W・クリームソーダ レシピエント
雲一つない爽やかな晴天。そんな事は気にも止めず、屋上には少しばかりやつれた男が熱を帯びた鉄柵に寄り掛かり何食わぬ顔で外を眺めている。ピリリリと目覚まし時計のような甲高い音が頭の中を一瞬で駆け巡り、男は右の耳上をコツコツと叩きながらやれやれといった表情を見せる。隠し持ってきたタバコの1本に火をつけるが、吸い込む度にむせ返っていた。
急に入口のドアが勢いよく開いた。男は咄嗟に手からタバコを落とす。振り返ると担当看護師の芳倉ますみが立っていた。
「緑澤さん、勝手に屋上に行ってはいけないと注意しましたよね!」
マスク越しでも分かるほど苛立った顔をしてさらに歩み寄ってくる。
「しかも、この匂い…タバコまで吸ったんですか⁈」
緑澤は慌てる事なく
「いやいや、吸ってねーよ。タバコなんて身体に合わねーや。」
と、平気で嘘をつく。緑澤は面倒臭い芳倉が嫌いだった。
「…とりあえず、着いてきて下さい。最後の診察がありますので。」
言い終えると踵を返し進んでいく芳倉の背中を緑澤は仕方なく着いて行く。
「なぁ、この音何なんだ?ピリリリって。手術の影響で頭でもおかしくなったんか?」
芳倉は振り返り呆れた顔をしながら聞き返してきた。
「は?何を言ってるんですか?」
ピリリリ
ピリリリ
ピリリリ
ピリリ…
アラーム音が聞こえて眠い目を擦りながら時計を見ると時刻は1時20分を指すところだった。右の耳上をコツコツと叩き「まだお昼じゃないか。」と僕は呟いた。何もなければ何時間だって寝られる体質で、見た目はどこにでもいるごく普通の大学3年生。映画サークルの監督を務めていて気のいい友達に恵まれ、サークルの中でも特に可愛いと評判の彼女までいる。これから本格的に就活が始まろうとしていた。けど今はベッドの上で鉄の布団でも被されているのかと思うぐらい身体を起こす事が出来ずにいる。諦めてもう一度眠りにつこうとした瞬間、友達の佐久と蘭、そしてボーの3人が部屋に入ってきて、文化祭で上映したホラー映画のシーンと同じ様に驚かせにきたのだ。
「ごめん、まだ寝かしてくれ。」と僕は冷たく遇らった。「目を覚ませ緑澤!起きろ!頑張れ!」と3人から声をかけられたような気がしたが、頑張れって一体何の事なのか分からなかった。
「…もう少し寝かしてくれ。」
緑澤は呟いた。夢の続きが見たくて最後の診察が終わっても診察台から起き上がる事ができなかった。
「いつまで寝てるんですか?先生の話しがあるまで暫くそこの席で待ってて下さい。」
緑澤は重い腰を上げてよろよろと廊下の椅子まで歩きだす。腰を下ろすとズキンと静かな音をたて、脇腹が痛みを抱え込んで離さない。苦悶の表情と同時に椅子から冷んやりとした感触がお尻を伝わり、ほんの少しばかり痛みを紛らわしてくれた。退屈で殺風景な診察室を見渡しながら緑澤は遠くの壁にかけられた時計を見ると、1時20分を迎えようとしていた。おもむろに緑澤はまた右の耳上をコツコツと叩く。それが何を意味しているのか緑澤自身も分かっていない。ただの癖か一種の生理現象としか。けど、何かとは捉えずらい深い記憶の底に潜むもののような気がしてならなかった。緑澤は若かりし頃を振り返る。普通の大学をでて、普通の会社に勤めるが、サラリーマンの枠に収まる事が出来ずたった1年で退社。数年間アルバイトで食い繋ぎ、映画サークル時代の友人のツテで映像制作会社に入社する。今度は性に合ったようで仕事は順調に進み、5年後に入社してきた坂森リサという女性に出会う。しばらくして2人は結婚し幸せを手に入れたのも束の間、緑澤は仕事に明け暮れすれ違いの日々が続く。一方で妻のリサは重い病気を患ってしまい日に日に身体が弱っていきあっという間にこの世を去ってしまう。その後緑澤は仕事を辞め、自ら友人や他人との距離を置いて生きてきた。いつしか近寄らない方がいい、人殺しだ。などの噂がたち、50歳を過ぎた頃に数奇な運命かはたまた神の悪戯なのか、緑澤はリサと同じ腎臓を悪くした。
「…ここじゃねぇんだよな。」そう言葉を漏らす緑澤。待合室に置かれたテレビに視線を移した。
急にテレビ画面が映りだし、同時にベッドから振動を感じ部屋の中がガタガタと揺れ始めた。テレビは小学校の運動会や中学校の入学式、高校のクラスの娘に告白し大胆にフラれた時や大学の映画サークルで女優志望のヒョウカと出会った時の僕の記憶が映っている。気がつけば身体は軽くなっていつの間にかベッドから起き上がっていた。しかし揺れは激しさを増して部屋の壁が崩れ始める。よく見ればここは僕の部屋のようで僕の部屋ではない事に気づいた。何かが変だと思ったら窓が1つもない。すると、ドアが勢いよく外れて恋人のヒョウカ、そして佐久、蘭、ボー、最後には両親も中に入ってきた。しかし部屋が分断されみんなから離れてしまう。床が崩れ傾いたテレビに視線が戻る。みんなが何かを叫んではいるが画面から目を離せなかった。なぜならテレビは僕の最後を映していたから。記憶が炭酸のように弾けて思い出していく。右の耳上を叩く仕草の意味も。僕は文化祭で披露する映画の撮影中に事故に遭った。外傷は死に直結するほど酷くはなかったが、打ちどころが悪く植物状態と診断された。死ぬのも時間の問題で言葉は発せられず、かろうじて生きている僕の脳はこの生と死の狭間に留まったままだと。なのになぜか時間の知覚ができた。窓もないのに外が昼の1時20分だと分かる。脳の大事な部分を損傷した僕は全て知覚出来ない意識下にいると思われているがそうではなかった。周りの状況や声や僕の記憶を脳はまだ判断できている。早く伝えなければ。そこにいる残されたみんなに。部屋はついに崩壊し、外は黒煙が渦巻いていてすぐ側まで闇が迫っていた。みんなはすでに手の届かない高い場所にいる。するとその時、ヒョウカが上から飛び降りてきたのだ。理屈は分からない。なぜヒョウカだけが僕の意識下に辿り着く事が出来たのか。僕は躊躇わずヒョウカをしっかりと受け止めた。数多の感情が溢れ出す。きっと現実の世界ではほんの一瞬だろう。ただ僕には永遠とも一瞬とも思える時間がそこには同時に存在したのだ。ヒョウカが最後に「頑張ったね。お疲れ様。」と言ったのが聞こえた。悔しい。時間が無い。言葉が無理なら何か別の方法で伝えなければ。僕はまだ死ねない。
ピリリリ
ピリリリ
ピリリリ
ピリリ…
ピーーーーーー
「移植した腎臓は至って正常です」
病院を出て花屋の前を通り過ぎる。今だに噂は消えてないのか、反対から来た男の子が緑澤を避けながら花屋に入っていく。俺はほんの少しばかり落胆したが、それでも歩みを進める。気がつけばだいぶ前に曲がるはずの道を通り過ぎてしまっていた。すると近くの大学から賑やかな音が聞こえてくる。「…そう言えば芳倉さんが帰り際に近くの大学が文化祭だとか言ってたな。」普段なら興味はないはずが、俺は正門の前にいた案内係の子からチラシを受け取っていた。校舎へと続く道の両脇には沢山の出店が建ち並び、美味そうな匂いが充満していた。僕はこの匂いが大好きだ。出店に駆け込む一般客と盛り上げる大学生達で会場は入り乱れて見てるだけで気分が苛立った。チラシを見ていた僕は急に足を止める。数ある出店やイベントの紹介ではなく緑澤の目に止まったのは、この大学の映画サークルの上映会があるという事。上映は13時20分から。題名は「人生はクリーム時々ソーダ味」監督の名は偶然にも俺と同じ緑澤曹達だった。脇腹が熱くなるのを感じた。
なぜか入口でクリームソーダを2つも頼んでしまい、1番後ろが2席空いていたのでそこに座る。席はほとんど埋まり観客で賑わっていた。名前が同じだとこっちまで変な気分になる。そわそわしてるうちに上映が始まった。内容は学生時代の仲間達との交流や青春と言った飲み物に、エッジの効いたユーモアを混ぜて、ちょっぴり恋愛の甘さも乗せた題名通りの爽やかなものだった。もうすぐ主人公が夢を叶える為に旅立つクライマックスシーンがやってくる。……やってくる?どうして分かる?そもそも始まる前から感じていた違和感や相反する感情や思考、自分が自分ではない感覚。それに既視感。なぜ俺はこの大学もこの映画の事も知っている?けど俺は撮った覚えなど一切ない。偶然名前が同じでもこれは知らない大学生が撮った作品だろ?
物語終盤、主人公の男が旅立つ直前に仲間達がお別れを告げていく。最後に主人公の前に彼女が近づき何か言いかけようとして言葉が詰まり出てこない。すると彼女は右の耳上をコツコツと叩いたのだ!その瞬間、ビリっと強い衝撃が全身を貫いた。脇腹から湧き上がる感情に堪えきれず、右の耳上を何度も強く叩いてしまう。これは彼女が困った時にする仕草だったのか!気がつけば観客から盛大な拍手と笑顔が溢れていた。ただ1人俺は誰かの涙を流していた。
大学を出た緑澤はクリームソーダを片手に空を見つめ何から始めるべきか考えていた。なにしろ外の世界は20年ぶりだった。
「…とりあえず、花でも渡しにいくか。」
そう言って妻が眠る場所へと歩き始めた緑澤の表情はどこか明るく爽やかな色に変わっていた。だが、その緑澤の中にある真っ赤なチェリーのような臓器に僕の記憶はまだ生きている。あの時僕を殺し損ね右の耳上を叩いていたヒョウカの歪んだ表情を死んでも忘れはしない。
極秘プロジェクト「W・クリームソーダ」
臓器移植による記憶転移が及ぼす人格修正実験
レシピエント8号 緑澤曹達 53歳
殺人罪
中度の精神疾患あり
20歳男性の右脳の一部と両眼、腎臓を同時移植。術後の経過観察に危険性はなく良好だったが実地検査中に適合者1号の白井ヒョウカを殺害しプロジェクトは中断。取調べを受けた8号は右の耳上を叩き「おれの頭の中にいる奴が殺した。」と供述している。