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第一章:欠けて、書けなかった

 小説が書けなくなった、という事実よりも先に。

 彼は、自分が「穏やかになってしまった」ことを、どこかで恐れていた。


 朝は同じ時間に起き、

 夜は同じように眠る。

 感情は荒れず、波打たず、

 人生は一見すると、順調だった。


 将来を見据えていた。

 少なくとも、そのつもりだった。


 何年後の生活。

 何歳の自分。

 誰かと並んで立つかもしれない風景。

 不安定だった感情を、未来という言葉で押さえつけて、

 彼は「大丈夫な人間」になろうとしていた。


 それは希望だった。

 だが同時に、期限付きの仮置きでもあった。


 問題はなかった。

 少なくとも、他人から見れば。


 だからこそ、書けなかった。


 彼の物語は、いつも負の感情から生まれていた。

 愛されない不安。

 選ばれなかった記憶。

 一方通行の好意。

 名前を持たない関係。

 身体だけが先に繋がって、心が置き去りになる夜。


 そういうものを、彼は何度も文章にしてきた。

 傷ついた実体験を、少しだけ綺麗な比喩に包んで、

「物語」という形に変換してきた。


 それは救いだった。

 同時に、依存でもあった。


 だが今は違う。

 恋愛は慎重になり、

 感情は制御され、

 将来を考える癖が、無意識のうちにブレーキをかけてくる。


 この先に進んだら、何が失われる?

 この感情は、生活を壊すほどの価値がある?

 わざわざ傷つく必要はある?


 そう考える前に、

 彼は一歩引いてしまう。


 刺激は避けられ、

 波風は立てられず、

 結果として、心は「安定」した。


 そして皮肉なことに、

 心が安定した瞬間、物語は死んだ。


 畑は整えられ、

 雑草は抜かれ、

 危険な毒も排除されている。


 安全だ。

 健康だ。

 未来を見据えている。


 なのに、何も育たない。


 希望は壊れていなかった。

 裏切られたわけでもない。

 ただ、音もなく、少しずつ欠けていった。


 期待しすぎないように。

 踏み込みすぎないように。

 感情が溢れきる前に、

 自分で自分を制御する癖がついた。


 それは大人の選択だった。

 正解に近い判断だった。


 けれどある日、

 ふと立ち止まった瞬間、

 彼は気づいてしまった。


 あれ、今、俺は安定していない。


 未来は見据えていたはずなのに、

 足場は思ったより脆く、

 希望は残っているくせに、

 信じ切るには薄すぎた。


 安心も、不安も、

 どちらにも振り切れない。


 この状態は、

 苦しい。

 そして、非常に中途半端だった。


 だから書けない。

 昔のように、

 感情を叩きつけることもできない。

 かといって、

 穏やかな幸福を書けるほど、

 心は整っていない。


 彼はキーボードの前で、何度も指を止めた。

 悲しくないわけじゃない。

 苦しくないわけでもない。


 ただ、決定的に足りなかった。


 感情が、深く落ちきらない。

 痛みが、致命傷にならない。

 涙が、作品になるほど溢れない。


「この程度の感情で、物語を書くな」


 自分の中の、最も冷酷な編集者がそう囁く。


 昔の彼なら、

 誰かに裏切られ、

 自分を疑い、

 存在価値を見失い、

 それでもなお人を欲しがる、

 あの矛盾だらけの状態に身を置いていた。


 あれは確かに、地獄だった。

 だが同時に、創作にとっては

 あまりにも肥沃な土壌だった。


 今は違う。

 完全には壊れていない。

 完全には救われてもいない。


 だから彼は、

 ある結論に辿り着いた。


 安定していないから、書けない。


 心が壊れていないから落ちきれない。

 希望が残っているから突き抜けられない。

 未来を見てしまったせいで、

 今を壊す勇気が持てない。


 その事実に、

 彼は妙な安心を覚えた。


 ああ、今なら「書けない理由」が書ける。


 彼は書いた。


 書けない、ということ。

 感情が足りないのではなく、

 感情が中途半端であること。

 書こうとするたびに、

 何かを守ってしまう自分のこと。


 それは確かに、書けた。


 けれど同時に、

 何かが決定的に欠けていることも、

 彼は理解していた。


 かつての作品にあった、

 踏み込みすぎた言葉。

 取り返しのつかない選択。

 戻れない夜。


 それらは、もう書けない。

 書かない、ではなく、

 欠けてしまった。


 だからこの文章は、

 どこか輪郭が曖昧で、

 核心を避けるように進む。


 誰のことでもない。

 何が原因でもない。

 ただ、状態の話として語られる。


 それでいい。

 それが今の、彼の限界だった。


 もしこれを、

 誰かに読まれたとしても、

 何も確信できないだろう。


 痛みは匂わせるだけ。

 理由は濁したまま。

 真実は、書いていない。


 でも、それでいい。


 なぜならこれは、

 告白ではないからだ。


 これは、

 書けたふりをした欠落の記録であり、

 欠けたままでも生きている、

 今の自分の証明だから。


 夜更け、画面を閉じる直前、

 彼はほんの一瞬だけ、思ってしまう。


 もしまた、どうしようもなく感情が揺れたら。

 もしまた、自分を見失うほど何かを欲したら。


 そのときはきっと、

 また書けてしまうのだろう。


 それを望んでいない自分と、

 どこかでまだ期待している自分が、

 同じ部屋に共存している。


 幸せになろうとしている人間と、

 物語を書いていた人間が、

 同じ名前で生きている。


 彼は最後に、

 画面を閉じながら、こう思った。


 書けた。

 でも、欠けた。


 その二つが同時に成立している今を、

 彼はまだ、

 手放す気にはなれなかった。

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