地下施設R
階段を降りた瞬間、空気が変わった。
湿気、薬品、そして生臭い鉄のような匂い。
美香は懐中電灯を手に、無意識に息を浅くする。
地下施設は死んではいなかった。
照明は点灯し、通路の奥からは機械の駆動音と、何人かの研究員たちの会話が微かに響いていた。
「……No.11、また拒絶反応……」
「筋繊維崩壊、投与中止」
「リツ3は安定。データ取得優先」
──番号? リツ……?
美香は息を呑んだ。
リツという名が、固有名ではなく分類名として使われている。
扉のガラス窓から見えた研究室の中では、白衣の研究員たちがモニターを前に、無表情で作業していた。
奥の観察室には複数の個体がいた。
皮膚が変色し、骨格が異常に肥大化した人間の“なれの果て”。
床に座り込み、時折痙攣しながら呻いている。
それらの檻には、それぞれ番号が貼られていた。
No.6、No.12、No.24──
皆、薬に適合できなかった“外れ”だ。
一方で──ある部屋のプレートには、こう記されていた。
《リツ1個体:特別収容》
美香の心が、ざわついた。
リツ。父が言っていたその名。そして、母の可能性。
扉がわずかに開いていた。
恐る恐る中へ足を踏み入れる。
*
そこは一際広い観察室だった。
中央には強化ガラスの隔離檻。
その中に──一人の女性が、膝を抱えて座っていた。
髪は長く、黒く、顔は伏せられていた。
痩せ細った体は、骨が浮き出るほどで、腕や背中には投薬痕のような黒い斑点が無数に残っている。
静かに、檻の中の“彼女”が顔を上げた。
次の瞬間──
「アアアアアアアア!!」
咆哮。
耳を劈くような低音が、空間を揺るがす。
思わず美香は耳を塞ぎ、尻もちをついた。
──人間じゃない。声が違う。目が違う。
だけど。
その顔を、どこかで知っている気がした。
写真も、記憶も、何一つ持っていないのに、心の奥が叫んでいた。
──これは、母だ。
咆哮を止め、再び顔を伏せたその唇が、わずかに動いた。
ひび割れた声、かすれるような、壊れかけた人の声。
「……ミ……カ……?」
美香の心臓が跳ねた。
たしかに、そう言った。
「……お母さん……!」
駆け寄ろうとした、その瞬間──
母が再び目を見開き、暴れ始めた。
「ウゥ……グルァアアアアアア!!」
腕がガラスに叩きつけられ、センサーが警告音を鳴らし始める。
《警告:リツ1、反応レベル上昇。拘束処置準備──》
背後の通路から、研究員の怒鳴り声が迫ってきた。
「誰か入ったか!?施設センサーが反応してるぞ!」
「隔離室!誰か入った形跡がある!」
まずい。
美香は、涙を飲み込み、檻を離れ、走り出した。
母が、リツ1個体として生きていた。
けれど、記憶も言葉も、すべてを薬に奪われていた。
──なのに、「美香」という名前だけは、まだ残っていた。