ブレーメン(タックン)
続きです。主人公が替わります。
自分の家がなんだかジオラマのように見えるのは、何かが嘘くさいからだろうか。
仕事から帰ってきた時、電気が点いているのはいいものだと思っている。仕事の日でなかったら、なお嬉しく感じる。でも、本物じゃない気もする。
そうか、家の灯りには色が付いていたんだ。LEDなのに、なんだかぼんやりと黄色っぽく感じる。家の中で誰かが動いているシルエットがちらっと見えて、何かを思い出す。
子供の頃見た、なにかの絵本だ。動物がシルエットになっていて、どこかを覗いていたのが印象に残っている。あれって、なんだっけかな? 有名な影絵作家の作品だろうか。
そう思って、一瞬だけ門の前で立ち止まる。それでまた「分不相応だけど、家を買ってよかったのだ」と思い何度も頷いてしまう。
なんだ、これでは「やっとのことでローンを組んでマイホームを買った若いお父さん」のようではないか。自分で吹き出しそうになり、チャイムを押す。ピンと鳴って、ポーンとよくある音なのだが押す度に新鮮に思えた。正確にいうと「とぅいん、くぉん」かもしれない。心地よい音だ。
家を買ってから十年間、ドアの外でこの音を聞くことはなかった。一人暮らしだったのだから、当たり前である。実験的に鳴らしてみたことはあるが、あとはしつこいセールスマンしか使うことはなかった。
「えぇ、家買っちゃったの?」
そのころまだ、存命だった母親は驚いてそういった。自分が生まれ育った家が、小じんまりとしたマンションだったせいもあるが、一軒家というものを持ってみたかった。父は僕が大学の時に亡くなったのだが、もう学費も払い終わっていたので問題なく卒業することができた。それから誰もが知っているというほどではないが、業界では名の通った印刷会社に勤めている。残念ながら、引っ越しする前に母は死んでしまった。
自称ダンサー、という名のダンス講師もどきのフリーターのヤマぴーと、三回転職しているイッちゃんにとっては僕は「神」のような存在らしい。総務という立場上、社内での位置付けは限りなく最下位に近いことを彼らは知らない。
「えぇ、家買っちゃったの?」
母と同じ声と、そっくりなアクセントで叔母さんはそう言った。叔母さんと叔父さんと、一日美は古いけれど一軒家に住んでいたので、持ち家というものに憧れる崇高なこの気持ちがわからないらしかった。
「たぶん、結婚、とか、いずれ、するかもしれないんで」
声に出してみると、そんな気がしてきた。それが当たり前のような気がした。三十歳になったら役所から「〇〇さんと結婚してください」と書いてあるハガキが来るような気がした。
結婚、とまでいかなくても「結婚相手が決まりました」と妙な宗教のように、お知らせが来るような気がしていた。
もちろん四十歳過ぎてもそんなことはなく、待てど暮らせどその気配はない。そう言った時には、恋人すらいなかった。恋人いない歴、何年だ? と考えてしまうほど間が空いてもいた。そしてそれは現在も続く。
家を持つことで、自分を鼓舞することになるのだと思ってもいたが、それすら近頃怪しくなってきた。
「え、タックン、結婚するの? おめでとう」
いきなり言われて、必死で否定した。
「え、違うの? え? これから探すの?」
散々、いろいろな人に言われた。頭の中では、子供は三人くらい欲しいから、三部屋くらい余分にあったほうがいいかもしれないなどと思っていた。ピアノやバイオリンを習うかもしれないし、親戚が増えたらカラオケもできると思ったので、防音の部屋も作ってしまった。組み立てたプラモデルとフィギアの置き場も必要だ。
今は、そのフローリングの部屋は大きな鏡が貼り付けられていて、ヤマぴーのダンスレッスン部屋と化している。二階にあるいちばん日当たりの良い部屋は、何故かイッちゃんが使っていて、キッチンの横の四畳半は叔母さんの部屋になっていた。プラモデル完成品は数点は部屋にあるが、あとはダンボールに詰まっている。
いつも夕飯を食べる炬燵のある部屋と繋がっている、一応リビングのような部屋には大きなソファがあって、そこにヤマぴーが寝ている。けれど、寒くなって炬燵布団が登場してから、そのまま炬燵で朝まで寝ていることが多かった。その姿はちょっとセイウチに似ている。言うと怒るから黙っていたら、イッちゃんに先を越された。
「おかえりなさい」
ドアの向こうで声がする。ヤマぴーがたまに居酒屋のバイトだったり、めったにないがイッちゃんが寄り道をする以外の日は、三人の声がする。けっこういい三重唱。鍵はいつもかかっていない。
「鍵、閉めたほうがいいのにな」
毎日、もごもごと言うが誰一人聞いていなかった。最近は田舎でさえ、物騒なのだから鍵は閉めたほうがいいに決まっている。最後に帰ってきてもそうでなくても、必ずチェーンとサムターンの両方鍵を閉めて「よし」と小さく言うのが癖だ。
前の叔母さんの家には、大人になっても年に二回盆と正月には遊びにいっていた。母と叔母さんが他のきょうだい達より仲が良かったのと、車で三十分くらいの距離だったせいもある。祖父と祖母の家にも近かったので、ついでに寄り易かった。
叔父さんが亡くなったのは、昨年のことだった。病気だとわかってから、あっという間で、見ていると悲しむ暇もない、という感じがした。自分も一人っ子で、母の葬式を出した身としては忙しさはどれほどのものか理解できた。イッちゃんも、叔母さんも飄々とした人なので、号泣したりはしていなかったけれど。
親孝行なるものを、全然していなかったような気がして、今も気に病む。昔から、そんなふうにくよくよしてばかりいる。
「なんかさぁ、おとーさんのこと好きとか嫌いとか、考えたこともなかったな」
イッちゃんは今でも、悲しいのか悲しくないのかよくわからないのだという。それは僕も同じだった。驚きが哀しみに変わる瞬間があるのだろうか。じんわり来るのだろうか。
それより、独りなのだ、と強烈に思った。一人ではなく独りぼっち。
「まだ、イッちゃんには叔母さんがいるから…」
寂しくないよね、と続けようとしたが、そう言ってしまうと寂しがっているのが悟られてしまいそうで、言葉を止めた。
何故、そんな二人が未来のスィートホームに来ることになったのか。
「うち、部屋、空いてるけど」
しかもたくさん空いているので、掃除がたいへん。言ってしまってから、少しだけ、しまったと思う。
叔父さんが亡くなって、ボロボロな家に叔母さんが一人で住むことになり、そこへ一人暮らしをしていた、イッちゃんが戻ることになった。時々雨漏りもするくらいボロで、壁も剥がれかけていた。リフォームする話が出た時、貯金が無くなってしまう、ということになり家屋を壊して土地を売ることになったのだそうだ。
「小さいマンションでも買おうかと…」
イッちゃんは結婚する気がないのだろうか。まぁ、それは大きなお世話だし、そんなこと聞けない。
「どっか借りてもいいけど、おばあさんになって追い出されると困るしね」
「早く結婚すればいいのに」
叔母さんは遠慮なく言い放つが、もう、早く、はなかった。遅すぎるくらいだ。
そのうち、「従妹同士でも結婚できるのよね」などと言い出して「ないないないない」と、僕とイっちゃんの両方に激しく否定されていた。
別にイッちゃんが嫌いなわけではないけれど、一度も恋愛感情を持ったことはなかった。それどころか「いいなぁ」とか「好き」とかいう感情すら湧いてこない。かといって道を歩いている、全く知らない人とは全然違うのだけれど。
日当たりがよくて、できたら小さな庭がついた一階で、駅から十分以内で、今住んでいるところからあまり離れていないところで、イっちゃんの会社まで電車で一時間以内。
「あそこはスーパーまで遠すぎるのよね」
「後から見たとこは、駅からすっごい遠いしなぁ」
「今の公園の花植えと、俳句の会に通えなくなっちゃう」
「なんとか荘とかって名前はあり得ない」
「西陽しか当たらないと嫌だ」
「ユニットバスも嫌」
様子を見に行った時に、二人は困っていた。終いにはぼろぼろの家のまま、二人とも死ぬか地震で壊れるまで住めばいいか、という話に纏まりかけていた。
「どうせ二、三年で地球も滅びちゃうしね」などという、恐ろしい予言までする始末だ。
叔母さんに作ってもらった豚汁と炊き込みご飯を目の前にして、言ってしまったのが、件の台詞だ。叔母さんの炊き込みご飯は美味い。
「部屋空いてるって、だってそれは嫁と子のための…」
途中まで言って、イッちゃんがつまった。この十年間、結婚しそうだ、とか、結婚するかも、とか婚約したとか彼女といい感じ、とかそんな話、一度も口にしたことがなかった。
そんなことを気にもしない、伯母さんが笑いながら言った。
「部屋空いてるったって、すぐ奥さんとか彼女に追い出されるんじゃ困るもんね」
それはバカにした笑いではなく、男前の自分がモテるのだと信じて疑わない微笑みだった。
数十秒間が空く。
「一年、いや二、三年はないと思う」
本当は、十年とか二十年とか、言っても良かったのだ。変な自信はあった。それを聞いて、叔母さんは言う。
「本当に? だったらしばらくお世話になろうかな」
その声と同時にイッちゃんは「まずいよ」と言った。
「ローン、まだ残ってるんで、家賃払ってもらえれば、助かる」
それは、どうでもいいことだったのだけど、なんとなくこの二人と一緒にいるのも悪くないか、と思っていたからだった。自分で思っていたより、僕は寂しかったらしい。
まさかそこへ、もう一人変な男が居座るとは夢にも思っていなかったのだが。
引っ越しには男手がいるということで、父方の従妹である、ヤマぴーこと大和が手伝いにきた。半年に一度くらい飲んだりするので、自分には馴染み深い顔である。でも、イっちゃんと叔母さんにとっては、ビジュアル的にテレビとかネットの中の人に見えるくらい、珍しいタイプの男だった。
背も高く、筋肉質といえなくもないが、全体に肉付きがよく、髪は肩まで伸ばしていてワカメのようにへろへろしていた。昔はそれがかわいかったのだが、くっきりした二重の目の童顔。そのくせ、おしゃれなのかわかりずらい無精ひげを生やしていた。服も大抵真っ黒で、隅々こだわっていそうな感じだった。シルバーのピアスも左右たくさんつけていて、邪魔そうなクロスのペンダントまで光らせている。高いのか安いのかさっぱりわからない。
「げ」と「へ」の間の音をイっちゃんは小さな声で発した。威圧感ありすぎだ。
「従妹の、春日大和くん。同じ年」と紹介する。
「ちぃーす」
屈託のない笑顔で、イっちゃんと叔母さんの前にずーんと近づいてきた。何人? ハーフ? ラッパーなのかダンサーなのか、芸能人かYouTuberかわからないが、ただものではな感じがする。
「晴れてよかったっすねぇ。がんばりましょー! あとで蕎麦茹でまーす」
ばかそうだ。見るからにバカそうだ、とその場の全員が思ったはずだ。けれどとりあえず、自分にない明るさがあってよかった、とも思う。
「従妹と従妹、といっても、ぜんぜん会ったことなかったよね」
ヤマぴーがイっちゃんに言う。
「そうですね」
イっちゃんの顔がやや引きつっていたが、ヤマぴーがニカっと子供のころと同じような笑顔で笑うので、つられて笑っていた。少しひきつっている。
大きな家具はほとんど処分していて、叔母さんが捨てたくないという茶箪笥を数点トランクルームに預けた。イっちゃんは女と思えないほど、身の回りのものが少なく、洋服以外は本と型落ちのノートパソコンくらいのものしかなかった。断捨離好きらしい。
家を建ててから、中学の同級生が二度泊まりに来たくらいで常に部屋が空いていた。
「なんだよー、こんなデカい家だったんなら、泊まらせてくれたっていいじゃないよ、タックンのケチ」
意図的に避けていたわけではないが、飲みに行った後でもそういう話にならなかった。わざわざ男を誘うのも面倒だったせいもあるし、仕舞ってある布団も干していなかった。
ほとんどのものをさくさく運んだ後、ヤマぴーはくまなく素早く家の中を見て回った。
「いいじゃん、ここ。日当たりもいいし、庭もあるし、すぐのとこにコンビニあるよね。駅もわりと近いよね」
「ああ」
いつもヤマぴーの何十分の一くらいしか言葉が出ない。考えているうちに、もう相手は次の言葉を喋りはじめている。少しモヤモヤするが、そのくらいのほうが自分には合っているのかもしれない。
「フローリングのとこ、やたら広くない? ダンスできそう。おまけに防音ぽい?」
「うん。将来を考えて…」
思ってはいたんだけど。
「カラオケもできるしね。あ、俺、最近は弾いてないけどギターとか持ってんだよね、やーほんとにいい家だね」
嫌な予感。
「今度泊まっていい? 遊びに来ていい?」
「う、うん。いいけど」
「わーい」
いいのか? 自分に聞いてみるけれど、それほど嫌でもなさそうだ。というか、これしか返事のしようがなかった。
「あ、でもイっちゃんたちに聞いてみないと」
言葉が終わらないうちに、くるっと回って何やら不思議な上下運動をしながらどこかへ行ってしまった。
「タックーン、ねぇ、ビール飲んでいーい?」
キッチンから声がする。
「あ、イっちゃん達も飲む? 泡は、入ってないか? なんか食べるもん買って来るか」
などと言っている。早くも一方的に打ち解けているらしい。
「俺、蕎麦打ち習ったことあンだよね。あ、道具がないか」
ヤマピーの笑顔は、やはり最強だ。たぶん、若い女の子にはモテないけれど。
叔母さんが買っておいた乾蕎麦を茹でて、居間の、布団のない炬燵で輪になって食べた。
「え? ダンサーなんですか?」
その体型で? という言葉を飲み込んだのがわかった。
「うん。ほとんど仕事ないんで、教室で教えたりしてる。あと、たまに友達の居酒屋手伝ったり」
それをフリーターというのではないか。齢四十二歳にしてフリーターとは、ある意味すごい。ニートとかフリーターとか言うと否定するのだけど。
「へー。でもいいなぁ、夢がありますよねぇ」
「夢しかないというかね。普通のサラリーマンって、俺、リスペクトするわ」
嫌味ではなく、そう思っているらしい。
それを横で聞いてた叔母さんが、突如、「三人合わせて百二十ニ歳」と、発見したように叫んだ。
「百二十六」と素早く訂正しておく。
「あら、しかも全員独身!」
「しかも恋人なし!」
ヤマぴーが中指を立てる。
「え、いないの?」
「そういう、キミはいるのかい?」
「い、いないけど」
僕が何年も聞けないことを、初対面にして聞けるのは、尊敬に値する。「しかも貧乏」とイっちゃん。
「しかも居候」と僕。
「あー、そういうことを言うかね。家賃は払うって」
まだ明るいのに、ビールの缶がどんどん増えて行った。気持ちのよいスピードだ。
でもって叔母さんが三人をじっと見ながらまた言う。
「なんか、似てないけど、家族っぽいねぇ」
母に似ている叔母さんを見て、ぼんやりと昔を思い出していた。
そうか、ブレーメンの音楽隊だ。動物が集まって、泥棒を退治して家に住み着く物語。
確か目的地のブレーメンには辿り着けなかったのだ。してみると、僕らは何を追い出してこの家に住み続けるのだろう。どこにも辿り着けないところだけは、似ているのかもしれない。
これより楽しい場所がどこかにあるというのか。まだそれを探すエネルギーが残っているのだろうか。
「犬がおとうさんで、猫がおかあさんで、ニワトリがタッチャンだね」
母がよく言っていたっけ。あともう一匹はなんだっけかな。オレンジ色の灯りに浮かび上がる、動物たちのシルエットを思い描く。
「あ、ロバだ」
思わず声に出す。
「え、老婆? 失礼しちゃう」
側で聞いていた叔母さんが眉間に皺を寄せた。