第3話 深淵を覗く瞳
夜の帳が城を包み込む頃、美咲は淡い月光のもと、自室の小さな書斎へと足を運んでいた。卓上には、昼間に集めた貴族と衛兵の名簿、反乱派の動きが書き込まれた地図、そして王立図書館で写し取った古い城塞図が広げられている。
「……この夜道の抜け道は、衛兵の交代地点を避けられるわね。レオンを連れて脱出するなら、この小径から裏庭へ出るのが最適……」
美咲は細い指先で城内地図をたどりながら、声にならないつぶやきを洩らした。かつて疫病で家族を失ったあの日、夜ごとひそかに孤児院を抜け出し、灯りの切れた街路をさまよった記憶が頭をよぎる。あの時の強い恐怖と、しかし誰かを守りたいという揺るぎない決意が、今ここでも胸を貫いていた。
──レオンが危険を感じて魔力の兆しを見せたのは、偶然ではない。彼にはこの国を救う力が眠っている。だとすれば、母として──継母として──、私は何としても導かねば。
美咲は地図をたたみ、手元のローブの裾に仕込んだ小瓶を取り出した。中には夜目を効かせる薬草エキスがほんの一滴。衛兵の目を一瞬曇らせるだけの極微量だ。
「もしもの時、この薬草が役に立つかもしれない」
そう言い聞かせると、美咲は軽やかに立ち上がり、窓辺へ移動した。月明かりに照らされた城下町の瓦屋根が静かに広がり、遠くには川面に反射する水銀灯のような光。すべてが、次の嵐の前の静けさに思えた。
一方、そのころレオンは――。
夜の執務室で父王から正装した儀礼用のマントを渡されていた。胸元には家紋の入った銀のブローチ。言葉少なに目を伏せつつも、幼い王子の表情には格別な緊張感が漂っている。
「レオン、お前にも立派な王子としての責務がある。だが、いかなるときも恐れずに進むのだぞ」
父王の低い声に、レオンはそっと頷いた。胸の鼓動は早いが、瞳には迷いよりも決意の光が宿る。
──母――継母――美咲殿が私を守ってくれる。それなら、僕も、彼女を守らなければ。
深夜零時、城内は厳戒態勢に移る。美咲はレオンの手を固く握り、秘密の小径へと向かった。足音を立てぬよう、二人は影を伝うように歩く。時折、衛兵のひしめき声が石壁越しに漏れてくる。
「継母様……怖くない?」
レオンが震える声で振り返る。
「大丈夫。私がいるから」
美咲は微笑むと、傍らの小瓶を手の平で温めた。薬草の香りがほのかに立ち上る。
「もし衛兵に見つかっても、これなら一瞬だけ視界がゆがむ。脱出に十分な時間を稼げるはず」
二人は古びた石門を潜り抜け、裏庭へ続く樹間の小道へ入った。枝葉のざわめきが、二人の鼓動と重なる。
──だが、その先には、反乱軍の最前線が待ち構えている。
月光に照らされた先に、漆黒のフードをかぶった兵士たちが何人も控えていた。蜃気楼のように揺れるランタンの灯。美咲は一瞬息をのんだが、すぐに覚悟を決めた。
「行くわよ、レオン。私たちの家族を、未来を守るために──」
ブナの根を踏みしめる音が静寂を切り裂き、二人は闇の向こうへと歩を進めた。宵闇の中、その小さな人影はひとつの強い光となり、城を揺るがす大いなる戦いの幕を開けようとしていた。