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達磨の体操  作者: まさきさほ
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貴族(サクミ)

だらだらと生きているうちに、四十代になってしまった三人(+母)のお話です。

上手く生きているような、そうでもないような、まだ若いような老成してしまったような、微妙な人達…。

たいせなつパズルの欠片(ピース)が二つ無くなって、新しいピースが二つ入った。

無くなった二つは父と恋人で、新しい二つは奇妙な同居人達だ。

通勤で利用する最寄り駅で電車を降りると、とぼとぼと歩く。けっこう好きな道だ。海が近いわけではないのに、湿度の高い時には潮の香がする。さびれた商店街に唯一残った肉屋の、コロッケの匂いもする。知らない人の庭ではあるけれど、季節の花の香もする。

のんびりとした雀やカラスの声を聴けたりもする。


商店街の端まで百メートルくらいしかなく、通勤時間帯以外は人影もまばらだ。日本全国に多発しているコンビニもそこにはあるけれど、昼時でさえレジに並ぶことはない。

ものすごく田舎ではないけれど、決して都会ともいえない、そんな町。街ではなく町。引っ越して来る前に住んでいたところも、そんな町だった。


その日は、そんな愛すべき通りの雰囲気を味わう余裕はなく、住処までの約十分の道がとてつもなく長く感じられた。

精神的に疲れていた。事務職なので、いつもながら肉体的にはほとんど疲れることはない。何ごともなく終わるはずの一日だったが、たった一言の言葉だけで、どっとポジティブエネルギーを吸い取られた。HPが0に近づき、帰る足取りが重くなる。


「サクミさんみたいなのって、独身貴族とかいうんですって。なんか、羨ましい」


後輩はニッコリ笑う。そもそもそれが、本当に羨んでいるわけではなく、嫌味に決まっているのだ。何が貴族だ。周囲の人達の、顔が引きつっているのがわかった。


 「あー、そこ地雷」という既婚者男性達の心の声がダダ漏れだ。

なら怒って言い返せばいいのだが、性分上それもできない。


「き、貴族だなんて。単に結婚してない、ってだけだよ」


そう言うのが精いっぱいだった。その後にその、かなり年齢の離れた女の後輩が、鼻にかかった声で何か続けて喋っていたのだが、全然頭に入って来なかった。

何故そこで、笑ってしまうのかな、と我ながら嫌になる。先輩だし、年上なのに。でもそんなふうに四十二年も生きてきたので、変えようがなかった。悲しいほど弱い性格(サガ)

この会社に入ってからほぼ十五年。それなのに、たいして仲のよい人もなく、花見と忘年会くらいしか宴席がないので、プライベートなつきあいは皆無といってよかった。入社した時からお局に相応しい年齢だったのだが、何故かずっと一番年下。といっても、五人ほどしか社員がいないし、女性は自分一人だけだった。


新しく入ったその子は、数日でおじさん連中どころか、初老の社長のハートまでがっちりと掴んでいた。それほど仕事ができる子だとは思わないが、なんとなく自分の足下が浸食されていくような気がしている、今日このごろ。


こんな時に気軽に誘える友人でもいればよいのだが、生憎思いつかずに帰宅した。

これが独り暮らしで、家の鍵を開け、電気を点けて、一人「ただいま」を言うオプションが付いていたなら、疲労も二割増しだっただろう。


「ただいまー」


家にたどり着くとすぐ、冷蔵庫を開けて缶ビールをぷちっと開けて一口飲む。正しくは安い発泡酒。糖質75%オフ。それを見ていた同居人のヤマぴーが早速言う。


「おかえり。イっちゃん、手ぇくらい洗いなよ」


あんたはオカンか。

実際、台所で鍋の用意をしていた正真正銘のオカンであるマコさんは何も言わない。そういうことに、全くといっていいほどうるさくないのだ。子供のころから落ちたキャンディを三秒ルールなどといって、口に放り込まれたりしていた。おかげで耐性菌はたくさん持っている。

ヤマぴーは男のくせに、家族でもないくせに、そんなことを言い上座にどーんと座って威張っている。大きいので威張っているように見えるだけか。よく見たら、座布団を二枚敷いている。痔かもしれない。


「ん」


鼻で返事をして、缶ビールを一旦炬燵の上に置くと、部屋に戻っていつもの擦り切れた黒のジャージと首周りの伸びたトレーナーに着替えた。戻ってくる途中で、仕方なさそうにぱちゃっと五秒で手を洗い、ヤマぴーの横にどかっと座った。四角いコタツの斜向かいという恋人座りだが、席が決まっているので仕方ない。


「コロナ、また流行ってるんだってよ。ちゃんと石鹸使ったほうがいいよ、あとほらO(オー)の何番か、忘れたけど、一年中あるし」


ヤマぴーは、そうい言いながらマコさんの運んだ具たちを、土鍋にちまちま入れている。ちゃんと煮えにくいものから、順に入れているようだ。「あ、下に葱が残っていた」「白菜ちょっと古くない?はしっこ茶色い」「あ、このテンテンはいいのか」などと呟いている。


「ってか、これ何鍋?」

「寄せ鍋ー」


 マコさんが台所から答えた。


「え、これ、鶏鍋じゃないの? マコさん、鶏肉以外のものが見当たらないんだけど」


 ヤマぴーが菜箸を振り回しながら言う。文句言わないの。


「そうじゃなくて、途中で、冷蔵庫の中にタラとか豚肉とか、海老とか、あるから入れようかと」


 マコさんが反論する。


「ケチってるわけじゃないのよー」

「うぅ、現在は鶏鍋」


 絶対いろいろ、特に肉類は追加することになることに、決まっているのだ。ヤマぴーは、少し太っている。大デブというほどではなかったが、明らかに身長の割には体重が重いという体型だ。当然この家の中で一番大食いであるし、BMI値も高いはずだ。身長もけっこう高いので、一言でいうとデカい。


「鶏むね肉と野菜だけだったら、ダイエット食なのにねぇ」


 おもむろに指摘すると本気で怒るので、こんな感じで言う。


「え、気付かない? 俺痩せたんだよ。最近」

「嘘、何キロ?」

「1.5キロ」

「気づくわけないじゃん。そんなの、ヤマぴークラスなら十キロ以上は痩せないと誰も気付かないよ」

「おだまり」


年下の女の後輩には、何も言えないのに、同じ年の異性に何でも言えてしまうのは何故だろう。遠いとはいえ、親戚だからだろうか。こうして話していると、後輩に言われた言葉も、父が逝ってしまったばかりだということも忘れてしまう。それよりも、目の前の鍋の中身の煮え具合のほうが気になるとは。


大和(やまと)という格好いい名前の、格好良いんだか悪いんだかわからない、恰好つけたがる男は、遠い親戚だ。血が繋がっているんだかいないんだか、どちらにもよくわかっていない。ただこの家の持ち主である、正真正銘、従妹のタックンこと巧の、父親の姉の旦那の兄弟の子供らしい。たぶん、私と血は繋がっていないのだと思う。考えると頭の皮膚が痒くなるので、遠い親戚、でお互いヨシとしている。


タックンの建てたマイホームに、何故だか、ヤマぴーとマコさんと現在四人で住んでいる。私たち親子かヤマぴーかの、どちらか片方なら同居は理解してもらえそうだが、これはけっこう周囲に説明がややこしい状態だ。

何故に、花も恥じらわない四十歳半ばにもなろうという独身男女が、同じ屋根の下に住むことになったのか、暮らしている人間にすらよくわかっていない。

「なんだ、このさえないオンナは」と心の中で、思われているのだろうなぁ、と思っている。

やまピーは「なんだ、このフリーターデブは」と心の中で、思われているのだろうなぁ、と思っている、かもしれない。


タックンはどちらも子供のころからよく知っているので、そんなことは思っていないだろう。ただ「暗いと思われているんだろうなぁ」とは自分でも思っているかもしれない。ややこしい。

マコさんは、たいして深いことは考えていない。よくいるタイプの能天気なおばさんだ。


「タックン遅いのかな? LINE見てないや」

「ちょい待ち。…あぁ、もうすぐ帰るって」


三人はLINEのグループで繋がっている。名前は「居候の会」。正しくは、こっちの親子は居候ではなく、きちんと家賃を払っている。ヤマぴーは売れないダンサーでフリーターなので、あるとき払いでいいらしい。食費だけは時々、ちまちまと渡しているらしい。

タックンが帰って、きちんと石鹸で三十秒間手を洗って、清潔そうな紺のトレーナーと緩めのデニムに着替えて、対面に座った。


「何鍋?」

「現在は鶏鍋…」

「何それ?」


また、マコさんがさっきと同じ説明をする。それきり酔っ払うまで、タックンはほとんど「へぇ」とか「ほぉ」とか「…」しか喋らないで、白菜と葱をちびちびと食べていた。別に菜食主義ではないのだが、飲み出すとあまり食べないのだった。当然痩せている。


しばらくして「あ」と言うと、部屋に戻ってどら焼きを一個持ってきてマコさんに渡す。


「叔母さん、これ」


タックンはきちんとそう呼んでいた。たぶん漢字で呼んでいるのだろう。昔からそういう人だった。Yシャツは全部クリーニングに出しているし、部屋着までアイロンをかけている、女子力の高さ。会社でもらったどら焼きを、鞄の中でぺしゃんこにしたりもしない。今箱から出したように、きれいだった。


それなのに、幼稚園のとき一日美(さくみ)とはどういう字を書くのかと聞かれて、覚えたての漢字を偉そうに書いたら、「これはイチニチビと読むんだよ」と間違ったことを言って、私を混乱させた。


その時から、四十年以上サクちゃんではなく、イっちゃんと呼ばれ続けている。それを真似て、知り合ってから間もないヤマぴーも同じ呼び方をする。

この年で、ちゃん付けで呼んでもらえるのはありがたいことかもしれないけれど、けっこうややこしい。母親は「サクちゃん」と呼ぶので、自分のことを「サクミ」と呼び捨てで呼ぶ人は、この世のどこにもいないと思うと少し寂しくなった。


二年前まで付き合っていた男が、唯一そう呼んでくれていたのを思い出す。情けないことに思い出すと、いつでも目がうるうるしてくる。

マコさんを除く三人は、かなり酒に強い。タックンは、いつまで経っても無表情なので酔っているのかよくわからなかったが、淡々と表情を変えずに飲み続けるところを見ると、一番強いのだろう。

ヤマぴーはテンションが元々高いので、あまり変わりはない。私だけが、いつもより饒舌になり声も大きくなるのでわかりやすいらしい。性質の悪い酒のみではないと思うが、その日は愚痴っぽかったと思う。


「聞いてくれるぅ?」


会社でこれくらい大きな声が出れば、スッキリもするのだろう。焼酎のグラスを持っていないほうの手で片手を上げた。皆さん、聞いてください。


「何?」


ヤマぴーが言って、タックンは片方の眉を少しだけ上げた。マコさんは、いつものようにぱぱっと食べるものを食べて、自分の部屋に戻って専用の小さいテレビを見ている。もうご飯粒まで食べたので、この残り物シリーズの鍋には用がないのだろう。

不思議なことに、余程リアルタイムで見たい番組がない限り、夜は居間のテレビは点いていないことが多かった。一人暮らしの時は見ていない番組が必ず流れていたのに。


「新人がさぁ、『サクミさんみたいなのってぇ、独身貴族っていうんですよねぇ?』とか言うんだよ」


 鼻にかかった喋り方まで、真似てみる。全部に濁音がついているみたい。


「独身貴族? 昭和かよっ」


「テレビのクイズかなんかで、やってたんじゃないの? ちょっと覚えるとすぐ使いたがるから。独身〇(まる)族の、〇には何が入るでしょう? とか言って」

「へえ。で、何が問題なの?」


ヤマぴーが言うと、タックンもうんうん、と首を縦に振る。


「嫌味じゃん。嫌味。しかも、いいですねぇ、だって」


 けっ、と吐き出すように言った。


「そうかなぁ、悪気ないんじゃない? 事実なんだし」


つい「きぃ」と奇声を上げてしまう。

自分だけは絶対に二十代に結婚すると、信じて疑っていないのだろう。もしかすると、もうその予定があるのかもしれない。


「てか、その子かわいいんだっけ?」


これは何度目かの同じ質問だ。かわいかったら全て許すというのだろうか。ルッキズムの鬼め。


「うーーん、微妙。なんか目とかデカいんだけど、配置的に間違っちゃったみたいな」


こういう時は、自分のことは思い切り棚に上げてしまって良いのだ。


「なんだ、かわいくないのか、そっか」

「いや、かわいくないとは…。てか、そこ重要? 性格はかわいくないし」


男の前では違うんだけどね。


「でも、若いんだよね? ね?二十三だっけ?」


 話の趣旨がどこかへ行ってしまっているヤマぴーと、何度も同じ後輩の話をする私。黙って聞いていて、たまーにちょっとだけ笑うタックン。いつもの光景である。


「でもさ」

「あー、タックンが喋った!!!」

「そりゃ喋るよ」


やまピーが叫んだ後、何何何、という顔で二人は彼に注目する。皆の衆、括目せよ。


「いいんじゃないかな、貴族なんだし」

「あ、ああ」

「まぁね」

「そういうマウント取ってくる子って、どっかでイッちゃんのこと恐れてるんだと思う」


山ぴーは言うが、その子はいつも「私の勝ち」っていう表情(かお)をしている。


「恐れてる…の?」

「そ。平民はいつも貴族を恐れるのだ」


三人は黙って、少しだけ考える。目の前で、千切れた白菜が煮詰まった汁の中でほよほよと頼りなく踊っていた。短くなった白滝が、バックダンサーばりにくるくる回る。

そっか、貴族か。悪くないかもしれない。結婚している同じくらいの年齢の人達は、何かと大変そうだ。というよりどの年代の人も大変そうである。独身、というのはマイナスイメージでもあるが、もしかすると特権だらけなのかもしれない。


「既婚者貴族、とは言わないもんね」


二人はうんうん、と頷いた。まぁまぁ、飲みなよ、とヤマぴーが言うと、タックンが気をきかせて、氷を取りに行った。


「そういえばさ、昔、これやらなかった? 【びんぼー、だいじん、おおだいじん♪】っていうやつ」


ヤマぴーは左手をぱぁにして右の人差指で、つんつんと左の親指から順に触れててゆく。


「やった! でもさ、今って、別に大臣って、すごいのか、って思わない? しかも、(おお)大臣ってなに?」


 独身、既婚、離婚、とか、LGBTQとかね。そっちのほうがリアルだ、などと思っていると、タックンが冷蔵庫の前で「氷がない」と呟いてうなだれている。


「えー、朝、水入れなかったの?」


管理者が決まっているわけではない。


「俺ん家じゃないもん。そこはタックンが…」


 急にヤマぴーが居候風を吹かせる。三人とも氷がたくさん入った、チューハイが好きだ。


「お願い、買ってきてぇぇ」

「角のコンビニで買ってきてぇぇぇ」


毎夜寝る前に、タックンがスーパーで汲んできた水を入れている。こちらはどんな氷でも構わないのだが、水道水では嫌なのだそうだ。製氷機能付きの冷蔵庫なので、誰かが水を入れないと氷ができないし、凍るまでけっこう時間がかかる。もちろん、日々水を調達するのもタックンの仕事だ。

氷、氷、と騒いでいるが、本当に買いに行かせるつもりではなかった。そういうノリが、泣きそうに楽しい。ただ騒ぎたいから騒いでみただけ。


「貴族じゃない。奴隷だ」


タックンは呟きながら、立ち上がり小銭入れをポケットに押し込んだ。

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