悪役令嬢ローズマリーについて、誰も知らない本当のこと
悪役令嬢ってどういう意味なんだろうと、たまに考える。
物語の中で主人公の足を引っ張る存在?
高飛車で傲慢で、嫌な女?
それとも誰かに嫌われていないと、自分がそこにいる意味を見失う人?
ローズマリー・ド・シャルモンは、そのどれにも完全には当てはまらなかった。
あの子はもうちょっと複雑で、もうちょっと馬鹿だった。
いい意味で。
私とローズは、王立学園の同室だった。最初に部屋に入ってきたとき、彼女は純白のドレスのようなワンピースを着ていて、まるで舞踏会から逃げてきた幽霊みたいだなと思った。
「わたくし、ローズマリー・ド・シャルモン。あなたの名前は?」
私は読みかけの本から目を上げて、愛想なく言った。
「リナ・セフィーネ。庶民枠の特待生。あなたが今後、口もきかないだろう存在」
彼女は一瞬だけ眉をひそめたけれど、すぐにくすっと笑った。
「それは面白いわ。よろしくね、リナ」
私が学園に来たのは、母が病気で寝たきりになり、治療費と学費を稼ぐためだった。特待生の資格があれば、王家の奨学金と家族への手当金がもらえる。誰かの隣で笑って、何かを選ぶ余裕なんて、私にはなかった。
でもローズは、そういう『事情』とか『空気』とかを無視して、私の隣にふらっと座るような子だった。お昼のサンドイッチを半分にちぎって押し付けたり、私の筆箱を勝手に開けて「このペン可愛いじゃない」と言ったり。
ある日の退屈な授業中、私ははぼんやりとノートの端に意味のない落書きをしていた。ふと気がつくと、隣のローズがそれをじっと覗きこんでいる。彼女は何も言わず私の手からペンを抜き取ると、丁寧な手つきで落書きに何かを描き足した。
完成したのは、奇妙な謎の生き物。私たちは無言で目を合わせ、その直後に先生から注意されたけれど、なぜかローズはとても楽しそうだった。
私のことが好きだったのか、それともただ誰にでもそうだったのかは、今もよくわからない。けれど、あの子は、私にとって少しだけ厄介な存在で、少しだけ好きな存在だった。
学園では、ローズは悪役令嬢だった。
理由は簡単で、第一王子との婚約を当然のように受け入れ、堂々とした姿勢と余裕のある微笑みを崩さなかったからだ。
それが周囲の嫉妬と反感を買った。他の女子からはあからさまに敵視され、王子を狙う聖女から冷たい視線を浴び、男子たちからは遠巻きにされていた。
でもローズは、そういうのをむしろ楽しんでいた節がある。
「ねえ、リナはわたくしのこと、嫌いにならないの?」
「正直ちょっと面倒くさいとは思ってるよ」
「それは嬉しいわ」
「どこがだよ」
「面倒くさいって、存在をちゃんと意識してるってことじゃない?」
私は溜息をついて、洗濯したばかりのタオルケットをたたんだ。
「王子のこと、好きなの?」
そう聞くと、彼女はしばらく黙った後、わざとらしく伸びをして、天井を見上げた。
「……わからないの。好きなふりをしていれば、色々上手くいく気がしていたのよ。でも、それって結局、誰かが敷いた人生を生きてるだけじゃない?」
「じゃあ、やめれば?」
「そう簡単にはいかないのよ、リナ。私は名前のようにローズマリーみたいな女なの。誰かの神経を逆撫でするくらい強い匂いを纏っていないと、自分がどこにいるのかわからなくなるの」
妙な例えだなと思ったけど、なんとなく理解はできた。
彼女は、優しさを剥き出しにするのが怖い人だったのだ。
学園主催の小さな舞踏会があった夜、私はローズの姿が見えないことに気がついて、そっとテラスへ向かった。薄暗いテラスの隅で、ローズはじっとガラス越しの室内を見つめていた。
視線の先には、王子と聖女が静かな音楽に合わせて踊っていた。聖女は頬を紅潮させて、瞳を潤ませている。王子は今までローズに一度も見せたことがないような、穏やかで優しい微笑みを浮かべていた。
ローズは何も言わなかった。
彼女はいつも、誰かに責められても、女の子達に聞こえるように悪口を言われても、睨まれても何も言わなかった。優雅に、少し鼻で笑って流していた。
でも部屋に戻ってきて、ドアを閉めた瞬間、彼女は床に座り込んだ。まるで膝が壊れた人形みたいに。
「今は何も聞かない。ただ、ここにいるから安心して」
私は黙って、淹れたての紅茶を机の上に置いた。ローズはそれを見て、ふふっと微笑んだ。
「ねえリナ。今日だけ、子どもみたいに甘えてもいい?」
私は彼女の横に座って、そっと肩を貸した。ローズは顔をうずめて、絹のハンカチみたいに静かに泣いた。
その後、彼女は婚約を正式に解消した。
理由は「王子の真実の愛に配慮した結果」だとか、そんな書き方だった。学園で彼女を笑う人はいたし、哀れむ人もいた。
でも私は、何も言わなかった。何も言えなかった。
「ねえリナ、将来の夢ってある?」
ある日の夕暮れ、彼女はぼそりと聞いてきた。私は少し考えてから言った。
「小さなパン屋をやりたい。町角で、犬が前に寝転んでるような店」
「いいわね。あなたが焼くパン、なんだかとても美味しそう」
「ローズは?」
彼女は唇に指を当てて、静かに笑った。
「私は……そうね。何にもならずに終わるのも、案外悪くないって思ってる」
「ほんとに馬鹿だな、あんた」
「ええ、そうよ。悪役令嬢なんて、だいたいみんな馬鹿なのよ」
卒業式の当日、ローズは忽然といなくなった。
部屋には何も残されていなかった。鍵のかかっていない机の中に、唯一、私宛の手紙があった。
『リナへ
いつも私のそばにいてくれて、ありがとう。
あなたと出会えて、本当に良かった。
私は結局何にもなれなかったけれど、それでもあなたという友達がいたことが、私の人生の救いでした。
いつか町角のパン屋の前で、あなたの笑顔をこっそり見に行くかもしれません。
その時はどうか気づかないふりをしてね。
ローズより』
私はその手紙をずっと持っている。茶色くなったインクに仄かに香る香水が、あの頃のまま薄紙に染み込んでいる気がする。
いま私は、本当にパン屋をやっている。町角の、あの子に言った通りの店で。犬はいないけれど、猫が店先で寝ていて、毎朝角砂糖をひとつ落としたような朝日が差し込む。
時々、白い服を着た女性が通りを歩いているのを見かけるようになった。彼女かどうかはわからない。けれど、もしそうだったとしても、きっと私から声はかけないと思う。
だって彼女は、ローズマリーの香りみたいな人だから。さっぱりした顔で人を突き放しておいて、後になって鼻の奥に残るような、そんな存在でいてほしい。
でも。
でも、もし彼女がパンを買いに来たら。
そのときは焼きたての一番いいやつを、黙って袋に入れて渡そうと思っている。
もちろん私の大好きな、ローズマリー入りのバゲットを、ね。