母の声
廊下の奥から、蹄のような音が近づいてくる。
壁に警報が点滅し、研究員たちの声が消えた。
「ミ……カ……」
それは言葉ではなかった。
叫びでも、悲鳴でもない。
ただ、母がかつて娘に与えた最初で最後の“名前”が、咆哮の奥からこぼれてきた。
檻を壊し、骨がはみ出し、眼球が白濁しても。
心のどこかに、たった一つの記憶が残っていた。
娘の、名。
「ミカ……」
研究室の壁を突き破って、リツ1=ひまりが姿を現す。
その姿はもはや、かつての優しい面影など残っていない。
両腕は異常に肥大化し、背中には骨の棘。
呼吸のたびに皮膚が裂け、血と薬液が滴る。
けれど──
美香はその“怪物”を見て、恐怖より先に涙があふれた。
「……お母さん」
その声に反応して、ひまりが一歩、また一歩と近づく。
「やめろ」
加賀が警告する。「今近づけば──」
「彼女は、彼女のままだ」
浩一郎の声が被った。
銃を構えたまま、娘をかばうように立ちはだかる。
加賀が冷たい笑みを浮かべる。
「滑稽だな。今さら“人間”のふりか?」
彼は銃を向けながら言い放つ。
「リツ1──ひまり。お前は私が育てた被験体だ。
浩一郎との接触も、恋愛も、妊娠も、すべては実験の一部だった。
“人間と怪物の間に子は生まれるのか”──その命題に答えを出すために、私は君を利用した」
「……!」
美香の心に、冷たい杭が突き刺さった。
「信じない……!」
「だが事実だよ、美香くん。
君が生まれたのは、奇跡でも偶然でもない。目的のもとに、計算された結果だったんだ」
加賀の声は静かだった。感情のない、手術のメスのように鋭く、冷たい。
「君の父は優秀だった。感情さえなければ、完璧だったのにね」
浩一郎の拳が震えていた。
「俺は、命令で始めた。リツ1の管理と観察……
でも、彼女に“ひまり”という名前をつけてから、変わったんだ」
「ひまり……?」
「そうだ、美香。
母さんは研究対象なんかじゃない。“ひまわり”のように、暗い施設の中で俺に笑ってくれたんだ」
彼は銃を下ろし、美香のそばに膝をつく。
「俺たちは愛し合った。……施設の監視をかいくぐり、誰にも知られずに、たった2人だけの時間を作った」
「お前が生まれたとき……ひまりは泣いていた。自分の体が壊れ始めていることに気づいていたから」
「彼女は言った。“この子だけは、外へ”と」
「……それで……逃げたの……?」
美香の声は震えていた。
「そうだ。
でも施設はすべて知っていた。
加賀は記録を取り続け、“生まれた子供の成長”を観察するためだけに、俺たちを泳がせていた」
加賀がにやりと笑った。
「その通り。どんな変異が表れるか、どんな能力を持つか……君が“成熟”する日を待っていたんだよ、美香くん」
*
そのとき──
「ミカ……」
ひまりの声が、再び響いた。
だがその声は、先ほどまでの怒りと混乱に満ちたものではなかった。
“呼ぶ”声だった。
“娘を求める”声だった。
「……お母さん……!」
美香が一歩、前に出ようとする。
「美香! ダメだ!」
浩一郎の手が止めようとするも、美香は振り払った。
「私には聞こえる! あの声……母さんの声……!」
リツ1の赤く濁った目が、美香の目と合った。
次の瞬間──
ひまりの巨体が、加賀に向かって突進した。
「な──!?」
加賀の瞳に、初めて恐怖が浮かんだ。
「お前……まさか、命令を──!」
だが遅かった。
巨体が彼を薙ぎ倒し、床に叩きつける。
「グゥ……ッ……!」
ガラスが割れ、血が飛び散る。
だがひまりは、それ以上手を出さなかった。
加賀の動きを止めると、ゆっくりと、美香の方を向いた。
「ミ……カ……」
その声は、風のように弱く、でも確かだった。
「……母さん……!」
涙が止まらなかった。
その一言に、すべてが詰まっていた。