悲しみと葛藤
あの地下からの脱出から、どれほどの時間が経ったのか。
美香はそれすら曖昧だった。
薄暗い山小屋の一室。古びた布団の上で目を覚ました彼女の胸には、
焼けつくような痛みと、冷たい不安が渦巻いていた。
──私は、怪物の娘だった。
母が異形となって暴れ狂い、自分の名だけを呼んだこと。
加賀の口から明かされた、出生の真実。
そして、異変とともに自分の体に現れた“力”。
何もかもが、自分の思っていた「普通」と違っていた。
目の奥が、じんと痛む。
泣きたくても涙は出ない。ただ、身体の芯だけが冷えていた。
コン、コン。
部屋の扉が控えめに叩かれた。
振り返ると、父──浩一郎が、少しだけ顔を覗かせた。
浩一郎「……起きてたか」
弱々しい声だった。医師としての威厳など、もう残っていない。
そこに立っていたのは、一人の父親としての姿だった。
浩一郎はゆっくりと部屋に入り、娘の隣に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れる。
浩一郎「美香……その、話さなきゃいけないことがある」
彼はそう言って、美香の目を見つめた。
視線の奥には、深い後悔と愛情が揺れていた。
浩一郎「母さんのこと……ひまりのこと。君のことも……俺は、すべて知っていた。
だけど、言えなかった。怖かったんだ。全部を話したら……君に嫌われる気がして」
浩一郎の声が震えていた。
浩一郎「でもな、それでも……お願いがあるんだ」
彼は深く息を吸い、言葉を絞り出すように告げた。
浩一郎「ひまりのことも……俺のことも……恨まないでくれ。
君がどんな血を引いていようと、どんな力を持っていようと……
俺は、お前を……心から、愛してる」
その言葉に、美香は返事ができなかった。
頭の中では、何度も何度も父を責める声が渦巻いた。
「なぜ隠していたの」「なぜ母を助けられなかったの」「なぜ、私は……」
でも、父の顔を見ると、声にならなかった。
あのとき──暴走した母の中に、かすかに自分の名前を呼ぶ声があった。
それだけが、まだ救いのように思えた。
美香「……わからないよ。どうすればいいのか、わからない……」
小さく絞り出した声。
その声に、浩一郎は黙ってうなずいた。
浩一郎「それでいい。無理に許さなくていい。
でも、お前が……お前のままでいてくれたら、それでいいんだ」
父の手が、そっと美香の手に触れた。
その温もりは、今まで感じたどんなものよりも確かだった。
たとえ、血の中に怪物の因子が混ざっていても──
たとえ、自分が人ではない何かになろうとしていても──
この手だけは、嘘じゃない。
美香は静かに目を閉じた。
その手の温もりを、ただ、感じていた。