リツの部屋
夜、館の窓に月の光が差し込む。
美香はベッドの上で目を閉じていたが、眠気は訪れなかった。胸の奥で、父の言葉が何度も反響していた。
──リツは名前ではない。通称だ。
──“リツ一族”という特別な血を持つ者が存在する。
──地下施設。
──……お前の母は、今もそこにいる。
母の顔を美香は知らない。
写真すら見せてもらったことがなかった。だが、父が「そこにいる」と言った。なら、行くしかない。
そして──“リツの部屋”が、その入り口かもしれない。
静かにベッドを抜け出し、ポケットの中にある真鍮の鍵を握りしめる。
東棟へと続く廊下は、夜になると空気が変わる。重く、冷たく、まるで誰かの気配が染みついているような感触。
目指す部屋の前に立つと、美香の指先がわずかに震えた。
扉は重厚で、鍵穴には埃が詰まっていた。ゆっくりと鍵を差し込み、回す──
カチリという音と共に、扉が静かに開いた。
*
懐中電灯を手に、中へ足を踏み入れる。
部屋は広くはなかった。古びた木の床と、日焼けしたカーテン。奥に寝台が一つと、壊れかけた鏡台、そして壁には無数の紙が貼られていた。
手書きの絵。薬瓶の絵。母と娘のような影絵。
どれも子供の手によるもののようで、絵の隅に「リツ」と小さく記されていた。
──この部屋は、“誰か”の記憶で満ちている。
部屋の奥、鏡台の前に立つ。鏡はひび割れ、曇っている。
だが、美香がその表面を拭った瞬間──
そこに映った“自分の顔”が、一瞬だけ、知らない少女に変わった。
「……!」
目を見開いて後ずさるが、振り返っても誰もいない。
部屋に漂う空気が、少しずつ変わり始めていた。
そのとき、鏡台の引き出しから、一冊の日記帳を見つけた。
表紙には「リツ」とだけ書かれていた。
⸻
《リツの日記・抜粋》
4月15日(昭和十六年)
お父様が私に薬を打った。これで、私は「家族の誇り」になるのだと。
でも、胸が苦しい。目が見えにくくなる。
怖い夢を見る。自分の手が、自分じゃなくなる。
4月20日
先生という人が来た。優しい人。
「君は道具なんかじゃない」と言ってくれた。
──でも、その人もどこかへ連れて行かれた。
4月22日
母様が泣いていた。
「もう戻れないのよ、リツ……」
私の名前は、ここでは誰も呼んでくれない。
⸻
ページの端には焼け焦げた跡があり、幾つもの言葉が掠れていた。
けれど、美香には、そこに綴られた想いが、確かに伝わってきた。
──これは、道具として扱われた少女の記憶だ。
そしてその少女が、誰かにとって「母」だったなら?
その時、床板の一部がわずかに沈んだ。
「……?」
美香が踏み込むと、木の床がぎぃ……と軋み、中心が円形に沈み込む。
すると、カチリと何かのロックが外れ、部屋の隅にある衣装棚の裏が、わずかに動いた。
まるで、隠し扉のように。
棚を押しのけると、そこには暗い階段が口を開けていた。
深く、冷たい空気。下からは低い機械音が聞こえる。──施設は、まだ動いている。
美香は懐中電灯を強く握りしめた。
その時、階段の奥から、誰かの声が、かすかに聞こえた気がした。
──……カア……
──……リ……カ……
母の声──?
幻聴かもしれない。だが、美香は躊躇しなかった。
それが幻だとしても、確かめなければならない。
彼女は、足を踏み出した。
階段の先に待ち受けるのは、室田財閥が隠し続けた“遺産”、
そして“リツ一族”に刻まれた禁断の真実。