そうした実体験を、
彼は何度も言葉にしてきた。
それは救いであり、
同時に、
自分を削る行為でもあった。
だが、
未来を守ることを覚えた彼は、
感情を壊しに行かなくなった。
深みに行く前に引き返し、
期待する前に線を引く。
正しく、
大人で、
健全な選択。
そして皮肉なことに、
その瞬間、
物語は死んだ。
ところがある時、
その前提が揺らいだ。
壊れたわけではない。
終わったとも言い切れない。
ただ、
「信じていた形」が
成立しなくなった感覚だけが残った。
それだけで、
心は十分に傷ついた。
彼は思い出してしまった。
この感覚を。
胸の奥で、
言葉が動き出す前兆。
「ああ、また書けてしまう」
それは救いではなかった。
むしろ、
守れていなかった証拠だった。
そんな時、
長く会っていなかった人と再会した。
半年以上、空いていた時間。
連絡を取らなかった理由も、
再会した理由も、
特別な意味はなかった。
ただ、
たまたま、同じ場所にいた。
過去に、
人として惹かれ合っていた人。
けれど、
何も選ばなかった人。
近況を交わす中で、
彼は「未来が揺らいだ話」を
あくまで軽く、
事実の一部としてだけ語った。
感情は語らなかった。
結論も、決意も。
しばらくの沈黙のあと、
その人は、
迷うように言った。
「……もしね。
私が、
普通とは違う条件だったら
それでも、どう思う?」
続いた言葉は、
告白ではなかった。
覚悟でも、
未来の提案でもない。
それは、
自分自身を安心させるための
共有だった。
彼はその瞬間、
すべてを理解してしまった。
これは選択の話ではない。
未来を作るための会話でもない。
これは、
不安定な人間同士が、
互いを鏡にして
「今の自分は間違っていない」と
確認し合う行為だ。
好意はあった。
それは嘘ではない。
だが同時に、
どこかで互いを重ね、
自分を守るために
相手を必要としている関係でもあった。
彼は思った。
俺たちは、
誰かを愛しているようで、
結局、自分しか
本当には愛せない人間なのかもしれない。
歪んでいる。
健全ではない。
それでも、
そこには確かに温度があった。
慰めだったのかもしれない。
保険のようなものだったのかもしれない。
だが、
何もなかったことにできるほど、
薄い時間ではなかった。
彼はその夜、
文章を書いた。
書けなかった理由。
書けるようになってしまった理由。
そして、
書けても埋まらなかったもの。
言葉は止まらなかった。
感情は、
ようやく深さを取り戻していた。
だが同時に、
はっきりと分かっていた。
これは回復ではない。
再生でもない。
欠けたものは、
戻っていない。
未来は、
埋まっていない。
ただ、
重なっただけだ。
彼は画面を見つめながら、
静かに思った。
書けるようにはなった。
でも、全部は戻っていない。
それでいいのかもしれない。
それしか、できなかったのかもしれない。
書けなかった頃の自分と、
書けてしまった今の自分が、
同じ名前で、同じ場所にいる。
彼は最後に、
画面を閉じながら、
こう思った。
書けた。
でも、欠けた。
その二つが同時に成立している今を、
彼はまだ、
手放す気にはなれなかった。




