白
一筋の風が吹いては肌も痛くなる冬の日。
一人公園のベッドに腰掛け、ぼーっと、空を眺める。
月は煌々と辺りを照らし、人気のない道にぼんやりと街灯が灯る。
吐いた息は白く汚れ、暗い空へと昇っては消える。
こういう夜は、良い。
色々と、忘れさせてくれる。
嫌な事も、何もかも、全部。
なんだか眠たくなってきて、ゆっくりと体を横にする。巻いていたマフラーを簡単に枕にして頭の下に敷く。目を閉じ、呼吸を整える。
そうして眠りにつこうとした、その、瞬間。
「こんばんは」
ふわりと香水の匂いが漂い、月の微かな明かりも消え、暗闇に襲われる。
何が起こったのか理解できず、ただ瞬きを繰り返す。
「あれ、聞こえてますか」
静かで透き通ったその声が耳朶を打ち、ようやく現状を把握する。
――どうも
自分の声とは思えないほど掠れて弱々しいその音は、沈黙と共に夜の闇へと溶けていく。
温かそうなジャンパーを身に纏い、ファーフードを被った女性が、屈んでこちらを不思議そうに見つめている。
目と目が合い、さらに沈黙を重ねる。
整った顔立ちで、長めの白い髪を風に靡かせる彼女は、猫のような鋭い眼光でこちらを見続けている。
何だか居たたまれなくなって、体を起こし、ベンチの端の方へと身を寄せる。
何と言う訳でも無く、女性も立ち上がってベンチに腰を下ろす。
沈黙は、まだ、続く。
車が一台、道路を通る。風が吹いて、その寒さに身を震わせる。さっき取ったマフラーをもう一度首に巻く。
幾許の時が経って、ようやく沈黙が破られる。
「何、してたんですか」
先ほどと同じく、透き通った綺麗な声。どこか独白のようなその問いに乾燥する口を開け、ぽつぽつと言葉を発する。
――特に、何も。ただ、寝ようとしてました。
ちらりと、彼女の方を盗み見る。フードのせいで顔はよく見えないが、その目はどこか、遠くの方を見ているようだった。
「お邪魔しちゃいましたかね」
白い息を吐き出して、彼女は軽く微笑む。
――大丈夫ですよ。気にしないでください。
固まった表情筋を何とか動かして、作った笑顔を顔に貼り付け、答える。
――あなたは、何してたんですか。
話題なんてものは無いので、質問をそのまま返す。彼女は一瞬困ったような笑みを浮かべてから、こちらに身を寄せ、顔を近づける。香水がまた、ふわりと香る。突然の接近に驚いて、咄嗟に顔を背ける。彼女もまた、前を向き直してそっと答える。
「散歩です。なんだか、歩きたい気分だったので」
風が吹く。
また、彼女の長い髪が揺れる。既に葉の落ちた木も、寂しそうに揺れる。
――良いですね。僕も好きですよ、散歩。
クスリ、と彼女が笑う。
「ええ、でしょうね」
その発言の意図が分からず、ただただ困惑する。
ああ、何だろう。頭が痛い。
「よく知ってますよ」
困惑し、言葉の出ない僕を横目に、彼女は立ち上がり、ぐっと伸びをする。
「さて、そろそろ行かなくちゃ」
どこへ、と声を出そうとする。けれども、そんな音は一切口から出てこない。かひゅっ、と声にならない声が僕の喉から溢れるばかり。
彼女は軽やかな足取りで、公園の出入口へと向かう。追おうと思っても、足に重りがついたかのように動かない。
行かないで。
どうして、ねえ。どこへ行ってしまうの。
知り合ったばかりなのに、何故かどこへも行って欲しくない。ずっと隣にいて欲しい。けど、そんな思いが心に浮かんでも、言葉にならない。
そうして、公園から出ていく、その直前に、彼女はくるりと身を翻す。
長い髪が揺れる。白くて長い、彼女の髪が。
「おやすみなさい」
そう言って彼女はまた、優しく微笑んだ。
パチリと目を覚ます。
見慣れた天井、見慣れた布団。
いつもの部屋で、いつもの日々が始まる。
体を起こして布団から出て、身支度をする。
――おはよう。
数年前に亡くなった、愛猫の遺影に手を合わせる。
凛々しくて、高貴な感じの、可愛らしい白猫だった。
辛い時も、苦しい時も、彼女と一緒なら乗り越えられた。
あれ、おかしいな。
突然、視界が崩れた。いくら目を擦っても視界は治らず、手や顔に液体がつくだけ。
どうにかして元に戻そうとしても、目から溢れては止まらない。
結局、数分、いや十数分はそのままだった。
時間をかけて気持ちを落ち着かせ、鼻をすすりながら出かける準備を整える。
玄関で靴を履き、扉の取っ手に手をかける。
「ニャー」
背後から、忘れることの無い声が鳴り響く。
驚きながらもすぐに振り向くが、そこにはなにもいない。生きた動物の気配など、微塵もしない。
そりゃそうだ、だって、彼女はもう――。
ふと、視界に何か白いものが目に留まる。
拾い上げたそれは、一房の白い、動物の毛。
胸から何かが込み上げてくる。
それを飲み込んで、ぎゅっと唇を噛み締めた。
毛を丁寧に織り込んでバッグの中にしまう。
帰りに、保存用の桐箱でも買ってくるとしよう。
――行ってきます。
ああ、今日もまた、息が綺麗に色づいてる。
どうもk4rintoです。
短編5作目です。
最近寒いですね。ずっと今年は秋も暖かかったのでなんだか変な感じです。皆様も体調にはお気をつけください。