父の過去
冷気のような沈黙が、部屋を支配した。
「……浩一郎か」
加賀はゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥に映るその男は、かつての同僚。いや──裏切り者だ。
「久しいな。もう10年か?」
「話すことはない」
浩一郎は銃を構え、娘──美香の元へと歩を進める。
美香はまだ拘束台に縛られたまま、目を見開いて浩一郎を見つめていた。
「……父さん……?」
「大丈夫だ。今すぐ外す」
そう言いながら、手早く拘束具を解除する。
美香の体は小刻みに震えていた。
その瞳には、まだ“血の記憶”と“母の咆哮”の残滓が焼き付いている。
だが、浩一郎はその全てを抱きしめるように、美香の肩に手を置いた。
「全部、話す時が来た」
*
「君は医療ミスを犯した。そう記録には残っている」
加賀が言った。冷ややかに、しかしどこか愉しげに。
「だが、君は嵌められた。……君の手術記録を改ざんし、患者の命を奪ったのは、我々の“上”だ」
美香の息が止まった。
「それは……どういう……」
「君をこの館に住まわせたのも、“意図的な配属”だったんだよ、浩一郎。君があの女──“リツ1”に関わりすぎたからだ」
加賀は皮肉げに笑った。
「お前が“実験体”に恋をしたのが悪い」
その言葉に、浩一郎の目が細くなる。
「黙れ。俺は彼女を“人間”として愛した。それだけだ」
「だが、彼女はもう人間ではなかった。お前の娘すら“実験結果”にしか過ぎない。……違うか?」
銃口がわずかに揺れた。
浩一郎の喉元で、抑え込んだ怒りが唸る。
美香はその会話を理解しようと必死だった。
「実験……って……母が……? じゃあ私って……」
「美香、聞いてくれ」
浩一郎が振り返る。
「お前の母は、“リツ一族”の血を持っていた。そして、その適合率は異常な高さだった。
……だが、心は人間だった。苦しんでいた。誰にも見せなかったが、俺には分かった」
「君は、彼女と“子を成した”……?」
加賀の声にはわずかに怒りが滲んでいた。
「施設の規則を破った。被験体を、研究対象から“家族”に変えた。だからお前はここを追われた。そして──娘は“血統”として保存された」
「……保存?」
美香が呟く。
「その通り」
加賀は立ち上がった。端末に表示された**美香の適合率92.1%**を指差す。
「君はリツの“完成系”だ。我々が望んだ未来だよ、美香くん。
君の血は、あらゆる変異を安定化させる。兵器として、薬品として、次代の“神”となる──」
「やめろ……!」
浩一郎の銃声が響く。
加賀の肩がはじけ、白衣が裂ける。
だが加賀は怯まなかった。むしろ笑っていた。
「感情で引き金を引くな、浩一郎。君は何も変わっていない」
*
「父さん……私、本当に人間なの……? リツって、何……?
私の血は……“母”の声は……全部、そういうものだったの……?」
美香の声は震えていた。
浩一郎は、その肩をゆっくりと抱いた。
「お前は人間だ、美香。
……どんな血を引いていようと、誰が何を言おうと、俺の娘だ。それだけは、変わらない」
その言葉が、美香の心の奥にようやく届いた瞬間だった。
ズガン!!
施設全体が揺れる。
モニターに映ったリツ1の姿が、もはや人の形を保っていなかった。
腕は膨張し、眼球が変色し、背中から骨のような突起が飛び出していた。
「リツ1、収容限界を突破!」
「完全暴走状態です! 出口のロックも解除されています!」
──母が、来る。
その叫びは、娘のもとに届こうとしていた。
名を呼ぼうと、咆哮の奥から絞り出すように。
「ミ……カ……」