血の証明
暗がりの通路を走っていたはずだった。
だが背後から伸びた影に、美香はあっけなく捕まった。
鼻先に押し当てられた布から、甘く重たい匂い──睡眠薬。
体が崩れるように意識を失った。
*
次に目を覚ましたとき、冷たい金属のベッドに拘束されていた。
手首、足首、動かない。白く光る蛍光灯が、目に痛い。
「……名前は?」
声がした。
視界の端に、白衣の男が立っている。背は高く、髪は整えられ、冷静な目をしていた。
眼鏡の奥から、こちらを観察するような視線。
「名前……? 誰が──」
「答えなくても構わない。いずれ分かる」
男は小さく呟くと、無言で注射器を取り出した。
針が腕に刺さる。血が静かに採取される。
「君のように勝手に施設に入り込む者が、時折いる。ほとんどはすぐに処理されるが……」
その目が、わずかに光を帯びた。
「君は、反応が違う。リツ個体が、激しく反応を示している。特に“リツ1”が」
“リツ1”──母だ。
「……あなたは、誰……?」
「加賀。加賀秀一。ここの主任だ。……ふむ、瞳の色も標準より暗い。爪の形成も通常個体とは違うな」
何を言っているのか分からない。
加賀は注射器を持ったまま、端末へ向かうと、美香の血液を解析装置に投入した。
そして、無造作に言った。
「まさかとは思うが、適合率が90を超えていたら、君は“リツ一族”ということになる」
美香は、聞いた言葉の意味を、すぐに理解できなかった。
「リツ……一族?」
「そう。特殊薬物に対して遺伝的な適応を示す血族。
かつて我々が“神の器”と呼んだ存在たち。今も、彼らの血は探し求められている」
血液分析機が、静かな音を立てて停止した。
画面に、赤文字が浮かぶ。
《適合率:92.1%》
加賀の目が細くなった。
「……やはり、か。リツの血……君の中に、確実に流れている」
美香は言葉を失った。
体が冷えていく。頭が、回らない。
「私が……? そんな……どうして……」
今までの違和感。
父が語らなかった母のこと。館に渦巻いていた謎。
全てが「ここ」に繋がっていた。
「どうやら、君はただの“外部の少女”ではなかったようだな。記録を調べさせてもらうよ」
加賀は端末を操作しながら、興味深げに唇を歪めた。
*
そのときだった。
壁の奥から、凄まじい咆哮が響いた。
「グアアアアアアアアアアアア!!!」
施設が揺れる。警報が鳴る。
「異常反応!リツ1、反応レベル上昇!生体数値、閾値突破──!」
「なんだと……!? これは……制御を超えている!」
モニターに映ったリツ1は、もはや座ってはいなかった。
腕を壁に叩きつけ、背中には異常な腫れと変形が現れている。
骨格が隆起し、皮膚の下を何かが蠢いている。
「変異が加速している……!」
加賀が思わず声を上げた。
「なぜだ……何が引き金になった……」
その時、彼の目が美香に向いた。
「……まさか、君か?」
目が合った。
美香は呆然としていた。だが、はっきりと感じていた。
あの“叫び”の意味を。
母が、反応している。私に──。
「……っ……!」
頭を抱える。
身体が熱い。心臓が痛い。血が暴れだす。
目の奥に、見たことのない映像が浮かぶ。
檻の中の母、抱きしめる腕、赤ん坊の泣き声──
「……いや……分からない……私……私……!」
美香は混乱し、何もかもがわからなくなった。
「お前が、原因なのか……!」
加賀が声を荒げる。
次の瞬間、部屋の外が爆発したような音を立てた。
ズガァン!!
鉄扉が吹き飛ばされ、黒い影が立っていた。
「──そこまでだ」
浩一郎。
コートをはためかせ、拳銃を手に持ち、冷たい目をしていた。
「娘から手を離せ、加賀。……ここは、もう終わりだ」